2016年02月17日

岩櫃城

群馬県吾妻郡の岩櫃城は甲斐の武田氏の上州攻略の拠点となった山城です。
関東管領の上杉氏が小田原の北条氏に敗れて、越後に逃げた後、武田信玄は上州を我が物にしようと攻め寄せます。
初め、碓氷峠を越えて攻めますが、箕輪城の長野業政に遮られます。名将と謳われた業政を倒すのは難しいと考えた信玄は、次に鳥居峠を越えて吾妻郡に侵入します。先鋒を任されたのは真田一徳斎幸隆です。
一徳斎は鎌原氏や草津の湯本氏らを味方に付けて、岩櫃城を攻めます。当時、岩櫃城は斎藤氏が守っていました。管領上杉氏の支配下にあった頃、斎藤氏は吾妻郡の武士たちの中心となって活躍していましたが、管領がいなくなると情勢は変わって来ます。長野県に近い鎌原氏や湯本氏は、土地を守るためには攻め寄せて来る武田氏に従うより道はありません。
一徳斎は調略によって次々に敵を寝返らせ、最期には斎藤氏を滅ぼして岩櫃城の攻略に成功します。永禄6年(1563)10月の事でした。
その後は武田氏の持ち城として、沼田攻略の拠点になります。
沼田の倉内城は越後の上杉謙信の上州攻略の拠点です。そう簡単に落とせる城ではなく、一徳斎の生前にはかなわず、子の昌幸の代になって成功します。天正8年(1580)の事でした。
その二年後、武田氏は織田信長に滅ぼされ、岩櫃城は真田氏の持ち城となりました。

戦国草津温泉記・湯本善太夫

戦国草津温泉記・湯本三郎右衛門


戦国草津温泉記 湯本善太夫 -    戦国草津温泉記 湯本三郎右衛門 -
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posted by 酔雲 at 15:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 戦国時代>城 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年09月17日

織田信長の都、安土城下

天正4年(1576)、織田信長は琵琶湖のほとりの安土に新しい城の建設を始めます。岐阜城を長男の信忠に譲り、仮宿所に移って自ら指揮を執ります。
城の建設に伴って、様々な人たちが安土に集まって来て、城下町も形成され、何もなかった地が、日本中で最も注目される都に変身して行きます。
安土城の天主が完成したのは天正7年の5月11日、信長の誕生日でした。天主の絢爛豪華さに誰もが圧倒されました。信長は得意になって、訪れた客人たちを天主に案内します。まるで、この世の極楽が琵琶湖のほとりに出現したようでした。
城下の楽市にはあらゆる物が集まり、手に入らない物はないと言われ、キリシタンのセミナリオ(神学校)も建って、異国の音楽が鳴り響き、異国人の司祭や修道士たちが当然の事のように闊歩していました。
天正9年の7月には城内に信長自身を神として祀る総見寺が完成して、盛大な盂蘭盆会を催し、大勢の見物人を驚かせました。
天正10年の4月、甲斐の武田氏を滅ぼして凱旋した信長は、5月11日の誕生日を総見寺の祭りとして盛大に祝います。数日後には、徳川家康を安土に招いて、武田攻めの功績をねぎらいます。この時、自分の命があと半月余りだとは思いもしなかったでしょう。
6月2日、信長は京都の宿所であった本能寺において、明智光秀に攻められて遭えない最期を遂げます。
信長の死後、安土城下は信長に怨みを持っていた本願寺門徒らの襲撃に遭い、破壊の限りを尽くされ、哀れ、安土城も15日に燃え落ちます。
信長が作った都はたったの5年で姿を消し、華麗な天主は幻の城として語り継がれて行く事になります。

時は今‥‥石川五右衛門伝


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posted by 酔雲 at 12:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 戦国時代>城 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする