2008年08月02日

矢立



矢立は携帯用の筆記用具です。筆を入れる筒と墨を入れる墨壷が一体化していて、旅の絵師や連歌師、俳諧師には必需品でした。
鎌倉時代に考案されて、だんだんと小型化して行ったようです。当初は武士が使用していましたが、江戸時代の半ば頃には一般庶民にまで普及します。
十返舎一九も草津へと向かう旅の途中、矢立を利用して絵を描いたり、メモを取っていました。


草津温泉膝栗毛・冗談しっこなし     


    
タグ:道具
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2008年03月11日

一九と艶本「葉男婦舞喜」

艶本「葉男婦舞喜」


「葉男婦舞喜(はなふぶき)」は享和2年(1802年)に刊行された喜多川歌麿の艶本です。
上巻、中巻、下巻と三冊からなる半紙本で、序文と付文は道楽人と号した十返舎一九が書いています。
艶本は最初に序文が付き、何枚かの春画があって、付文と呼ばれる、絵とは直接関係のない艶笑小話が付いていました。
一九が書いた付文は上巻が「若後家の精進おちに納所坊の口を吸物」というタイトルで、若後家と納所坊主の話、中巻では「大雁高の矢次速もおくれをとる油断大開(へき)」というタイトルで、六尺余りもある大女の姫君と細工職人の話、下巻では「飯焚男のしめた顔は淫乱の巾着陰(ぼぼ)」というタイトルで、好き者の妾と屋根屋の話を書いています。
享和2年は「東海道中膝栗毛」の初編が売り出された年でもあり、一九が売れっ子作家になった記念すべき年になりました。


草津温泉膝栗毛・冗談しっこなし


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2008年03月07日

東海道中膝栗毛

東海道中膝栗毛


弥次さん北さんで有名な「東海道中膝栗毛」が発表されたのは享和2年(1802年)の事でした。作者は十返舎一九で、それまでに何作もの黄表紙を発表していましたが、話題になるほどの作品はありませんでした。
「膝栗毛」は黄表紙ではなく滑稽本で、一九は書き上げた原稿をかつて居候をしていた事もある蔦屋重三郎のもとへ持って行きますが、蔦重は引き受けてはくれませんでした。仕方なく、村田屋治郎兵衛のもとへ持って行き、挿絵も自分で描くという条件で出版してもらいます。村田屋もそれ程、期待してはいませんでしたが、それが意外にも大好評で、売れに売れました。
最初のタイトルは「浮世道中膝栗毛」で、弥次郎兵衛と北八の二人は神田の八丁堀の裏長屋を旅立ち、箱根まで行っています。一九として、その話はそれで終わるつもりでいましたが、これだけ売れるのだから、続編を書くべきだと村田屋に説得されて、次々に続編を書いて行きます。
当時の書物は正月に刊行されるのが普通でしたので、毎年、正月に続編が売り出されました。享和3年に「東海道中膝栗毛・後編」、文化元年(1804年)に「東海道中膝栗毛・三編」、文化2年に「東海道中膝栗毛・四編」、文化3年に「東海道中膝栗毛・五編」、文化3年の夏に「東海道中膝栗毛・五編追加」、文化4年に「東海道中膝栗毛・六編」、文化5年に「東海道中膝栗毛・七編」、文化6年に「東海道中膝栗毛・八編」が出版されて、完結します。
しかし、これで終わりません。文化7年刊行の「続膝栗毛・初編」で金毘羅詣でをして、文化8年の「続膝栗毛・二編」で宮島詣でをして、文化9年の「続膝栗毛・三編」から文化13年の「続膝栗毛・八編」まで木曽街道を歩き、文政2年(1819年)の「続膝栗毛・九編」で善光寺詣でをして、文政3年の「続膝栗毛・十編」で上州草津温泉へ行き、文政4年の「続膝栗毛・十一編」で中山道を歩いて、文政5年の「続膝栗毛・十二編」で、弥次さん北さんはやっと江戸に帰って来ました。
初編が発表されてから完結するまで、実に20年も掛かりました。
葛飾北斎が「東海道五十三次」を最初に発表したのが享和元年で、その後、享和2年、文化元年、文化2年、文化3年、文化7年と発表しています。そして、天保4年(1833年)、歌川広重の傑作「東海道五十三次」が発表されます。


草津温泉膝栗毛・冗談しっこなし


絵図に見る東海道中膝栗毛  「膝栗毛」はなぜ愛されたか  十返舎一九  弥次さん喜多さんのお笑いにほんご塾  東海道を歩く  
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2007年07月04日

文化5年(1808年)の江戸歌舞伎

歌舞伎と江戸文化


当時、活躍していた役者たちです。

◇五代目市川団十郎(1741〜1806.68歳)‥‥‥1796年11月、向島に隠居して、成田屋七左衛門と名乗っています。俳号は白猿、狂歌名は花道のつらね。
◇七代目市川団十郎(1791〜1859.18歳)‥‥‥六代目団十郎が1799年に若死にしてしまったため、1800年11月、10歳で七代目を襲名します。小柄でしたが芸域は広く、お家芸の荒事に優れ、歌舞伎十八番の制定者です。
三代目中村歌右衛門(1778〜1838.31歳)‥‥‥1808年3月、江戸に下って、時代物、世話物、舞踊と、あらゆるジャンルの善、悪、男、女のあらゆる役柄を演じて『兼ル役者』の称をとります。屋号は加賀屋。
◇三代目坂東三津五郎(1775〜1831.34歳)‥‥‥変化舞踊で歌右衛門と競い、和事を中心とした世話物に技量を発揮します。屋号は大和屋、俳号は秀佳、坂三津と呼ばれます。三代目三津五郎を襲名したのは1799年でした。
◇五代目松本幸四郎(1764〜1838.45歳)‥‥‥鼻が高くて鼻高幸四郎と呼ばれます。屋号は高麗屋、俳号は錦升。
◇三代目尾上菊五郎(1784〜1849.25歳)‥‥‥当時は尾上栄三郎と名乗っていました。1810年11月、松助と改め、1814年11月、三代目菊五郎を襲名します。屋号は音羽屋。
◇五代目岩井半四郎(1776〜1847.33歳)‥‥‥1804年、粂三郎を改めて、五代目半四郎を襲名します。美貌の上に眼千両と謳われたほど大きな表情に富んだ眼の持ち主です。屋号は大和屋。
◇四代目瀬川菊之丞(1782〜1812.27歳)‥‥‥三代目菊之丞の養子で、1807年11月、瀬川路之助を改めて四代目を襲名します。俳号は猿屋路考。屋号は浜村屋。
◇四代目市川団蔵(1745〜1808.64歳)‥‥‥早替わり演出を考案しました。
◇四代目沢村宗十郎(1784〜1812.25歳)‥‥‥当時は沢村源之助を名乗っています。俳名は曙山、屋号は紀の国屋。1811年11月、市村座の顔見せで四代目宗十郎を襲名します。

草津温泉膝栗毛・冗談しっこなし
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2007年03月08日

博奕打ちの世界

博奕打ちの一家には親分、子分、孫分、兄弟分、叔父分、隠居、そして、三下奴(さんしたやっこ)の身分がありました。
親分は貸元(かしもと)とも呼ばれ、縄張りを持って一家を張ります。
子分には親分と直々に盃を交わした手作りの子分、先代の子分でしたが、改めて、盃を交わした譲りの子分、よその一家から来て子分になった者は世話内の子分と呼んでいました。世話内の子分は跡目を継ぐ事はできなかったそうです。孫分は子分の子分の事です。
兄弟分には五分の兄弟分、四分六の兄弟分、七三の兄弟分、二分八の兄弟分の四種類ありました。五分の兄弟分は対等のつきあいで、お互いに「兄弟」と呼びあいます。四分六の兄弟分は兄が六分、弟が四分で、兄は弟に対して「兄弟」と呼び、弟は兄を「兄貴」と呼びます。七三の兄弟分は兄が七分、弟が三分で、兄は弟を「お前」と呼び、弟は兄を「兄さん」と呼びます。二分八の兄弟分は兄が八分、弟が二分で、兄は弟を「お前」と呼んで、弟は兄を「兄様」と呼びます。弟分の格が上がる時は盃を改めます。
叔父分には叔父貴、叔父御、叔父様の三種類あって、叔父貴は先代の親分の弟分、叔父御は先代の親分と五分五分の兄弟分、叔父様というのは先々代の親分の兄弟分だったようです。
三下奴は子分の盃をまだ貰っていない若者で、子分の盃を貰うには半年から二、三年の修行を積まなければなりませんでした。
賭場での役割は代貸(だいがし)、中盆(なかぼん)、出方(でかた)というのがあって、代貸は親分の代理として賭場の管理をします。中盆は勝負の進行をはかり、出方はお客の接待に当たります。三下奴は履物の番をしたり、使い走りをしたり、見張りに立ちました。
国定忠治は無宿者を殺して武州に逃げ、大前田栄五郎の弟分の藤久保の重五郎のもとで三下奴の修行をします。高萩の万次郎と出会って、万次郎の弟分になります。上州に戻ると、栄五郎の兄弟分の百々村の紋次の子分になって、紋次の跡を継いで、百々一家の親分になります。そして、本拠地を百々村から国定村の隣村、田部井村に移して、国定一家を名乗ります。

嗚呼美女六斬

侠客国定忠次一代記
タグ:侠客
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2007年03月04日

日光例幣使道、木崎宿と木崎音頭

木崎宿は飯盛女という女郎が大勢いた事で有名でした。
国定忠治が処刑される五年前の弘化2年(1845年)には旅籠屋が29軒あって、飯盛女は183人もいたそうです。越後から売られて来た娘が多かったようです。
吉田屋という旅籠屋におとらという飯盛女がいて、忠治のお気に入りでした。忠治が捕まって木崎宿に送られた時、おとらが差し入れをしたと伝えられています。
飯盛女たちが唄い始めて流行し、盆踊りに唄われた唄に「木崎音頭」というのがあります。「木崎音頭」は「八木節」の原型だと言われています。

蒲原郡柏崎在で、小名を申せば、あかざの村よ
雨が三年、日照りが四年、都合あわせて七年困窮
新発田様への年貢に迫り、姉を売ろうか、妹を売ろか
姉はジャンカで金にはならん、妹を売ろうと相談なさる
妹売るにはまだ年若し、年が若くば年期を長く
五年五ヶ月、五五二十五両、売られ来たのはいといはせねど
顔も所も知らない方に、足をからむの手をさしこめの
五尺体の五寸のなかで、もくりもくりとされるがつらい

国定忠次外伝・嗚呼美女六斬

侠客国定忠次一代記
タグ:街道
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2007年02月25日

日光例幣使道

日光例幣使道は中山道の倉賀野宿から日光壬生道の楡木宿までをつなぐ街道で、「例幣使」と呼ばれる朝廷の勅使が、徳川家康を祀る日光東照宮の大祭へ向かうために、毎年4月に通りました。
例幣使の一行は60人前後で、1647年から1867年まで、一度も中止される事なく続いたというから驚きです。1846年だけ、天皇が亡くなったために一月遅れになったようです。
上州(群馬県)の中山道倉賀野宿から玉村宿、御料宿、柴宿、境宿、木崎宿、太田宿を通って、野州(栃木県)に入り、八木宿、梁田宿、天明宿、犬伏宿、富田宿、栃木宿、合戦場宿、金崎宿、楡木宿で日光壬生道に合流します。
例幣使は毎年、4月1日に京都を発ち、11日に例幣使道に入って玉村宿に泊まります。次の日、柴宿で小休止して、15日に東照宮に着きました。東照宮の祭りは15日から17日までの3日間行なわれました。
例幣使は天皇が正月の三が日に神前に供えた御飯を乾燥させて乾飯(ほしいい)にした物を持参して、それを菊の御紋の紙に包み、各宿場で宿泊代として配りました。庶民たちはありがたがって大切にして、何にでも効く薬として服用したようです。
金の御幣を東照宮の神前に供えて、去年供えた古い御幣は下げますが、その御幣を細かく刻んで紙に包み、「東照権現様御神体」と書いて、帰途、江戸に寄った時に、大名たちに配ります。大名たちはお礼として相当額の金銭を贈りました。
身分は高くても収入源の少なかった公家たちも例幣使に任命されて、それをやり遂げると裕福な生活ができたようです。
供の者の中にはたちの悪い輩もいたようで、金品をせしめるためには手段を選ばす、宿場の者たちを困らせました。毎年の事なので、宿場の者たちも諦めて、無理難題を言われる前に心付けを差し出していました。

嗚呼美女六斬
タグ:街道
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2006年09月05日

信州追分宿の飯盛女

飯盛女とは宿場にいた下級娼婦の事です。宿場女郎とも呼ばれます。
浅間山の南側を通る中山道には軽井沢宿、沓掛宿(中軽井沢)、追分宿と三つの宿場があって、どこにも飯盛女はいました。中でも、追分宿の飯盛女が一番、評判がよかったようです。
追分宿には60数軒の旅籠屋があって、飯盛女のいる宿屋は50軒近くありました。有名だったのは「油屋」と「大黒屋」で、30人以上の飯盛女を抱えていました。次いで、「永楽屋」「甲州屋」「小林屋」とあって、20人前後を抱えていました。
旅人が通ると客引きも激しく、甘い言葉で誘って、強引に引っ張り込みます。旅人の方も、旅の恥はかき捨てだとばかりに、鼻の下を伸ばして旅籠屋に引き込まれます。旅人たちだけでなく、近在の若い衆も馴染みの女郎を作って通っていたようです。
越中や越後、美濃や三河の方から売られて来た娘が多く、多額の借金を抱えながら辛い仕事に耐えていました。一度、この世界に入ってしまうと抜け出すのは難しく、大抵の女たちは宿場から宿場へと流れ、最期には無縁仏として葬られました。
飯盛女の揚げ代は昼間が200文、泊まりが500文だったようです。

天明三年浅間大焼 鎌原村大変日記


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2006年08月03日

浮世絵師と艶本

枕絵、春本、わ印(わらい本)などと呼ばれている艶本は、当然のごとく、幕府に禁じられていましたが、これも当然のごとくに、裏に隠れて売られていました。版元としては売れる物を放っておくはずがなく、絵師としても腕の見せ所だと好んで描いていました。
有名な浮世絵師は皆、描いていたといってもいい程です。
夢見るような可憐な乙女を描いていた鈴木春信も可憐な春画を描いています。何となく、ほのぼのとした春画です。
洒落本で有名な戯作者の山東京伝も北尾政演と号していた若い頃に何冊か描いています。京伝の艶本には実在の遊女や狂歌師たちも登場しています。
美人絵を描かせたら天下一品と言われた喜多川歌麿は勿論、描いていて、数々の名作を残しています。折帖仕立ての「歌まくら」「ねがひの糸ぐち」「絵本小町引」などは歌麿の代表作と言ってもいい程です。
様々な絵に挑戦して数々の名作を残した葛飾北斎も艶本に凝っていた時期がありました。「東にしき」「富久寿楚宇」「万福和合神」などの傑作を残しています。大ダコが出て来る有名な絵は「喜能会之故真通」の中の一図です。
北斎の艶本を継いだのが、北斎を慕っていた渓斎英泉です。粋で婀娜っぽい女を描かせたら英泉の右に出る者はいないでしょう。英泉を語る時、艶本を抜きには語れません。初めの頃の艶本は北斎色が強いですが、だんだんと英泉らしさが出て来ます。「春野薄雪」「夢多満佳話」「万寿嘉々見」「色自慢江戸紫」などが代表作と言えるでしょう。
北斎に刺激されて、歌川派も豊国が、「逢夜雁之声」を発表すると、豊国の弟子の国貞、国虎、国安、国直、国芳たちが次々に艶本を発表します。「東海道五十三次」を描いた歌川広重でさえ、艶本を残しています。

「草津温泉膝栗毛・冗談しっこなし」創作ノート 艶本一覧

「草津温泉膝栗毛・冗談しっこなし」のあらすじ

草津温泉膝栗毛・冗談しっこなし


絵入春画艶本(えほん)目録  春画と肉筆浮世絵      
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2006年07月28日

「義経千本桜」のいがみの権太

いがみは歪みの事で、心が歪んでいる悪者を意味します。今ではあまり聞きませんが、昔はワルガキの事を権太と呼んでいたようです。いがみの権太というのは、心のひねくれたワルガキという意味です。
今でも歌舞伎で上演される「義経千本桜」はもともとは人形浄瑠璃の名作です。1747年の11月に大坂の竹本座で初演されて、翌年の5月に歌舞伎として江戸の中村座で初演されました。
竹田出雲、三好松洛、並木千柳の合作で、この三人は、「菅原伝授手習鑑」「仮名手本忠臣蔵」「雙(ふたつ)蝶々曲輪日記」などの名作を多く残しています。
序幕が「堀川御所の場」、二幕目が「伏見稲荷の場」、三幕目が「渡海屋の場」と「大物浦の場」、四幕目が「下市村の場」、五幕目が「釣瓶鮨屋の場」、六幕目が「芳野山道行の場」、大詰が「川連法眼館の場」です。
いがみの権太は四幕目と五幕目に登場します。1825年の市村座で、二代目関三十郎が演じ、1828年の市村座で、七代目市川団十郎が演じ、1831年の市村座で、三代目尾上菊五郎が演じ、1847年の河原崎座で、六代目松本幸四郎が権太を演じています。
権太は主役ではありませんが、権太を演じる役者次第で、成功したり失敗したりするので、名立たる名優たちが競って演じています。

天明三年浅間大焼 鎌原村大変日記


義経千本桜  ほんとうはおもしろいぞ歌舞伎義経千本桜  義経千本桜(下巻(2部))  芝居絵に見る江戸・明治の歌舞伎
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2006年06月14日

江戸時代の歌舞伎

江戸時代の文化といえば、歌舞伎を除く事はできません。芝居見物は庶民たちにとって一番の娯楽で、当時の流行も歌舞伎役者たちから発信されていました。有名な役者たちは、今で言えば大スターで、井戸端に女たちが集まれば、噂話に花を咲かせていました。男たちも役者の声色を真似たり、粋な着こなしを真似していたようです。
江戸での一番人気はやはり、市川団十郎でしょう。文化4年(1807)の資料によると、当時、活躍していたのは蝦蔵を名乗っていた五代目です。六代目が22歳の若さで、8年前に亡くなってしまい、隠居する予定を返上して舞台に立っていました。すでに67歳です。七代目はまだ17歳でしたが、五代目の跡を継いで、後に名優になります。
団十郎に継いで人気があったのが、鼻高幸四郎と呼ばれた五代目松本幸四郎です。渋い演技で人気があったようです。
三代目坂東三津五郎も演技がうまく、坂三津(ばんみつ)と愛称されて人気者でした。
三代目尾上菊五郎はまだ24歳で、栄三郎を名乗っていました。若い娘たちに人気があってキャーキャー騒がれていたようです。菊五郎を襲名するのは7年後の事です。
関西では三代目中村歌右衛門と四代目沢村宗十郎が有名で、共に江戸に出て来て人気者になります。
女形(おんながた)では五代目岩井半四郎と四代目瀬川菊之丞が美貌を競い合っていました。
団十郎の三枡紋とかまわぬ模様、菊五郎の格子模様とよきこときく模様、三津五郎の縞模様、歌右衛門の芝翫(しかん)縞、半四郎の鹿の子模様と岩井茶、菊之丞の路考茶など、歌舞伎役者から流行したものも数多くあります。

江戸歌舞伎文化論

「草津温泉膝栗毛・冗談しっこなし」のあらすじ

草津温泉膝栗毛・冗談しっこなし


歌舞伎ヒーローの誕生 大江戸歌舞伎はこんなもの 歌舞伎人名事典新訂増補 江戸の役者たち新装版 江戸時代の歌舞伎役者 江戸歌舞伎文化論 歌舞伎の男たち、女たち 芸の秘密
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2006年06月10日

文化年間(1804〜1818)の物価

江戸時代の通貨の単位は金は両、銀は匁(もんめ)、銅銭は文(もん)です。
江戸時代でも初期の頃と末期の頃では違いますが、文化年間の頃は1両が銀64匁で、銭にして6貫400文です。1貫文は1000文です。1両は4分(ぶ)で、1分は4朱です。わかり辛いですが、16朱が1両になります。
流通していた貨幣は1両小判、1分金、5匁銀、南鐐と呼ばれた2朱銀、銅銭は1文銭と4文銭しかありませんでした。文化年間以降に、2分金と2朱銀と1朱銀ができます。1文銭は400枚を紐で通したものを、1本と呼んでいました。銭400文は1朱に相当します。
日雇い人夫の賃金が1日124文、下女は1日66文でした。
そばやうどんが16文、安い地酒が1升100文、上等な酒は1升250文もしました。塩が1升28文で、豆腐1丁は24文、いわし10匹が28文、さんま10匹が76文だったようです。
銭湯は10文で、髪結床は32文、女髪結は100文、着物の洗濯代が32文です。
深川の船饅頭と呼ばれた最下級の遊女が50〜100文、岡場所の遊女が400〜600文、吉原の小店の遊女が2朱、吉原の花魁になると色々としきたりがあって、三度は通わなければならず、その度に1〜3両は必要だったようです。
記録に残っている草津温泉の宿代は7日間で150〜300文です。この宿代には食事代は含まれません。当時は自炊が当たり前で、宿に着くと、鍋や釜などを借り、米や味噌、醤油などを買って自炊します。お金に余裕のある人は料理屋から仕出しなどを頼みます。食事時間になると野菜や漬物、豆腐や油揚げなどを売りに来たようです。
草津の温泉は酸が強くて、金貨や銀貨、刀も変色してしまうので、すべて宿屋で預かるという習慣になっていました。湯治客は通い帳に買った物を書いて置いて、帰る時にまとめて払っていました。

 文化5年の草津温泉の様子

『草津温泉膝栗毛・冗談しっこなし』のあらすじ

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タグ:物価
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2006年06月06日

江戸時代の草津温泉

上州の草津温泉は江戸時代の初期まで真田家の家臣だった湯本家の支配地でした。
湯本家は鎌倉時代より代々草津の領主として、草津の湯を守って来ました。戦国時代の領主だった湯本善太夫は武田信玄に仕えて、長篠の合戦で戦死しています。善太夫の跡を継いだのが湯本三郎右衛門で、真田昌幸の家臣となって活躍します。三郎右衛門の子供たちは大坂の陣に出陣しています。
1665年、跡継ぎがいないとの理由で湯本家は断絶させられます。そして、1681年には沼田の真田家も改易され、草津の地は幕府の直轄地、天領となります。領主だった湯本家の子孫たちは安兵衛家、平兵衛家、角右衛門家の三家に分かれて宿屋を経営します。
安兵衛の宿屋は湯畑の北側、滝の落ちている先に、平兵衛の宿屋は湯畑の東側、現在の大東館の所に、角右衛門の宿屋は湯畑の西側、今のゲームセンターの辺りにあったようです。一等地に宿屋を持っていた湯本三家を中心に草津の湯を守って行きます。
ちなみに、湯畑(ゆばたけ)と言うのは、湯の花を採る畑という意味です。江戸時代はまだ、湯の花の採取はしていなかったので、湯池と呼んでいました。
湯本平兵衛が残した記録によると、十返舎一九たちが草津に行った文化5年(1808)の草津に来たお客さんの数は12,660人で、その内の778人が平兵衛の宿に泊まっています。毎年、10,000人前後のお客さんが草津温泉に訪れていたようです。
当時、内湯が許されていたのは湯本三家だけでした。他の宿屋に泊まったお客さんは皆、公共の湯小屋に通っていました。
文化年間、湯小屋は八ヶ所ありました。湯畑の周辺に御座の湯(現在の白旗の湯)、熱の湯(現在は湯もみショーをやっていて入る事はできません)、綿の湯(現在の本多みやげ店の前辺りにありました)、滝の湯(現在、滝が落ちている所に打たせ湯がありました)、かっけの湯(熱の湯と綿の湯の中間辺りにあった足湯)の五つがあって、少し離れた所に、鷲の湯(現在の大坂屋の前)、地蔵の湯(現在とほぼ同じ場所)、金毘羅の滝の湯(現在の泉水通りの突き当たり、金毘羅宮の石段の下)の三つがありました。
金毘羅の湯は近くにあった『桐屋』という料亭が造った湯小屋で、当時、桐屋は芸者衆を多く抱えて、賑わっていたようです。

 草津温泉の年表

 文化5年の草津温泉の図

『草津温泉膝栗毛・冗談しっこなし』のあらすじ

草津温泉膝栗毛・冗談しっこなし
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