2008年10月06日

鎌原観音堂

鎌原観音堂



鎌原村は浅間山の北麓にある山村ですが、信州街道と沓掛道が鎌原村で交わっていたため、江戸時代は交通の要衝として栄えていました。
信州街道は大戸通りとも呼ばれ、中山道の高崎の城下から分かれて、下室田、三ノ倉、大戸の関所を通り、本宿、須賀尾、万騎峠を越え、狩宿の関所を通って鎌原へと来ます。鎌原から大笹の関所を通り、田代、鳥居峠を越えて信州の善光寺へと向かいます。
沓掛道は中山道の沓掛宿(中軽井沢)、あるいは追分宿から鼻田峠を越え、六里が原を通って鎌原に出て、吾妻川を渡って中居(三原)、前口、草津の湯へと続きます。
鎌原村は正式な宿場ではありませんが、宿場の機能を持った村でした。信州の飯山藩、須坂藩、松代藩の年貢米や武家荷物が鎌原村を通って江戸に行きました。草津温泉で消費される物資も鎌原を通って行きます。それらの荷物を馬の背に乗せて運ぶ、馬方(うまかた)稼ぎで村人たちは収入を得ていました。
村の中央に浅間山の中腹から引いた用水が流れ、その両側に街道が通って家々が建ち並んでいました。旅籠屋や茶屋もあり、旅人も行き来していました。上方(かみがた)から草津に行く者、江戸から草津に行く者が追分宿、あるいは沓掛宿からやって来ます。上方の情報も江戸の情報もいち早く伝わり、両方の文化を吸収して活気のある村でした。
観音堂は鎌原村を見下ろす西側の高台にありました。村の中央を走る表通りから、炭屋と旅籠屋の間にある通りへ曲がり、しばらく行くと「十日の窪」と呼ばれる窪地に出ます。そこに小さな稲荷社があって道は二手に分かれます。左に行けば西窪(さいくぼ)村、あるいは大前村、大笹宿へと行きます。正面の細い坂道を登って行くと途中から石段があり、その上に観音堂がありました。観音堂の裏側は深い原生林になっていますが、表側の眺めはよく、浅間山が見渡せました。

天明三年(1783年)4月9日、浅間山は噴火を始めます。しばらくは静かでしたが、5月15日に再び活動して、26日の午前10時に大爆発します。その音は大地に響き、噴煙は天高く昇り、鎌原村にも灰を降らせました。28日には噴火も治まって、村人たちは一安心します。
6月17日の午後8時、浅間山がまた噴火を始めます。18日は灰の混じった雨が降り続き、夜の8時に爆発して、鎌原村に焼け石を降らせます。焼け石は小石でしたが、3寸(約10cm)も積もりました。19日も灰の混じった雨が降り、昼過ぎになって雨もやみ、浅間山も静かになります。
6月27日の午前8時から浅間山がゴロゴロ唸り始めて、午後6時まで続きます。28日も一日中、噴火し続け、夜中には大爆発を起こして鎌原村に大量の砂を降らせました。29日も朝から浅間山は黒煙を吹き上げ、正午に大噴火を起こします。
7月になっても噴火は治まらず、日を追って激しくなり、大揺れで潰れる家や火事になる家も出てきます。
7月6日の午後2時に大爆発して、浅間山の裾野が燃え始めます。7日も噴火を続け、天地が壊れるかと思われるほどの大揺れが続きます。村人たちは土蔵の中に隠れて、震えながら無事を祈るしか、どうする事もできません。この日、軽井沢方面では灰や砂が五尺(約1m50cm)も積もります。
7月8日の朝、浅間山を見ると山から流れ出た黒い溶岩が山裾まで伸びているのが見え、まるで、山が黒い舌を出しているかのように見えました。午前8時に大揺れが来て、その後、少し静かになります。もう終わっただろうと村人たちは土蔵から出て、炊き出しを始めます。観音堂にお参りに行った人たちもいました。
午前10時15分頃、浅間山から強い熱風が吹いて来て、それから15分ほどして大爆発が起こります。土石流と火砕流が鎌原村を襲い、村はすっかり埋まってしまいます。その時、観音堂にいた93人が生き残り、500人近くの村人があっという間に埋まってしまいました。

当時の記録によると、鎌原村は466人が亡くなり、93軒の家が流失、馬は170匹が亡くなっています。小宿村では149人が死亡、長野原村では152人が死亡、軽井沢宿では186軒の家のうち70軒が潰れ、51軒が消失、65軒が大破とあります。


天明三年浅間大焼 鎌原村大変日記


鬼押出し熔岩流のナゾに迫る  つまごい  浅間  浅間山大噴火  天変地異の超暗号  
ラベル:浅間山
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2008年01月11日

国定忠次の仕置場

国定忠治慰霊碑


国定忠次が関所破りをした大戸の関所跡から南に500m程行くと忠次の仕置場跡(処刑場跡)があります。
嘉永3年(1850年)12月21日、国定一家の親分、忠次は磔(はりつけ)刑に処せられました。
磔刑は主殺し、親殺し、関所破り、偽金銀を作った者、密通して夫を殺した女など、封建制度そのものの維持に重大な反逆を犯した極悪人に対してなされる死刑です。忠次は確かに関所破りをしましたが、権威を失いつつある幕府が、権威を取り戻そうとして、忠次をみせしめにしたようです。それでも、時代の流れにはさからえず、忠次の死後、18年足らずで幕府はつぶれてしまいます。
磔というとキリストの十字架を思い浮かべる人が多いと思いますが、日本の磔は十字架ではなく、キの字型の柱に両手両足を開いた大の字に縛られて、左右から槍で突かれます。忠次は14回も突かれました。
竹矢来(たけやらい)で囲まれた仕置場は250人余りの者が厳重に警備を固め、忠次の最期を見るために1500人余りの見物人が集まったようです。

侠客国定忠次一代記


  国定忠治を男にした女侠  国定忠治の愛刀『小松五郎義兼』三点セット  
ラベル:侠客
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2007年12月23日

平兵衛池

平兵衛池


草津温泉から香草を通って、さらに山奥に入っていくと平兵衛池という静かな沼があります。

昔、草津温泉にあった湯本平兵衛という宿屋の十七歳になる美しい娘が五月の半ば頃、女中たちを引き連れてワラビ狩りに出掛けました。とある綺麗な沼のほとりで一休みした時、お嬢様は喉が渇いたので、水を飲もうと沼に近づきます。水を汲もうとした時、突然、青空が雲に覆われて、薄暗くなって来たと思ったら雨がポツリポツリと降って来ました。
女中たちは驚いて雨宿りができそうな木陰へと逃げ惑います。見る間に雨は激しくなって、雷光がきらめき、雷鳴が鳴り響きます。女中たちは悲鳴を挙げて木陰に固まりました。
辺りはすっかり暗くなって、沼は黒く、不気味な波を高く上げています。この世の終わりかと思う程の恐ろしい光景が三十分位も続きました。ようやく、雨も小降りとなって、黒雲も流れ去り、日が差して来ます。女中たちはホッと胸を撫で下ろして、皆、助かったと喜びあいます。ところが、お嬢様の姿が見当たりません。
さあ大変と女中たちは青くなって捜し回ります。お嬢様はどこにもいません。さては沼に沈んでしまったのかと嘆いていると沼の中央が明るく光り出しました。その光から波紋が広がって、波が汀に打ち寄せます。すると沼の中央から龍が現れました。龍は女中たちを見下ろして、お嬢様の声で、わたしはこの沼の主になりました。おまえたちも悲しまないで、早く帰って二親に知らせて下さいと言ったといいます。以来、平兵衛池と呼ばれています。

冗談しっこなし」で、草津を去る前に十返舎一九たちは芸者衆を引き連れて、平兵衛池に行って大騒ぎしますが、そこで一九はとんでもない目に遭ってしまいます。


ラベル:草津温泉
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2007年12月16日

義仲伝説の村、六合村世立

六合村世立


久寿二年(1155年)八月の十六日、木曽義仲の父親、源義賢は兄の義朝に疎まれ、武州の大蔵館(嵐山町)で義朝の長男、悪源太義平に殺されてしまいます。当時2歳だった駒王丸は家臣たちに守られて、上州の草津の湯に逃れ、後、入山村に隠れ住みます。やがて、成長した駒王丸は元服して義仲と名乗り、信州の木曽谷へと向かいます。義仲が世に立った村なので世立(よだて)と名付けられたといわれています。
寿永二年(1183年)五月、義仲は越中と加賀の国境、倶利加羅峠で平家の大軍を破り、七月には京の都に入ります。後白河法皇より朝日将軍の名を賜って、翌年の正月八日に征夷大将軍に任じられるますが、鎌倉の頼朝より派遣された従兄弟の範頼、義経の兵に敗れて、正月の二十日、近江の粟津ケ原(大津市)で戦死してしまいます。その時、義仲の子を身ごもっていた望月御殿助の娘がいました。娘は父親に守られ、雪山を越えて草津に逃げて来ます。そして、草津の奥、細野という地に隠れ住み、やがて、娘は男の子を産みます。
それから十年近くの月日が流れ、建久四年(1193年)八月、将軍となった頼朝が浅間山麓で狩りをします。将軍の案内役に召し出された御殿助は仕事振りを褒められ、名を問われますが、頼朝に敵対した義仲の家臣だったとは答えられず、名もない土民だと答えます。頼朝は詳しい詮索はせずに、御殿助に草津を領地として与え、湯本の姓と三日月の家紋を与えます。御殿助の跡を継いだのは、娘が産んだ義仲の子供で、代々、草津の領主として栄えて行きました。
冗談しっこなし」で、十返舎一九は読本の取材のために、草津温泉の歴史家の案内で、木曽義仲の伝説が残る入山村世立(現在は六合村世立)へと出かけています。


  旭のぼる  木曽義仲  木曽義仲(上)  巴御前
ラベル:草津温泉
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2007年12月10日

草津温泉 蟻の門渡りから香草へ

蟻の門渡りから常布の滝の眺め



草津温泉から信州へ行く道の一つに、香草(かくさ)を通って、芳ヶ平に出て、渋峠へ行く道がありますが、江戸時代、湯治客は常布の滝を見るために、弁当を持って香草まで出掛けました。江戸時代には香臭と書いたようです。
草津温泉膝栗毛・冗談しっこなし」でも、十返舎一九と喜多川月麿は香草に出掛けます。
草津温泉から山の中に入り、吊り橋を渡って、しばらく行くと蟻の門渡(とわた)りという難所に出ます。そこを通り抜けると香草に出ます。江戸時代には香草に茶屋があって、湯治客たちがひと休みしました。そこから常布の滝が見えますが、遠くの方に小さく見えるだけで、実際に行った湯治客はがっかりしたかもしれません。
「冗談しっこなし」では、蟻の門渡りで崖崩れがあって、湯治客が亡くなってしまいますが、そこに殺人事件がからんで、一九たちが見事に解決します。
昭和の初期から半ば頃まで、香草には「ホテル一井」の別館があって、当時の礎石が残っています。


   吊り橋  蟻の門渡り
ラベル:草津温泉
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2007年12月02日

「冗談しっこなし」の舞台、草津温泉

上州草津温泉略図1 / 喜多川月麿筆上州草津温泉略図2 / 喜多川月麿筆上州草津温泉略図3 / 喜多川月麿筆



群馬県の草津温泉の中央に湯畑がありますが、湯畑の滝が落ちている所の近くに草津で一番歴史のある日新館という旅館があります。
その旅館の御食事処の飾り棚の中に三枚続きの浮世絵が飾ってあります。江戸時代に「湯本安兵衛」と名乗っていた日新館の室内を描いた浮世絵です。若旦那らしい男性と湯上りにくつろいでいる女性たちが描いてあります。文化5年(1808年)頃の作品で、描いた絵師は美人絵で有名な喜多川歌麿の一番弟子と言われた喜多川月麿です。
月麿は師匠にならって美人絵も描きましたが、十返舎一九の滑稽本の挿絵も描いています。弥次さん北さんで有名な「東海道中膝栗毛」の挿絵も描いています。もしかしたら、月麿は一九と一緒に草津温泉に来たのかもしれないと思い、滑稽本のような小説「草津温泉膝栗毛・冗談しっこなし」を書いてみました。


草津温泉 湯畑の滝  草津温泉 旅館「日新館」


  マンガ日本の古典(29)東海道中膝栗毛
ラベル:草津温泉
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2007年11月23日

大峯山の行場、笙の窟

大峯山は修験道の本場として古くから、大勢の山伏たちが修行していました。吉野から熊野まで、奥駈け道という修行の登山道があって、数々の行場を巡りながら山伏たちは修行を積みました。
「陰の流れ第一部・陰流天狗勝」で、太郎は妻の楓を連れて吉野まで行き、大峯山に登りたいと思いましたが、大峯山は女人禁制なので、登るのを諦めました。
「陰の流れ第二部・赤松政則」で、師匠の風眼坊が大峯山にいると聞いて、太郎は飯道山から大峯山に向かいます。奥駈け道を熊野まで行き、さらに、山中を捜しますが、師匠には会えませんでした。その時、太郎は笙の窟で、千日行をしている老山伏と出会います。


シダンの窟  朝日の窟  笙の窟

笙の窟  笙の窟  笙の窟


陰の流れ《愛洲移香斎》第二部・赤松政則


ラベル:修験
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2007年11月16日

赤松満祐、最期の地、城山(きのやま)城

嘉吉の変で、六代将軍足利義教を殺した赤松満祐は領国の播磨に帰って抵抗しますが、幕府軍に敗れて、城山城で自害を遂げます。
城山城は赤松家代々の拠点でしたが、応仁の乱の頃に再興された時、当主の赤松政則は城山城を拠点とはせずに、置塩城を本拠地にしました。城山城は嘉吉の変で破壊されたまま放置されました。
「陰の流れ第二部・赤松政則」で、太郎たちは赤松満祐が隠したと思われる財宝を捜すために、城山城に登ります。


城山城跡からの眺め    城山城跡    城山城跡の供養塔

城山城跡の供養碑  亀池  亀岩


城山城

陰の流れ《愛洲移香斎》第二部・赤松政則
ラベル:室町時代の城
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2007年11月08日

赤松政則の本拠地、置塩城

嘉吉の変で滅ぼされた赤松氏は応仁の乱の直前に、赤松政則を当主に復興されます。そして、応仁の乱で、旧領の播磨の国を取り戻して、置塩に城を築いて本拠地とします。
「陰の流れ第二部・赤松政則」で、妻の楓を連れ去られた太郎は、楓を救うために仲間たちと一緒に播磨の国へと行き、置塩城下を舞台に、陰の術を駆使して活躍します。


城山(置塩城跡) 置塩城跡への登山道 置塩城三の丸跡

置塩城跡 置塩城跡 置塩城跡

置塩城本丸跡 富田山性海寺 性海寺の供養塔


置塩城跡に登ったのはもう20年も前の事です。当時は登る人もあまりいないようでしたが、現在は発掘調査も行なわれて、整備されているようです。


置塩城下

陰の流れ《愛洲移香斎》第二部・赤松政則
ラベル:戦国の城
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2007年11月01日

北畠氏の都、多気

「陰の流れ第一部・天狗勝」で、太郎と楓が北畠氏の本拠地、多気に行った頃、多気は伊勢の都と言われて、応仁の乱で焼けてしまった京都以上に栄えていました。
多気御所と呼ばれた北畠氏のお屋形跡は、現在、北畠神社となって、庭園だけが残っています。北畠神社の裏山が、詰の城だった霧山城です。


北畠御所の庭園 史跡霧山城跡 霧山城矢倉跡

霧山城鐘突堂跡 霧山城本丸跡 霧山城本丸跡


多気御所

陰の流れ《愛洲移香斎》第一部・天狗勝
ラベル:戦国の城
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2007年10月28日

飯道山から太神山へ

「陰の流れ第一部・天狗勝」で、山伏になった愛洲移香斎が百日行をした奥駈け道は、飯道山から阿星山、金勝山、竜王山を通って、太神山まで行く、片道およそ27キロの道程です。
飯道山の飯道寺、阿星山の阿星寺、金勝山の金勝寺、竜王山の先にある狛坂寺、太神山の不動寺、みな、山伏たちが大勢、修行を積んでいた修験の寺院でした。

飯道山行者堂  飯道寺僧院跡  阿星山頂

金勝寺  怪石奇岩  竜王山頂

怪石奇岩  狛坂寺  太神山頂


飯道山  太神山

陰の流れ《愛洲移香斎》第一部・天狗勝
ラベル:修験
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2007年10月22日

愛洲移香斎の故郷、五ケ所浦

五ケ所城跡の愛洲移香斎顕彰碑


「陰の流れ」を書く前に、五ケ所浦を訪ねたのは今からもう、二十年以上も前の事でした。
陰流の流祖、愛洲移香斎が生まれた五ケ所浦は静かな海辺の小さな町でした。五ケ所城跡に愛洲移香斎の顕彰碑があったように記憶しています。
私が愛洲移香斎に興味を持ったのは、上泉伊勢守の師匠だったからです。
剣聖と呼ばれる新陰流の流祖である上泉伊勢守は群馬県前橋市に生まれました。群馬県が生んだ最も偉大な人物なのに、当時、知名度はそれ程ありませんでした。私は上泉伊勢守を小説に書かなければならないと決心しました。伊勢守を語るには、その師である移香斎から書いた方がいいだろうと書き始めました。
移香斎の誕生から始めて、移香斎が日向の国で陰流を開眼し、上泉伊勢守と出会って陰流を伝授し、伊勢守がさらに工夫して新陰流を編み出し、大和の柳生家に伝えるという物語を想定して書き始めました。前編が愛洲移香斎、後編が上泉伊勢守という考えでしたが、書いて行くうちに、話がどんどん膨らんでしまい、第一部から第四部まで、四百字詰め原稿用紙にして、約五千枚を書き終えましたが、移香斎はまだ、数え年で26歳です。まだまだ、上泉伊勢守は生まれません。
この先、どれだけ長く続くかわかりませんが、書き続けなければなりません。ただ、今は書く余裕がなく、余裕ができたら、続きを書きます。


五ケ所浦、五ケ所城跡

陰の流れ《愛洲移香斎》
ラベル:取材
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