2007年10月04日

和泉式部

和泉式部日記(上)


和泉式部は中古三十六歌仙の一人で、情熱的な恋多き女性として有名です。
10世紀後半に生まれ、「源氏物語」を書いた紫式部より5歳位若いようです。
19歳頃、和泉守橘道貞と結婚して、翌年、小式部内侍を産みますが、道貞との仲は冷めてしまい、為尊親王との恋に落ちます。しかし、為尊親王は腫れ物を患って、26歳の若さで亡くなってしまいます。
悲しみに暮れていると、為尊親王の弟、敦道親王から声が掛かかります。敦道親王は和泉式部よりも年下でしたが、敦道親王の求愛を受け入れて敦道親王のもとへと行きます。その幸せも長続きしませんでした。敦道親王も27歳で亡くなってしまいます。
敦道親王の死から3年位経って、和泉式部は20歳年上の藤原保昌の妻となり、京都を離れて、保昌の任地、丹後の国へと赴きます。保昌は藤原道長の四天王と称された有能な武将だったようです。保昌の弟、保輔は和泉式部がまだ子供に頃に亡くなっていますが、盗賊の頭だったようです。
興味深い女性で、詳しく調べれば面白いエピソードが数多くありそうです。


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2007年07月22日

西行法師


西行の旅路


ねがはくは 花の下にて 春死なん そのきさらぎの もち月の頃

この歌で有名な西行法師は元永元年(1118年)に生まれました。平清盛と同い年で、源頼朝より29歳年上です。
出家前の名は佐藤義清(のりきよ)といい、藤原秀郷の九代目の子孫です。
鳥羽院の北面の武士でしたが、23歳の時に出家して、西行と号します。出家した理由はわかりませんが、鳥羽院の皇后だった待賢門院璋子(たいけんもんいんしょうし)との恋が絡んでいるようです。待賢門院は西行より17歳も年上ですが、余程、美しい人だったのでしょう。
その美しい人は崇徳天皇、後白河天皇を産んで、45歳で亡くなってしまいます。その頃、西行は奥州方面を漂泊していたようです。

なげけとて 月やはものを 思はする かこち顔なる 我が涙かな

百人一首に載っているこの歌は待賢門院を思い出して詠んだのかもしれません。
数々の名歌を残して、西行は歌の通り、2月の16日に亡くなったようです。73歳でした。
西行の没後、西行を慕う者は多く、連歌の第一人者である宗祇も、俳諧の第一人者である芭蕉もそうです。そして、幕府に仕えていた伊勢新九郎も西行を慕い、武士をやめて頭を丸めて旅へと出ます。

陰の流れ《愛洲移香斎》    ブログ版陰の流れ
タグ:僧侶 歌人
posted by 酔雲 at 11:17| Comment(0) | TrackBack(1) | 平安時代>人物 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする