2008年07月26日

九十九茄子

九十九(つくも)茄子は天下一の名物茶器といわれるお茶入れです。作物茄子、九十九髪茄子、付藻茄子と書かれる場合もあります。
南北朝時代の武将、佐々木道誉が室町幕府3代将軍足利義満に贈った唐物のお茶入れで、義満は大層気に入って常に身近に置いていたといいます。
その後、代々将軍家に伝わりましたが、8代将軍義政は九十九茄子を山名政豊に贈ります。その後、商人の手に渡り、茶の湯の師匠の村田珠光が99貫文で手に入れます。その時「九十九茄子」という名が付いたようです。
村田珠光から越前の武将、朝倉宗滴に伝わり、宗滴は戦乱を避けるために商人に預けます。越前の商人(小袖屋)から京都の商人(袋屋)の手に渡り、松永久秀が1000貫文で手に入れたようです。
松永久秀は得意になってお茶会で、九十九茄子を見せびらかしますが、織田信長に召し上げられてしまいます。信長も九十九茄子を愛用し、本能寺の変の時も所持していました。
信長と共に灰燼に帰したと思われましたが、どういう経路をたどったのか、豊臣秀吉が手に入れます。秀吉は秀頼に伝え、大坂の陣の後、徳川家康が手に入れます。


信長の夢

織田信長の茶の湯

    

  
ラベル:茶の湯
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2008年06月20日

愛宕百韻

明智光秀は本能寺の変の前に愛宕山に登り、威徳院で連歌会を催し、その時、有名な発句「ときは今天が下しる五月哉」を詠みます。
脇句は威徳院の住職、西之坊行祐が、「水上まさる庭の夏山」と詠み、第三句は連歌師の里村紹巴が「花落つる池の流れをせきとめて」と詠んでいます。
その他の参加者は愛宕山の僧侶あるいは山伏の上之坊宥源、紹巴の弟子の里村昌叱と蘆箏斎(ろしんさい)心前と猪苗代兼如、光秀の家臣の東(とう)行澄、そして、14歳だった光秀の長男、光慶でした。
百韻連歌とは五七五の上句と七七の下句を参加者が交互に詠んで、百句で完成する連歌で、最初の句を発句、2番めの句を脇句、3番めを第三句と呼び、この三句が特に重要とされます。4番めから99番めまでを平句と呼び、最期の句を挙句と呼びます。
百韻連歌は二つ折りにした4枚の懐紙に記録され、1枚目を初折(しょおり)、2枚めを二折(にのおり)、3枚めを三折(さんのおり)、4枚めを名残折(なごりのおり)と呼びます。初折の表に8句、裏に14句、二折の表と裏に14句、三折の表と裏に14句、名残折の表に14句、裏に8句を書きます。
百句の内、光秀は15句詠んでいます。それを並べてみると次のようになります。

ときは今天が下しる五月哉 (発句)
尾上の朝け夕ぐれの空 (初折の裏、2句め)
月は秋秋はもなかの夜はの月 (初折の裏、9句め)
深く尋ぬる山ほととぎす (二折の表、4句め)
葛の葉のみだるる露や玉ならん (二折の表、11句め)
みだれふしたる菖蒲菅原 (二折の裏、4句め)
おもひに永き夜は明石がた (二折の裏、10句め)
おもひなれたる妻もへだつる (三折の表、4句め)
心ありけり釣のいとなみ (三折の表、8句め)
旅なるをけふはあすはの神もしれ (三折の裏、5句め)
朝霞薄きがうへに重なりて (三折の裏、13句め)
たちさわぎては鴫の羽がき (名残折の表、4句め)
しづまらば更けてこんとの契りにて (名残折の表、9句め)
縄手の行衛ただちとはしれ (名残折の裏、4句め)

何か謎でも隠されていないかと、しばらく睨んでみましたが、残念ながら何もみつかりませんでした。

信長の夢

時は今‥‥石川五右衛門伝

   


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2007年06月27日

京都の南蛮寺

完訳フロイス日本史2(織田信長篇2)


永禄2年(1559年)、九州から京都に上ったヴィレラ司祭はその年の末、革の棚に住んでいた後家さんの世話になり、翌年の1月は玉倉町に移り、さらに四条烏丸の酒屋に移ります。
仏教の盛んな京都でひどい目に会いながらも、何とか、将軍足利義輝に会う事ができ、砂時計を土産に布教の許可を得ます。6月に四条坊門姥柳町の民家を買い取り、改装して教会堂とします。ようやく、落ち着く場所が見つかったのです。
永禄8年1月の末、フロイス司祭がヴィレラを助けるために京都に来ます。ところが、5月、将軍義輝が殺されるとヴィレラとフロイスは京都を追放されて、堺に逃げます。それから3年後、織田信長が足利義昭を奉じて入京します。
永禄12年4月、フロイスは二条城を建築中の信長と会って、布教の許しを得て、破壊された教会堂を建て直して布教活動を再開します。
元亀元年(1570年)、オルガンティノ司祭が京都に派遣され、体調を崩していたヴィレラ司祭はインドに帰ります。
天正2年(1576年)、古くなった教会堂が、信長の庇護のもとに新築されます。三階建ての立派な教会堂は「ノッサ・スニヨラ・ダ・アスンサン(被昇天の聖母教会)」と命名され、人々からは「南蛮寺」と呼ばれます。
8月15日の聖母昇天祭はまだ工事中でしたが、オルガンティノ司祭によって最初のミサが行なわれます。翌年の正月には盛大な落慶式が行なわれ、大勢のキリシタン信者が集まりました。
天正10年、南蛮寺のすぐ側にあった本能寺で信長が殺されてしまいます。
豊臣秀吉の時代となり、初めの頃は秀吉も信長に従ってキリスト教を保護しますが、天正15年、キリスト教は禁止され、南蛮寺は打ち壊されてしまいます。

時は今‥‥石川五右衛門伝
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2007年04月15日

戦国時代の善光寺如来様

長野県の善光寺の御本尊、阿弥陀如来様は戦国時代、武田信玄と上杉謙信の川中島の合戦に巻き込まれて、しばらく旅に出ておりました。
天文22年(1553年)8月、第一回目の川中島合戦の時、上杉謙信は善光寺の仏像と仏具の一部を奪い取って越後の府中に移します。この時は御本尊の阿弥陀如来様は無事でした。
弘治3年(1557年)2月、甲斐の武田信玄は善光寺を占領して、善光寺の仏像や仏具を奪い取って甲府に運びます。この時、御本尊の阿弥陀如来様も甲府へと旅をなされ、善光寺は壊滅します。
永禄元年(1558年)9月、信玄は甲府に善光寺を創建して、善光寺如来様を御本尊になさいました。
天正10年(1582年)3月、武田家は滅亡し、甲府の善光寺にいらした善光寺如来様は織田信長に連れられて、岐阜へと移されます。その年の6月、本能寺の変で、信長の亡くなると、信長の次男、信雄によって清須に移されます。
いつの頃かわかりませんが、徳川家康は信雄と交渉して、善光寺如来様を清須から浜松へと移します。その後、家康は甲府に戻しています。
慶長2年(1597年)、豊臣秀吉は善光寺如来様を甲府から京都に迎えて、方広寺の御本尊になさいました。しかし、翌年、秀吉の体調が悪くなって、善光寺如来様の祟りとの噂が広まり、秀吉は信濃に送り返しました。秀吉の夢の中に現れて、信濃に帰りたいと告げたとも伝えられています。
40年余りの長い旅をして信濃にお帰りになった善光寺如来様は、徳川家康によって再興された善光寺に落ち着きました。以後、徳川幕府の庇護のもとに善光寺は復興を遂げました。

戦国草津温泉記・湯本善太夫
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2006年12月24日

天正10年(1582年)頃の物価

織田信長が殺された頃の物価を調べてみますと、米1石が京都で1200〜1500文、奈良では600〜800文です。京都は奈良の倍近く、物価が高かったようです。
1石は10斗で、1斗は10升です。1石というのは一升瓶100本分という事です。銭1000文は1貫文といいます。
大豆1石が京都で1000〜1300文、奈良で650〜800文。塩1斗が京都で100〜150文、奈良では70〜120文です。
当時、足軽の年間の給料は米にして1石8斗余りです。米1石が銭1貫文だとすると、1貫800文という計算になって、月給にすると150文になります。
職人一日の賃金が50文で、人足は20文です。人足と比べても、足軽は随分と安いように思いますが、食事と部屋代が引いてあるからかもしれません。
豆腐一丁が3文、饅頭も3文、鰯が2匹で1文、鯵が3匹で1文、1尺の鯛が15文、みかん10個が16〜20文、瓜10個が10〜30文、なす10個は1文です。
ローソク1本が10文前後、鎌一丁が25文、油1升が70〜120文、酒1升が10〜20文、布3反が250文、木綿1反が872文、足袋は1足、350文もします。
鉄砲は一挺が10貫文位だったようです。名物茶道具の九十九髪茄子が一千貫文、松本茶碗が五千貫文、三日月の葉茶壷が一万貫文でした。
ついでに付け足すと、信長が堺に要求した矢銭は二万貫文、本願寺に要求したのは五千貫文でした。

時は今‥‥石川五右衛門伝


戦国時代用語辞典  戦国時代の舞台裏  戦国時代の道具図鑑  図解戦国時代が面白いほどわかる本
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2006年10月07日

秀吉が憧れたカブキ者

豊臣秀吉が若かった頃、カブキ者というのが流行っていました。
人と変わった目立つ格好をして、奇抜な行動を取る事をカブくと言って、カブいている者をカブキ者と呼んでいました。
戦国乱世が生んだ一つの風潮で、明日の事はわからない、今がよければそれでいい。今を精一杯生きている証として、目立つ格好をして、人並み外れた行動を取っていました。
若い者たちはカブキ者と呼ばれる事を誇りにして、競って人と違う格好をしました。
髷をやたらと高くしたり、革でできた衣や袴を身につけたり、派手な模様の着物を着たり、三尺余りもある大太刀を腰に差したり、刀の柄を長くして、白や朱の組紐を巻き付けたり、それぞれが工夫を凝らして自己主張をしていました。
若き日の秀吉もそんな姿に憧れて、真似をしていましたが、さまにはならなかったようです。カブキ姿が最も似合ったのは織田信長でしょう。信長は生き方そのものがカブいていたと言えます。新しいモノにはすぐに飛びつき、それを完全に自分のモノにしていました。派手な催し物が好きで、年中、人々を驚かしていました。華麗な安土城はカブキの象徴と言えます。
やがて、出雲のお国が現れて、舞台の上で、男装してカブキ者を演じて見せます。カブキ踊りと呼ばれて、大いに受けました。これが、歌舞伎の元祖だと言われています。徳川幕府の時代となって、風紀上よろしくないと女歌舞伎は禁止され、歌舞伎は男の世界になってしまいました。

藤吉郎伝―若き日の豊臣秀吉


能に憑かれた権力者  遊女歌舞伎  人間の美術(8)新装版
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2006年06月17日

戦国時代の草津温泉

草津温泉は源頼朝から姓と家紋を授かったという湯本氏が代々領主として温泉を守って来ました。
記録によると明応4年(1495)に太田の金山城主、横瀬成繁が300人の供を連れて湯治に来たとあります。当時、300人を収容できる宿屋があったようです。
文亀2年(1502)には連歌師の宗祇と宗長が越後から来ています。宗祇は越後の守護だった上杉氏と仲がよく、上杉氏の紹介で草津に来ました。当時、草津の湯は越後でも有名だったようです。
大永6年(1526)には越後の守護代だった長尾為景が草津に来ます。為景は上杉謙信の父親です。
当時、上野の国(群馬県)は関東管領の上杉氏の支配化で、上杉氏が勢力があった頃は比較的、平和だったのですが、時の流れによって、上杉氏も新興勢力の小田原の北条氏に敗れてしまいます。国を追われた上杉氏は越後の長尾景虎を頼って、上杉姓と管領職を譲ります。長尾景虎は上杉謙信と名を改め、上野の国を取り戻すために関東に攻め入ります。さらに、管領のいなくなった上野の国を奪い取ろうと西からは武田信玄が攻めて来ます。
上杉、北条、武田の三つ巴の決戦が上野の国において始まります。上野の国の西に位置している草津温泉は武田の先鋒として攻めて来た真田幸隆に従います。
当時の草津の領主は湯本善太夫です。善太夫が武田信玄に白根山で採れた硫黄を献上した記録が残っています。硫黄は鉄砲の火薬を作るために使われたようです。善太夫は真田幸隆に従って、岩櫃城攻撃や、岳山城攻撃、白井城攻撃に加わって戦功を挙げ、草津の入口にあたる長野原の地を信玄より賜っています。
信玄亡き後、善太夫は武田勝頼に従い、長篠の合戦に参戦して戦死してしまいます。吾妻郡の多くの武士たちが真田氏に従って長篠の地で亡くなりました。
善太夫の跡を継いだのは甥の三郎右衛門で、三郎右衛門は真田家を継いだ昌幸に従って活躍します。
天正10年(1582)、武田家が織田信長に滅ぼされた後、織田家の家臣の丹羽長秀、堀秀政らが草津に来ています。
天正15年には、公家の近衛前久が草津に来て、歌を残しています。同じ年に、徳川家康の奥方で、豊臣秀吉の妹、朝日姫も来ています。翌年には秀吉の養子だった秀次も来ています。
豊臣秀吉自身も文禄4年(1595)に草津に来る予定で準備を始めていたのでしたが、急遽、中止となりました。秀吉が来るとなれば、宿屋も新築しなければならず、警備も厳重にしなければならず、色々と大変な事だったでしょう。秀吉の親友だった加賀百万石の前田利家は慶長3年(1598)に草津に来ています。

 草津温泉の年表

戦国草津温泉記・湯本善太夫

戦国草津温泉記・湯本三郎右衛門


草津温泉 ホテル一井  大阪屋旅館  草津温泉 ホテル望雲  草津温泉 昔心の宿 金みどり
ラベル:草津温泉
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