2006年07月16日

天明三年の浅間山大噴火

今から220年余り前の天明3年(1783)、群馬県と長野県の境にそびえる浅間山が大噴火を起こしました。
その年の4月9日(旧暦)から始まって、何度も大きな噴火を繰り返し、7月8日に大爆発しました。北麓の群馬県側にある鎌原村は一瞬のうちに土石流と火砕流に埋もれてしまい、466人の村人が生き埋めになりました。
当時、鎌原村の人口は597人で、運よく生き残ったのは131人だけでした。131人のうち38人はよその土地に奉公に出ていて助かり、村に住んでいて助かったのは93人でした。
鎌原村を襲った土石流と火砕流はさらに北へと流れ、吾妻川を埋め尽くして利根川に流れ込み、太平洋まで流れます。
現在、草津温泉の入口になっている長野原町も、当時は長野原村といっていましたが、家屋はすべて流され、152人の村人が亡くなっています。
さらに、川原湯でも家屋が32軒流されて、14人が死亡し、長野原の上流の羽根尾村でも家屋63軒すべてが流され、27人が死亡、西窪(さいくぼ)村も家屋40軒すべてが流され、54人が死亡、大前村も家屋81軒すべてが流され、27人が死亡しています。
信濃側の中山道の宿場だった軽井沢では降ってきた火山灰や焼石で、70軒の家が潰れ、51軒の家が焼け落ちています。軽井沢から碓氷峠にかけて、2メートル近くも灰が積もって、交通は遮断されました。
鎌原村では7月の5日から続いている大噴火に怯えて、土蔵の中に避難しながら、眠れぬ日々を過ごしていました。7日の午前10時頃、いくらか静かになったので、村人たちは少し安心して土蔵から出て、自分の家の様子を見に行ったり、炊き出しをしたりしていました。村の高台にある観音堂では修験者の祈祷が続いていて、そこに拝みに行った者たちもいました。
10時半頃、浅間山の方から奇妙な音が聞こえて来ると思った途端、大量の土石流が山から押し寄せて来て、一瞬のうちに村は埋まってしまいます。50段余りあったという石段は15段を残して、下はすべて埋まっていました。その時、観音堂にいた人と高台の畑にいた人だけが生き残ったのです。
観音堂は現在も残っていて、地下で眠っている村人たちの冥福を祈っています。


天明三年浅間大焼 鎌原村大変日記


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タグ:浅間山
posted by 酔雲 at 11:08| Comment(2) | TrackBack(1) | 江戸時代>災害 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする