2008年06月26日

織田信長と鉄砲

種子島銃


天文12年(1543年)8月、ポルトガル人によって種子島に新兵器の鉄砲が伝えられます。天文3年生まれの織田信長が9歳の時です。
6年後の天文18年、薩摩の島津貴久が城攻めに鉄砲を初めて使用します。同じ年に、15歳の信長は近江、国友の鉄砲鍛冶に500挺の鉄砲を注文しています。そして、天文22年、信長は妻の父親、美濃の斎藤道三と対面しますが、その時、供の兵に500挺の鉄砲を持たせています。
天文24年、甲斐の武田信玄は川中島の合戦で、300挺の鉄砲を使用したといわれています。
永禄7年(1564年)、豊後の大友義鎮が安芸の毛利元就との合戦で、1200挺の鉄砲を使用します。
元亀元年(1570年)、本願寺方に加わった雑賀衆は3000挺の鉄砲を所持していて、さすがの信長もその数には及びません。
天正元年(1573年)、近江の浅井氏を滅ぼした信長は国友の鉄砲鍛冶を支配下において、鉄砲の大量生産を命じます。
天正3年、長篠の合戦で、信長は3500挺の鉄砲を使用したといわれ、対する武田勝頼は500挺しか持っていなかったようです。


戦国草津温泉記・湯本善太夫 23.長篠の合戦


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2007年12月29日

長篠の合戦の戦死者

長篠の合戦図


長篠の合戦と言えば、武田勝頼が織田と徳川の連合軍に敗れて、武田の名立たる武将が数多く戦死した事で有名ですが、この合戦で群馬県吾妻郡の武士たちが多く戦死した事はあまり知られていません。
当時、吾妻郡の武士たちは武田の指揮下にあって、真田信綱・昌輝兄弟に従って長篠の合戦に参加しました。
草津温泉の領主で長野原城主の湯本善太夫、鎌原城主の鎌原筑前守、三島城主の浦野下野守、岳山城の池田甚三郎、甚四郎の兄弟、沢渡の富沢治部少輔、岩下城主の富沢但馬守の長男、勘十郎らが戦死して、雁ケ沢城主の横谷左近、植栗城主の植栗河内守が重傷を負ってしまいます。そして、彼らが率いて行った兵たちの半数以上が故郷に戻っては来ませんでした。負け戦だったため、主だった者以外は遺体の回収をすることもできず、彼らは長篠の地に眠ったままです。
なお、この合戦で戦死した武田家の主だった武将は、勝頼の叔父の武田兵庫助、信濃牧之島城主の馬場美濃守、上野箕輪城主の内藤修理亮、駿河江尻城主の山県三郎兵衛、陣場奉行の原隼人佑、侍大将の土屋右衛門尉と甘利郷左衛門、足軽大将の横田十郎兵衛と三枝勘解由左衛門で、吾妻勢を率いた真田兄弟も壮絶な戦死を遂げました。


戦国草津温泉記・湯本善太夫

戦国草津温泉記・湯本三郎右衛門


  
タグ:合戦
posted by 酔雲 at 14:47| Comment(2) | TrackBack(0) | 戦国時代>戦 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする