2008年09月06日

湖畔の宿




「湖畔の宿」は佐藤惣之助さん作詞、服部良一さん作曲、歌う映画スターと言われた高峰三枝子さんが歌って、昭和15年5月にコロムビアから発売されて大ヒットしました。
やがて、厳しい戦況となり、女々しくて感傷的な歌だと発売中止となってしまいますが、人々は歌い続けます。特に大陸に渡った兵士たちは故郷を思いながら、この歌を歌いました。勿論、沖縄の女学生たちも歌っていました。
この歌の替え歌で「タコ八の歌」というのがありますが、兵士たちの間で歌い継がれました。


   タコ八の歌

♪きのう召されたタコ八が
    弾(たま)に撃たれて名誉の戦死
 タコの遺骨はいつ帰る
    骨がないから帰れない
 タコのかあちゃん悲しかろ〜


佐藤惣之助さんは古賀政男さんと組んで数々の名曲を生んでいます。藤山一郎さんの「男の純情」「青い背広で」、ディック・ミネさんの「人生の並木路」、楠木繁夫さんの「緑の地平線」「人生劇場」などが2人でコンビを組んで生まれた曲です。
阪神タイガースの応援歌「六甲おろし」も惣之助さんが作詞をしました。沖縄の歌で「美わしの琉球」という歌がありますが、この歌も惣之助さんの作詞で、女学生たちに好まれ、寮歌として歌われていたようです。


沖縄二高女看護隊 チーコの青春       



麗しの銀幕スタア  高峰三枝子全曲集  信子  花・沖縄のうた  六甲おろし スペシャル
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2008年08月31日

新雪




「新雪」は月丘夢路さん主演の大映映画「新雪」の主題歌で、佐伯孝夫さん作詞、佐々木俊一さん作曲、灰田勝彦さんが歌って昭和17年8月にビクターから売り出されて大ヒットしました。
ハワイ生まれの灰田勝彦さんは俳優としても活躍し、「新雪」のほかにも戦時中に「燦めく星座」「鈴懸の径」をヒットさせています。
雪なんて見た事もない沖縄の女学生たちも、清らかな銀世界に憧れて、さわやかなこの歌をよく歌いました。


沖縄二高女看護隊 チーコの青春     



灰田勝彦ベスト  南国の夜〜灰田勝彦アーリー・デイズ 1936〜1944  灰川勝彦 大全集  青春歌年鑑 戦前編 4 昭和15年〜20年  昭和ジャズ浪漫
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2008年08月25日

可愛いスーちゃん




お国のためとは 言いながら
人の嫌がる 軍隊に
志願で出てくる バカもいる
可愛いスーちゃんと 泣き別れ

朝は早よから 起されて
ぞうきんがけやら はき掃除
いやな上等兵にゃ いじめられ
泣く泣く送る 日の長さ

乾パンかじる ひまもなく
消灯ラッパは 鳴りひびく
五尺の寝台 わらぶとん
ここが我等の 夢の床

夜の夜中に 起こされて
立たなきゃならない 不寝番
もしも居眠り したならば
行かなきゃならない 重営倉

海山とおく 隔てては
面会人とて さらになく
着いた手紙の 嬉しさよ
可愛いスーちゃんの 筆の跡


「可愛いスーちゃん」は作詞者も作曲者も不明の兵隊ソングです。
兵隊ソングには「海軍小唄(ズンドコ節)」「軍隊小唄(軍隊ストトン節)」「同期の桜」「ラバウル小唄」「ダンチョネ節」などがあって、辛い軍隊生活の中で気をまぎらすために兵隊たちの間に広まりました。
公然と歌うことはできませんでしたが、陸軍記念日などに行なわれた演芸会などでは、無礼講ということで、歌っても、とがめられなかったようです。
戦後、歌詞を変えて「練鑑ブルース」として歌われました。


沖縄二高女看護隊 チーコの青春


兵隊ソング  アキラの兵隊ソング / 小林 旭  不良番長 練鑑ブルース  
 

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2008年08月18日

蘇州夜曲




「蘇州夜曲」は西条八十さん作詞、服部良一さん作曲、渡辺はま子さんと霧島昇さんが歌って、昭和15年8月にコロムビアから売り出されて大ヒットしました。
この曲は、李香蘭さん主演の映画「支那の夜」の主題歌として作られ、映画の中では李香蘭さんが歌っています。
太平洋戦争が始まって、厳しい状況になると退廃的な感傷歌として発売禁止となってしまいますが、名曲を抑える事はできず、人々は歌い続けます。当時の女学生たちは好んで歌っていたようです。
西条八十さんは詩人ですが流行歌の作詞も多く、「東京行進曲」「東京音頭」「誰か故郷を想わざる」「若鷲の歌」など、ヒット曲の作詞をしています。
服部良一さんは淡谷のり子さんの「別れのブルース」、高峰三枝子さんの「湖畔の宿」、笠置シズ子さんの「東京ブギウギ」、高峰秀子さんの「銀座カンカン娘」などのヒット曲を作曲しています。
西条八十さんと服部良一さんのコンビでは「青い山脈」も大ヒットしました。


沖縄二高女看護隊 チーコの青春     


支那の夜/渡辺はま子懐かしのアルバム  李香蘭(山口淑子) 全曲集  李香蘭(山口淑子)/渡辺はま子  西條八十  服部良一 生誕100周年記念トリビュート・アルバム
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2008年08月12日

勝利の日まで




「勝利の日まで」はサトウハチローさん作詞、古賀政男さん作曲、霧島昇さんが歌って、昭和19年3月に日蓄(日本コロムビア)から売り出されました。
昭和20年1月、東宝映画「勝利の日まで」の主題歌となり、波平暁男さん、近江俊郎さん、池真理子さん、奈良光枝さんらが競ってレコードを出しました。
昭和20年4月1日、アメリカ軍が沖縄に上陸して、悲惨な地上戦が繰り広げられます。従軍看護婦となった女学生たちは病院壕の中で、「勝利の日まで」を歌い、日本の勝利を信じて、必死に働き続けました。


沖縄二高女看護隊 チーコの青春


霧島昇全集  日本映画主題歌大全集  日本の軍歌(一) 暁に祈る  
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2008年08月07日

愛国行進曲




愛国行進曲は昭和12年に一般公募して生まれた歌で、レコード会社が競って売り出し、国民の心を捉えて100万枚を突破する大ヒットになりました。
国民学校や中学校、女学校で行進する時には必ず、この曲が使われました。
作詞者は鳥取県の23歳の青年、森川幸雄さんで、詞が決まってから作曲の方も公募されて、元海軍軍楽隊長の瀬戸口藤吉さんに決まりました。瀬戸口藤吉さんは当時70歳で、「軍艦行進曲」の作曲者としも有名です。
レコードを出した歌手は霧島昇さん、灰田勝彦さん、藤山一郎さん、東海林太郎さん、上原敏さん、伊藤久男さん、二葉あき子さん、渡辺はま子さんたちでした。


沖縄二高女看護隊 チーコの青春


流行歌と映像で綴る懐かしの昭和  国民歌謡ラジオ歌謡大全集  オリジナル原盤による戦前・戦中歌謡大全集 激動の昭和  
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2007年08月09日

牛島満陸軍中将

沖縄に死す


牛島中将は沖縄戦の第32軍の司令官です。昭和20年6月23日早朝、長勇参謀長と共に自決して果てます。
鹿児島県出身で、明治39年、陸軍士官学校に入学、大正5年に陸軍大学を卒業します。
大正7年、野戦鉄道司令部参謀としてシベリアに出征し、活躍します。
シベリアから戻ると、陸軍歩兵学校の教官となり、その後、歩兵第三連隊の大隊長を務めます。
大正14年、母校の鹿児島県立第一鹿児島中学の配属将校を命じられ、三年間勤務します。その後は司令部付将校や教育部長などの地味な職を勤め、昭和8年、陸軍省高級副官に任命されて、陸軍大臣に仕えます。
昭和11年の二・二六事件後、その事件の首謀者が所属していた歩兵第一連隊の連隊長を命じられ、混乱していた部隊をまとめます。
昭和12年、陸軍少将に昇進して、鹿児島の第6師団歩兵第36旅団長に任じられ、中国戦線に赴きます。
昭和14年、中国での活躍によって陸軍中将に昇進し、関東軍第11師団長に任命されます。
昭和16年、満州の公主嶺学校の校長に任命され、翌年には陸軍士官学校の校長に任命されます。
そして、昭和19年8月、第32軍の司令官に任命されて、沖縄へと赴きます。57歳でした。
人徳のある将軍だったらしく、沖縄をひどい目に会わせた司令官だったにもかかわらず、非難する沖縄の人たちは少なく、懐かしむ人の方が多いそうです。


沖縄二高女看護隊 チーコの青春
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2006年09月10日

戦時中の流行歌

昭和12年7月、日中戦争が始まって、その年の9月、「露営の歌」が大ヒットします。「勝って来るぞと勇ましく〜」という歌です。
翌年の13年2月に「愛国行進曲」が大ヒット、4月には「日の丸行進曲」がヒットします。「露営の歌」も「愛国行進曲」も「日の丸行進曲」も一般から歌詞を募集して、作曲家が曲を付けました。「愛国行進曲」は学校の行進の時にも歌われて、終戦になるまで国民に愛されます。
昭和13年には、渡辺はま子の「愛国の花」、淡谷のり子の「雨のブルース」、楠木繁男の「人生劇場」、東海林太郎の「麦と兵隊」、映画「愛染かつら」の主題歌「旅の夜風」も大ヒットしました。
14年には、A面に「父よあなたは強かった」、B面に「兵隊さんよありがとう」が入ったレコードが40万枚売れます。共に一般から募集した歌です。陸軍省選定の「愛馬進軍歌」、海軍省選定の「太平洋行進曲」もヒットしました。
ディック・ミネの「旅姿三人男」、渡辺はま子の「何日君再来(ホーリー・チン・ツァイライ)」、東海林太郎の「名月赤城山」、田端義夫の「大利根月夜」、高峰三枝子と霧島昇の「純情二重奏」がヒットしたのも昭和14年です。
15年には、「空の勇士」、「紀元二千六百年」、「隣組」、「月月火水木金金」、霧島昇の「誰か故郷を想わざる」、高峰三枝子の「湖畔の宿」、伊藤久男の「暁に祈る」、渡辺はま子の「蘇州夜曲」、灰田勝彦の「煌く星座」がヒットします。「湖畔の宿」は女々しくて弱弱しすぎて時勢に合わないと発売中止になりますが、大陸に行った兵隊たちは故郷を想いながら隠れて歌っていたようです。
16年には、「めんこい仔馬」、「歩くうた」、「海の進軍」、田端義夫の「梅と兵隊」がヒットします。この年の12月、真珠湾攻撃があって、日米開戦となります。
17年には、「空の神兵」、灰田勝彦の「新雪」、小畑実の「婦系図(オンナケイズ)の歌」がヒット、18年には、小畑実の「勘太郎月夜唄」、灰田勝彦の「加藤隼戦闘隊」と「ラバウル海軍航空隊」、霧島昇の「若鷲の歌」がヒットします。
19年には、「勝利の日まで」、「轟沈」、「ああ紅の血は燃ゆる」、そして、終戦の年、昭和20年にヒットしたのは、「お山の杉の子」でした。

沖縄二高女看護隊 チーコの青春


『軍歌・戦時歌謡大全集「海ゆかば」』  時代の流れを敏感に反映した、軍歌・戦時歌謡『戦時歌謡大全集』  『我が心の軍歌・戦時歌謡大全集〜嗚呼友よ父よ…』
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2006年09月02日

ひめゆりの塔

ひめゆりの塔は、南風原から撤退して来た陸軍病院の第三外科が本拠地を置いた伊原の自然壕の上に立っています。
第三外科は初め、伝染病科でしたが、負傷兵が多くなるに従って、外科だけでは間に合わなくなって、内科が第二外科となり、伝染病科が第三外科となります。
第三外科の診療主任は那覇市出身の嘉手川軍医中尉でしたが、南部に撤退する前に、嘉手川軍医は他の部隊に転属となって、長崎県出身の鶴田軍医中尉が主任となります。
看護婦長は熊本県出身の宮崎婦長と那覇市出身の具志婦長がいました。二人の婦長の下に25人の看護婦がいました。
戦後、ひめゆり学徒隊と呼ばれるようになった師範学校女子部と第一高等女学校の生徒たちが陸軍病院に配属されたのは昭和20年の3月24日です。
第三外科に配属された生徒は23名で、師範学校女子部の生徒が16人、一高女四年生が7人いました。師範学校女子部の生物担当の玉代勢先生と音楽担当の東風平先生が引率していました。
南風原の陸軍病院壕で2人の看護婦と1人の生徒が直撃弾を受けて死亡し、伊原に移って来てから、伝令として山城の本部壕に行って死亡した生徒が1人います。
6月19日の朝、敵の攻撃を受けて、壕内にいた100人近くの人たちが亡くなってしまいます。この時、他の壕から移って来ていた生徒たちもいて、亡くなった生徒は42人もいました。
奇跡的に助かったのは、看護婦が6人、民間人の患者が1人、生徒が5人だけでした。

沖縄二高女看護隊 チーコの青春


ひめゆりの塔  あゝひめゆりの塔  ひめゆりと生きて  ひめゆりの塔学徒隊長の手記  ひめゆりの沖縄戦  ひめゆりたちの沖縄戦
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2006年09月01日

戦時中の物価

戦時中の貨幣は200円札(文様)、100円札(聖徳太子)、20円札(藤原鎌足)、10円札(和気清麿)、5円札(菅原道真)、1円札(竹内宿禰)、50銭札(富士山と桜)、10銭札(八紘一宇)、5銭札(楠正成)と10銭ニッケル貨、10銭アルミ銅貨、5銭ニッケル貨、1銭銅貨がありました。
アンパンが5銭、ジャムパンが10銭、幕の内弁当が40銭、豆腐が10銭、そばが16銭、カレーライスが30銭、天丼が50銭、うな重が60銭でした。カレーライス、天丼、うな重は贅沢品として、昭和16年から売る事を禁止されました。
たばこのゴールデンバットは昭和18年には15銭でしたが、昭和20年には35銭に値上がりしています。名前も英語はいかんと言うので、金鵄(きんし)と改称されました。
日本酒は一級酒が一升ビンで12円、二級酒が8円、三級酒が5円でした。5円といえば、アンパン100個分です。お酒は随分と高かったようです。ビールは大瓶が1円30銭でした。
汽車賃が上野から青森まで7円25銭、新橋から大阪まで5円95銭、門司から熊本まで2円65銭でした。
自転車が90円、レコードSP盤が3円23銭、朝日新聞の月極めが1円30銭、映画館の入場料が80銭、床屋も80銭、タクシー2kmも80銭でした。
雑誌の「中央公論」が71銭、「広辞苑」が3円90銭、時刻表が55銭、はがきが3銭で、封筒が7銭でした。
給料はどの位だったかというと、巡査の初任給が45円、大工の一日の手間賃が3円90銭でした。
軍人の給料は上等兵で月給10円50銭、一等兵が9円、二等兵は6円50銭〜9円。下士官になると曹長が32円〜75円、軍曹が23円〜30円、伍長が20円、兵長が13円50銭です。士官になると年俸制度になって、大佐が4,000円前後、中佐が3,000円前後、少佐が2,000円前後、大尉が1,500円前後、中尉が1,000円前後、少尉が850円になります。その上の少将が5,000円、中将が5,800円、大将になると年俸は6,600円です。そして、戦地に行くと給料も割り増しされます。

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2006年08月25日

ずいせん学徒隊

戦後、ずいせん学徒隊と呼ばれるようになった県立首里高等女学校は首里の桃原町にありました。
明治30年創立の女子工芸学校が、昭和18年に県立女学校になります。昭和の初め頃まで、首里城内の御殿を校舎として使っていたようです。
昭和19年の夏頃から首里高女は軍の被服工場になって、生徒たちは毎日、軍用の蚊帳を作ったり、軍服の繕いや兵隊の死に装束も縫ったりしていました。
昭和20年1月、四年生は石部隊(第62師団)の野戦病院に配属される事が決まって、看護教育が始まります。同じ頃、沖縄守備隊(第32軍)の司令部が首里に移って来て、大勢の兵隊たちが続々と集まって来ます。司令部の地下壕掘りの作業も始まり、緊迫した空気が漂って来ます。
3月になると山城病院で実地訓練に入ります。23日から敵の空襲が始まり、28日に昭和高女(梯梧学徒隊)の生徒と一緒に石部隊の野戦病院に配属されます。石部隊の野戦病院は崎山町にある通称ナーゲラ壕と呼ばれる人工壕でした。
司令部があるため、敵の攻撃が集中して、首里は壊滅状態になります。
5月下旬、いよいよ、敵が目前に迫って来て、司令部は南部に撤退します。司令部を追うように、石部隊の野戦病院も島尻の米須を目指して南下します。炸裂する艦砲弾と降りしきる雨の中を、生徒たちは泥まみれになって南へと移動しました。
6月の初め頃はまだ南部は平和でした。爆弾も落ちて来ないし、畑には野菜もいっぱいありました。小川に入って、髪を洗ったり、洗濯したりと楽しくやっていましたが、3日後には南部にも爆弾が落ちて来るようになります。
石部隊の野戦病院の本部壕は米須にありましたが、ずいせん学徒隊は伊原の壕に入ります。今、ずいせんの塔が立っている所です。
6月19日の早朝、近くにあった陸軍病院第三外科壕が敵の攻撃を受け、同じ日、ずいせん学徒隊のいる伊原の壕も攻撃を受けます。
ずいせん学徒隊は61名が入隊して、33名が亡くなりました。

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ずいせん学徒の沖縄戦  沖縄戦と民衆
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2006年08月22日

沖縄県知事 島田叡 

十・十空襲の後、県庁は焼け残ったにもかかわらず、県知事は普天間に避難したまま戻っては来ませんでした。内務省の勧告があって、11月の初めにようやく那覇に戻りますが、年末に公用のためと言いながら沖縄を離れ、その後、香川県知事になってしまいます。
沖縄は見捨てられた、もう知事も来ないだろうと県民は諦めていましたが、翌年の1月31日、新しい知事、島田叡(あきら)氏が赴任して来ます。
神戸二中、三高と野球部で活躍し、当時、大阪府の内政部長を務めていた島田氏は、「俺が行かなければ誰が行く」と死を覚悟して沖縄に赴きます。
島田知事は県民に疎開を勧めるために村々を巡り、気安く民家に立ち寄って、村人たちと一緒に酒を飲んだりして疎開の必要性を説いて回ります。当時の知事は天皇陛下に任命された偉い人で、一般の人たちと気楽に話をするなんて考えられませんでした。そんな知事が突然、村にやって来て、偉ぶる事もなく話をするので、村人たちは感激してしまいます。
食糧が不足している事がわかると自ら危険も顧みずに台湾に飛んで、米の調達もして来ます。
3月23日から空襲が始まり、4月1日に米軍が上陸して、爆弾が絶え間なく落ちて来る厳しい状況になっても、安全な壕の中に留まることなく、県庁職員たちの先頭に立って、避難民たちに適切な指示を与え、安全な場所に誘導したりと県民のために働き続けます。
5月22日、軍司令部は首里を捨てて南部に撤退します。島田知事も識名の壕から志多伯の壕に移り、さらに、座波の「秋風台の壕」、伊敷の「轟の壕」、そして、軍司令部のある摩文仁の壕へと移動します。
6月23日の早朝、司令官の牛島中将が自決した後、島田知事は摩文仁の壕を出て、消息を絶ちます。
沖縄県民のために最期まで戦った島田知事は「島守の塔」に眠っています。

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沖縄の島守  図説沖縄の戦い  日本最後の戦い
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2006年08月19日

戦時中の替え歌

テレビもなく、ラジオが唯一の情報源だった戦時中、流行歌の歌詞を変えて歌うのが、結構、流行っていたようです。
「同期の桜」は西城八十作詩の「二輪の桜」の替え歌で、「ラバウル小唄」は若杉雄三郎作詩の「南洋航路」の替え歌です。両方とも、元歌よりも替え歌の方が有名になっています。
昭和15年に発売された高峰三枝子の「湖畔の宿」はヒットしましたが、時節柄、女々しくて感傷的すぎるというので発売中止となります。それでも、歌い継がれて、「タコ八の歌」という替え歌ができます。
 ♪きのう召されたタコ八が、弾に撃たれて名誉の戦死、タコの遺骨はいつ還る?
   骨がないから帰れない、タコのかあちゃん悲しかろ〜
 この歌を戦場で兵隊たちがしんみりと歌っていたそうです。
昭和13年に大ヒットした「愛国行進曲」の替え歌はいくつもありました。
 ♪見よ、東条のはげ頭、ハエが止ればツルッとすべる〜
 と陰に隠れて鬱憤を晴らしていたようです。
 ♪見よ、ぶっ欠けの皿あけて、まだ食い足りぬ芋の粥〜
 と食糧不足を笑い飛ばして生きていたようです。
昭和19年の「ああ紅の血は燃ゆる」の替え歌は、
 ♪花もつぼみの女学生、ふくらむ乳房抱きしめて、
   君にみさおをささげるは、県立高女の面目ぞ、ああ紅の血は燃える〜
 学生たちが近くの女学校の名に替えて、よく歌っていたようです。
「ラバウル小唄」の替え歌では、
 ♪さらば沖縄よ、また来るまでは、しばし別れの涙がにじむ
   恋しなつかし、岸辺を見れば、月にほのかな苫の影〜
 というのもあります。
「ズンドコ節(海軍小唄)」の替え歌では、
 ♪粋な角帽も制服も、捨てて凛々しい軍服に、
   可愛いあの子は目に涙、知らずや航空操縦兵〜
 ♪腰の軍刀にすがりつき、連れて行きゃんせどこまでも、
   連れて行くのはやすけれど、女は乗せない戦闘機〜
 ♪武庫川ほとりの女学生、枕草紙で口説いたら、
   赤い顔してうつむいて、絣もんぺの紐をとく〜
 などがあります。
戦場で、あるいは内地で、歌い継がれて来た替え歌は、当時の人々の想いをたっぷりと含んでいます。

沖縄二高女看護隊 チーコの青春


『軍歌・戦時歌謡大全集「海ゆかば」』  時代の流れを敏感に反映した、軍歌・戦時歌謡『戦時歌謡大全集』  『我が心の軍歌・戦時歌謡大全集〜嗚呼友よ父よ…』
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2006年08月16日

沖縄陸軍病院第一外科 上原貴美子婦長

ひめゆりの生徒たちの手記に必ずといっていいほど出て来るのが上原婦長です。優しく、強く、働き者で、その上、美人の上原婦長は生徒たちに慕われ、患者たちに頼りにされ、兵隊たちからも一目置かれた、尊敬すべき女性でした。
上原婦長は1919年、糸満に生まれました。17歳の春、看護婦養成所に入って、一年後に看護婦の資格を取り、翌年の春、愛生病院の産婆養成所に入って、一年後に助産婦の資格も取ります。その後は愛生病院の産婦人科の看護婦として働きます。
昭和19年6月、陸軍病院の看護婦募集があり、応募して採用されます。外科に配属されて婦長に任命されます。
十・十空襲の時、那覇から南風原に移りますが、この時、上原婦長の適切な指示で、患者さんたちを無事に避難させる事ができたようです。
敵が沖縄に上陸して、艦砲も激しくなると、陸軍病院は南風原の国民学校から黄金森に掘られた病院壕に移ります。前線からは次々に重傷患者が運ばれて来て、看護婦たちは休む間もないほど忙しくなります。上原婦長は看護婦たちやひめゆりの生徒たちを励まして、自ら先頭になって仕事に励みます。
頭がよくて、新しい患者の収容や看護婦の配置や勤務体制など、てきぱきとこなしたようです。ひめゆりの生徒たちは勿論、看護婦たちも皆、上原婦長に憧れ、上原婦長と一緒なら何でもやれる、上原婦長のためなら命だって惜しくないと頑張ったようです。上原婦長が巡回に来ると、今まで唸っていた患者や怒鳴っていた患者も急におとなしくなって、皆、喜んで迎えたそうです。
南風原から南部に撤退した後も、上原婦長は看護婦たちを引き連れて、民間人の治療を行なっています。
上原婦長たちは波平の壕にいましたが、敵兵が近づいて来たので、6月19日の早朝、伊原の第一外科壕に移ります。そこも危険が迫って来ていて、すぐに第三外科壕(ひめゆりの塔)に向かいます。しかし、第三外科も、まもなく解散になると聞いて、山城の丘を目指します。大勢の避難民たちと一緒にさまよい歩き、木陰でひと休みしていた時、敵の攻撃に倒れて亡くなってしまいます。25歳の若さでした。
映画ひめゆりの塔で、一高女四年生を演じていた香川京子さんが、上原婦長の事を詳しく調べています。

ひめゆりたちの祈り

沖縄二高女看護隊 チーコの青春
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2006年08月14日

沖縄陸軍病院

第32軍直属の陸軍病院は熊本の陸軍病院において編成されました。病院長は広池軍医中佐で、那覇の開南中学校に本部が置かれました。
10月10日の空襲で本部のあった開南中学、外科のあった済生会病院、兵舎として使用していた第二中学も皆、破壊されて、南風原の国民学校に移動します。
翌年の2月、師範学校女子部と第一高等女学校の生徒が陸軍病院に配属される事が決まり、看護教育が始まります。米軍の攻撃が始まった3月23日の翌日、女学生たちは補助看護婦として南風原の陸軍病院に入隊します。
女学生たちの宿舎として三角兵舎が宛がわれますが、米軍の攻撃が厳しくなり、4月には黄金森に掘られた病院壕に移ります。米軍が上陸すると、前線から次々に重傷患者が運ばれて来て、女学生たちは看護婦と共に休む間もなく、過酷な条件のもとで看護活動を続けます。
5月の末、米軍の猛攻に対抗する事ができず、第32軍の司令部は首里から撤退して南端の摩文仁を目指します。陸軍病院も本隊を追うように、南風原から南へと移動となります。南部には自然壕がいくつもあり、病院本部は山城の自然壕へ、第一外科は伊原の自然壕へ、第二外科は糸洲の自然壕へと移ります。第三外科も伊原の自然壕に移りますが、第一外科とは別の壕で、現在、ひめゆりの塔のある壕です。
6月18日、解散命令が出て、女学生たちは陸軍病院から開放されますが、すでに敵兵が近くまで迫って来ていて逃げる所などありません。爆弾の降りしきる中を大勢の避難民たちと一緒に逃げ惑い、亡くなった女学生も大勢います。第三外科壕では解散の翌朝に米軍の攻撃を受けて、女学生や看護婦たち、80人余りが亡くなっています。

沖縄二高女看護隊 チーコの青春


ひめゆりの塔  あゝひめゆりの塔  ひめゆりと生きて  ひめゆりの塔学徒隊長の手記
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2006年08月13日

沖縄守備軍・第32軍

昭和19年3月、沖縄守備軍・第32軍が新設されます。それまでの沖縄は小規模な砲兵部隊がいくつか駐屯するだけの無防備状態でした。
その年の7月にサイパン島が玉砕すると、第32軍も強化されて、大陸(中国)から精鋭部隊が集まって来ます。司令官は渡辺中将から牛島中将に替わり、参謀長も北川少将から長少将に替わります。
原中将率いる第9師団(武部隊)、雨宮中将率いる第24師団(山部隊)、藤岡中将率いる第62師団(石部隊)、鈴木少将率いる独立混成44旅団(球18800部隊)、和田中将率いる第5砲兵隊(球9700部隊)が、沖縄本島に配置され、大田少将率いる海軍の沖縄方面根拠地隊も加わります。そして、納見中将率いる第28師団(豊部隊)が宮古島に、宮崎少将率いる独立混成45旅団が石垣島に、高田少将率いる独立混成第64旅団が奄美大島に配備されます。
住民を駆り集めて、各地で飛行場建設の突貫工事が行なわれますが、完成間近の10月10日の空襲で全滅してしまいます。さらに悪いことには、12月になって、第9師団が台湾に異動になってしまい、代わりの師団が来る事もなく、作戦を立て直さなければならなくなります。
第32軍の司令部は初め安里の養蚕試験場にありましたが、昭和20年1月に首里の師範学校付属国民学校に移転します。首里城の下には総延長1キロにも及ぶ司令部壕が掘られ、3月23日から始まる米軍との厳しい戦闘に突入して行きます。

沖縄二高女看護隊 チーコの青春


沖縄に死す  豪胆の人  沖縄悲遇の作戦  語り伝える沖縄(第3巻)
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2006年08月12日

沖縄の鉄道、ケービン

米軍が上陸した昭和20年の4月まで、沖縄には鉄道が走っていました。
軽便(けいべん)鉄道という小型の蒸気機関車で、那覇を基点に北は嘉手納まで、東は与那原まで、南は糸満まで走っていて、「ケービン」と呼ばれて親しまれていました。
大正3年(1914)、那覇から与那原までが開通し、大正11年に、那覇から嘉手納まで、大正12年に那覇から糸満までが開通します。およそ30年間、沖縄の人たちの足となって活躍しました。
現在、那覇駅の跡地はバスターミナルになっています。那覇を出た汽車は古波蔵駅で、与那原戦と嘉手納線に分かれます。嘉手納線は、与儀、安里、内間、城間、牧港、大謝名、真志喜、大山、北谷、桑江、平安山、野国の各駅を通って終点の嘉手納駅に行きます。
与那原線は古波蔵から真玉橋を通って、国場駅で糸満線と分かれ、一日橋、南風原、宮平、大里、そして、終点の与那原駅に着きます。
糸満線は国場から津嘉山、山川、喜屋武、稲嶺、屋宜原、東風平、世名城、高嶺、兼城、そして、終点の糸満駅です。
地方から那覇の学校に通っていた学生たちも利用していましたが、戦争が近づくにつれて、軍事専用になってしまいます。十・十空襲で、那覇駅は焼け落ちてしまいますが、すぐに復旧して、翌年の3月頃までは走っていました。やがて、艦砲弾や爆撃にやられて壊滅し、米軍に占領された後はバスの普及で、復活する事はありませんでした。
余談になりますが、大正15年から昭和37年まで、草津温泉と軽井沢を結んで「草軽電鉄」と呼ばれた軽便鉄道が走っていました。

沖縄二高女看護隊 チーコの青春


沖縄軽便鉄道は死せず  軽便鉄道
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2006年08月09日

十・十空襲

フィリピンのレイテ島を攻略する作戦を立てた米軍は、日本軍に邪魔されないように沖縄の軍事基地を前もって破壊しようと考えます。
昭和19年10月10日、晴れ渡った早朝の6時40分、米軍機が編隊を組んで那覇上空に現れて、小禄飛行場(現在の那覇空港)と那覇港に爆弾を落とします。
突然の事で、那覇の人々は敵襲とは思わず、日本軍の演習だと勘違いした人も多かったようです。やがて、おかしい事に気づいて、慌てて防空壕へと逃げ込みます。
敵機は次から次へと現れて、一時間半程、空襲は続きます。ようやく終わったとホッとしていると一時間後の9時20分、二度目の空襲が始まります。二度目の攻撃も飛行場と那覇港に集中し、日本軍も高射砲で対抗しますが、落ちる敵機はほとんどありませんでした。一時間程で二度目の空襲は終わります。飛行場も那覇港も壊滅状態となり、これで終わっただろうと皆、思いますが、11時45分から三度目の空襲が始まり、さらに、四度、五度と午後4時近くまで空襲は続きました。
四度目の攻撃から那覇の街にも爆弾や焼夷弾が落とされ、那覇の街は火の海と化してしまいます。さらに、逃げ惑う住民たちを狙って機銃掃射が追い打ちを掛けました。
那覇市民の死亡者は255人、負傷者は358人、軍人の死亡者は136人、負傷者は227人だったと記録に残っています。
この時、空襲を受けたのは那覇だけではなく、読谷飛行場、嘉手納飛行場、仲西飛行場、伊江島飛行場、瀬底島の船舶、渡久地の弾薬庫、運天港など軍事施設はすべて爆撃を受けて破壊されています。

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2006年08月06日

白梅の塔

沖縄戦で犠牲になった県立第二高等女学校の生徒たちが眠る白梅の塔は、いつも観光客で賑わっているひめゆりの塔とは対照的に、静かな森の中にひっそりと立っています。
県立第二高等女学校は琉球松の生い茂った松尾山という小高い丘の上にありました。白壁の美しい木造二階建ての校舎だったそうです。周りには知事官舎や那覇市長官舎、県立病院などがあって、静かな環境でした。
昭和19年の10月10日、那覇市は米軍の大空襲に見舞われて、街は焼け野原と化してしまいます。二高女の校舎も焼け落ちてしまい、授業は焼け残った建物を借りて続けられました。しかし、戦争が近づいて来るに従って、授業よりも勤労奉仕が多くなり、小禄飛行場の排水溝掘りや高射砲陣地の構築作業に駆り出される日々が続きます。
翌年の3月になって、四年生は補助看護婦として働く事に決まり、二高女は第24師団(山部隊)の第一野戦病院に配属されます。山部隊の第一野戦病院は八重瀬岳の山中に掘られた人工壕でした。
4月1日、米軍が沖縄に上陸すると重傷者が次々に前線から運び込まれ、二高女の生徒たちは休む間もなく働き続けます。まだ16歳の女の子が、兵隊の尿を取ったり、膿だらけの包帯を交換したり、傷口にわいた蛆虫を払い落としたり、亡くなった兵隊の死体を運搬したりと想像を絶する働きをしました。絶え間なく落ちて来る艦砲弾の下を掻い潜って、水汲みに行ったり、飯上げをしていたのです。
5月の末、沖縄守備軍は首里を捨てて南部へと撤退します。八重瀬岳にも敵兵が近づいて来て、6月4日、山第一野戦病院も解散になり、生徒たちは数人づつに分かれて、砲弾の炸裂する中、南へと逃げて行きます。逃げるといっても当てなどありません。追い詰められたあげく、生徒たちは悲惨な最期を迎えるのです。
戦後になって、師範学校女子部と第一高女は校友会誌の名前から、ひめゆり学徒隊と呼ばれ、二高女は校章の白梅から白梅学徒隊と呼ばれるようになりました。

※昭和19年の教育制度は義務教育の六年制の国民学校があって、その上に、男子は四年制の中学校、女子は四年制の女学校がありました。女学校の四年生は現在の高校一年生です。

「白梅の塔」の地図

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