2008年05月18日

吉崎御坊

蓮如実伝北陸篇(第2部〔上〕)


蓮如上人が越前の国、吉崎の地に本願寺の別院を建てようと決めたのは文明3年(1471年)の5月の事でした。
丁度、越前の朝倉孝景が西軍から東軍に寝返って、越前守護職に任命され、越前の国の平定に取り組み始めた時期と一致しています。
当時、越前の国は斯波氏が守護職でしたが、斯波氏は家督争いを始め、応仁の乱が始まると、斯波義敏は東軍に付き、斯波義廉は西軍に付きます。
朝倉孝景は西軍に属して京都において戦っていました。ところが、乱の始まった翌年、嫡男の氏景だけを京に残して越前に戻ります。騒ぎ出した国人たちを静めるためとの名目でしたが、実は東軍より、寝返れば越前守護職に任命するとの内密の誘いを受け、寝返るための下準備のための下向でした。朝倉孝景は周到な下準備をして、文明3年5月、突然、東軍に寝返ります。
正式に越前守護職となった朝倉孝景は一乗谷を拠点に、府中(武生市)の守護所を攻め落とし、西軍側の国人らを次々に倒して行きます。
一方、加賀の国の守護は富樫氏でした。富樫氏も二つに分裂していました。両派は争いを繰り返していましたが、文安4年(1447年)に和解が成立して、加賀の国を二つに分け、南加賀の守護として富樫泰高、北加賀の守護として五郎の甥の富樫成春が治めるという事となります。ところが長禄2年(1458年)、北加賀守護の冨樫成春は荘園横領のため守護職を解任され、新しく北加賀の守護となったのが、ようやく再興された赤松家でした。
赤松政則は富樫成春方の抵抗にも屈せず、北加賀を武力を持って平定します。富樫成春は加賀を追い出され、亡命中に病死します。成春には、政親と幸千代という二人の子がありました。南加賀守護の冨樫泰高は富樫氏を一つにまとめるために自ら隠居して、家督を成春の嫡子、政親に譲ります。
応仁の乱が始まった時の加賀の国は、北加賀守護として赤松政則、南加賀守護として富樫政親がいて、共に東軍方でした。しかし、加賀の隣国の越前と能登は西軍に属し、また、赤松家によって加賀を追い出された成春の一党は、政親の弟、幸千代を立てて、加賀を取り戻すために西軍に付いたため、北陸地方では西軍が圧倒的に有利でした。
やがて、赤松政則は旧領の播磨を回復して、北加賀から出て行きます。当然、幸千代党は赤松家のいなくなった北加賀に入って来ます。富樫政親は東軍として、苦しい立場に追い込まれます。そんな時、西軍だった朝倉孝景が東軍に寝返ったのです。北陸における情勢は一変して、東軍の有利となって行きます。
文明3年の5月、蓮如上人は北陸に赴き、吉崎の別院が完成するまで、加賀二俣の本泉寺を本拠地にして布教活動を続けました。
7月の末に吉崎別院は完成して、蓮如上人は移ります。門徒たちから吉崎御坊と呼ばれ、本坊を囲むように多屋と呼ばれる門徒たちの宿坊が建ち並び、本願寺の中心として栄えていきます。そして、本願寺も東軍方として応仁の乱に巻き込まれていくのです。


陰の流れ第三部・本願寺蓮如


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タグ:本願寺 寺社
posted by 酔雲 at 13:27| Comment(0) | TrackBack(0) | 戦国時代>寺院 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする