2016年01月01日

謹賀新年

新年、おめでとうございます。
今年も「酔雲庵」をよろしくお願いいたします。
今、書いている「尚巴志伝 第二部」ですが、主役の尚巴志は明の国に行きました。
尚巴志が明の国に行ったのかどうかは記録に残っていませんが、尚巴志ならきっと行ったに違いないと思い、話を進めています。
尚巴志が明の国に渡った目的は火薬を手に入れるためです。火薬が手に入れば、琉球を統一するのに有利になると思ったからでした。
火薬は明の宮廷が管理していて国外に出す事は禁止されています。朝貢貿易で手に入れる事はできず、密貿易するしかありません。明の国に行って、向こうの海賊と取り引きをしたいと思ったのです。
尚巴志、懐機、ウニタキ、三人の珍道中をお楽しみ下さい。

尚巴志伝


      

  
posted by 酔雲 at 13:02| Comment(0) | TrackBack(0) | 琉球王国 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年09月08日

「尚巴志伝 第二部」を書き始めました

「第一部」は尚巴志が中山王の武寧を倒して、父の思紹が中山王になるという所で終わりました。
「第二部」は尚巴志の活躍を知って、首里に向かう若き護佐丸から始まります。
 十年の計、その後の五年の計と、ずっと留守番をしていた尚巴志が、父親を中山王に据えて、飛び立ちます。
 おそらく、明国やヤマトゥ、朝鮮へと旅立つでしょう。もしかしたら、東南アジアへも行くかもしれません。
 1416年の今帰仁グスク攻め。
 1421年、父親が亡くなり、尚巴志が中山王になる。
 1429年、山南王を滅ぼして琉球統一。
 と大まかな構想はありますが、今回も登場人物たちの動きによって、どのような物語になるのかは未定です。
「第一部」では、八重瀬グスクを落城させた美女のナーサは、その時だけの登場に終わるはずでしたが、後半では重要な登場人物になりました。
 ただの恋敵として登場させたウニタキも欠かせない重要人物になりました。剣術の師匠のヒューガも「山賊になる」と言い出してから別の道を歩み始めます。
 叔母の馬天ヌルも「旅に出る」と言い出してから重要人物になりました。馬天ヌルが旅に出ると言い出した時、書いている私にも、どうして、ヌルが旅に出るんだと思いましたが、話が進んでいくうちに、馬天ヌルが考えていた事がわかってきました。その後は、馬天ヌルの行動を追っていくだけでした。
 馬天ヌルとヒューガが結ばれたのも以外で、二人の間に生まれたササが、「第二部」では活躍するでしょう。
「第二部」でも、ちょっとした事で登場させた人物が、重要な人物になっていくと思います。
 今回も「第一稿」から始まって、「第二稿」「決定稿」と改訂しながら進み、、しばらく間をおいて、「最終決定稿」となります。
 また長い話になると思いますが、お楽しみ下さい。

尚巴志伝


陰の流れ 愛洲移香斎 第一部 陰流天狗勝 -   摩利支天の風 若き日の北条幻庵 -   天明三年浅間大焼 鎌原村大変日記 -   戦国草津温泉記 湯本三郎右衛門 -   国定忠次外伝 嗚呼美女六斬 -

posted by 酔雲 at 12:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 琉球王国 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年07月28日

護佐丸(ごさまる)

護佐丸は尚巴志(しょうはし)のために戦い続けた戦国武将です。
父親は山田按司で、曾祖父は今帰仁(なきじん)按司でした。曾祖父の敵を討って、今帰仁グスクを奪い返すために、幼い頃から武芸に励みます。
護佐丸という名は死後に贈られた名前か、生存中にノロに名付けられた神名かわかりませんが、「おもろさうし」にも出てきません。
「護佐丸・阿麻和利(あまわり)の乱」で共に滅ぼされた阿麻和利を讃える歌は載っているのに不思議です。妻だった百度踏揚(ももとふみあがり)によって、阿麻和利の歌は残されたのでしょうか。
生まれた時に付けられた童名は「真牛(マウシ)」だったようです。
山田グスクの山中で武術修行に励んでいた16歳の時、叔父の尚巴志が中山王の武寧(ぶねい)を倒します。次男だった護佐丸は叔父を頼って首里に向かいます。
護佐丸は尚巴志の次男(後の尚忠王)と同い年で、共に武術修行に励み、共にヤマトゥ旅にも出たと思われます。
24歳の時、八重瀬按司が弟の山南王を殺すという事件が起こり、八重瀬按司を退治する合戦で、護佐丸は活躍し、二年後の今帰仁合戦では搦め手の大将を務めます。
今帰仁合戦の活躍で、護佐丸は念願の敵討ちをして、今帰仁グスクを奪い返し、今帰仁按司として北部をまとめるように命じられます。
護佐丸は今帰仁グスクに五年間いて、奄美地方まで中山王の支配が及ぶようにします。
31歳の時に、思紹王が亡くなり、尚巴志が中山王になります。今帰仁按司は尚巴志の次男が任じられ、護佐丸は座喜味に新しいグスクを築いて移り、読谷山(ゆんたんざ)按司を名乗ります。
39歳の時、山南王を倒す合戦があり、護佐丸は総大将を務めます。山南王を倒した尚巴志はようやく、琉球を統一します。これで安泰と思っていた四年後、茂知附(もちづき)按司によって、勝連グスクが奪われます。
勝連グスクはヤマトゥとの交易で栄える重要な拠点です。奪い返すために、護佐丸は中グスク按司に任命されて、座喜味グスクから中グスクに移ります。
勝連グスクを奪い返せないまま、六年が経ち、師と仰いでいた尚巴志王が亡くなり、尚忠が中山王になります。
尚忠は王になって六年後、55歳の若さで亡くなってしまいます。その頃、阿麻和利が茂知附按司を倒して、勝連按司になります。
尚忠の長男が跡を継いでの尚思達王となりますが、この王も在位5年で亡くなります。その後、尚忠の弟、尚金福が王となり、尚金福が4年後に亡くなると、金福の長男、志魯と金福の弟の布里が家督争いを始め、首里グスクが炎上してしまいます。志魯は戦死し、布里は逃げ、その下の弟、尚泰久(しょうたいきゅう)が王になります。
尚泰久の妻は護佐丸の娘でした。嫁に出した時、泰久が王になるなんて考えてもいなかったのに、王が次々に代わったお陰で、娘婿が王となりました。
護佐丸は娘婿を助けて、首里グスクを再建しますが、失墜してしまった王権の立て直しは難しく、各地で不穏な動きが起こり、護佐丸はそれらを解決するために各地を飛び回ります。護佐丸が出向けば、敵対する者も素直に武器を捨てます。さすが、護佐丸と褒められますが、逆にそれが王府にとっては驚異になります。護佐丸が声を掛ければ各地の按司たちが一団となって、首里を攻めるのではないかと恐怖に怯えます。
そこに登場するのが金丸(後の尚円王)です。尚泰久王の側近だった金丸は護佐丸を倒すために阿麻和利を利用しようと考え、尚泰久の娘、百度踏揚を勝連の阿麻和利に嫁がせます。
阿麻和利を倒すのは護佐丸の念願でした。亡くなった尚巴志王から、勝連を取り戻してくれと頼まれたのかもしれません。しかし、王が次々と代わってしまい、勝連を攻める余裕はなく、勝連攻撃の王命はいつになってもありません。王命がなければ攻めることもできず、阿麻和利は調子に乗って、奄美の島々も奪い取ってしまいました。
そんな阿麻和利を攻めるどころか、王の婿に迎えるというのです。しかも、勝連に嫁ぐのは可愛い孫娘です。
護佐丸は王府のすることにあきれ果て、自力でも勝連を倒すと決心したのかもしれのせん。そのための訓練が誤解を呼び、王府に刃向かう者として征伐されてしまいます。
護佐丸征伐軍の大将は阿麻和利です。その阿麻和利も謀反ありとして、鬼大城に成敗され、鬼大城も王となった金丸によって成敗されます。真相を知っている者たちは金丸以外は皆、亡くなってしまいます。
護佐丸が逆賊になったため、護佐丸の娘が産んだ王子たちは首里から追放されてしまいます。ところが、第一尚氏を倒した金丸は護佐丸の子孫たちを首里に迎え入れています。護佐丸と金丸、共に丸の付く名前を持つ二人は裏でつながりがあったのかもしれません。

「尚巴志伝・第二部」は若き護佐丸が首里に向かう場面から書き始めようと思っています。


尚巴志伝


    
posted by 酔雲 at 11:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 琉球王国 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年07月21日

馬天ノロ

 尚巴志の叔母の馬天ノロは、先代の馬天ノロが亡くなった時、島添大里のサスカサノロから教えを受けるように言われます、しかし、若く自惚れも強かった馬天ノロは、先代からすべてを教わったので、これ以上、学ぶものなど何もないと思って、教えを受けませんでした。
 ところが、馬天ノロが24歳になった時、島添大里按司が八重瀬按司に滅ぼされてしまい、大グスク按司から頼まれて、兄が佐敷按司になりました。兄が按司になると、出陣のための儀式や戦勝祈願などを執り行なわなければなりません。そういう事は先代からは教わっていませんでした。今になって、先代が言った事の意味がわかり、サスカサノロを探しますが、見つかりません。噂では、グスク内にいて、殺されてしまったのだろうと言います。馬天ヌルは後悔しますが、後の祭りでした。
 伯母である大グスクノロに教えを請いますが、大グスクノロは後継者の若ヌルの指導に忙しくて、なかなか教えてくれません。そして、五年後には大グスクも攻め落とされ、大グスクノロも亡くなってしまいます。出陣の儀式は教わりましたが、まだまだわからない事がいっぱいありました。玉グスクノロか糸数ノロに頼もうかとも思いましたが、大グスクの落城の後は疎遠になってしまい、頼む事はできませんでした。
 それから二年が経って、父のサミガー大主の所で働いているウミンチュから、久高島に七年間もウタキ(御嶽)に籠もって祈りを続けているノロがいると聞きます。七年前と言えば島添大里グスクが落城した時です。もしかしたら、サスカサノロではないだろうかと思って、すぐにでも久高島に行きたかったのですが、教えを請うとなると、しばらく留守にしなければなりません。姪のマシューを一人前のヌルにしてから行こうと諦めます。
 旅をするには身を守らなければならないと思い、30歳を過ぎているのに、マチルギから剣術を習います。マシューを相手に稽古に励んで、みるみる上達します。そして、マシューを佐敷ヌルに就任させると、馬天ヌルは旅に出るサハチ夫婦と一緒に久高島に渡ります。共に、旅をしたヒューガには以前から好意を持っていました。しかし、ノロとして、そんな事はしてはいけないと気持ちをずっと抑えていました。
 久高島で、フカマヌルと会い、フカマヌルに娘がいる事に驚き、ヌルはマレビト神となら結ばれてもいいと聞きます。その時から、馬天ヌルの心の中で、ヒューガはマレビト神となるのでした。
 馬天ヌルはウタキに籠もっているサスカサノロと出会い、教えを請い、許されて、共にウタキに籠もります。半年後、佐敷に帰った馬天ヌルは、余計な物をすべて捨て去ったかのような、さっぱりとした顔付きで、まるで、神気が漂っているようでした。何事にも囚われる事なく、自由気ままに暮らし、自然の成り行きで、ヒューガと結ばれて、娘のササが生まれます。
 ササが生まれてからは、娘を育てるためにおとなしくしていましたが、40歳になった時に、ウタキ巡りの旅に出ます。旅は五年にも及び、馬天ヌルは各地で奇跡を起こして、各地のノロたちから尊敬される存在となっていくのでした。


馬天ヌルの略歴

尚巴志伝


    
posted by 酔雲 at 10:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 琉球王国 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年06月29日

『尚巴志伝』が完成しました

予定では尚巴志(しょうはし)の一生を書くつもりでしたが、尚巴志が中山王の武寧(ぶねい)を倒すまでの話となってしまいました。
登場人物たちが自由気ままに動き出したお陰で、思っていたよりもずっと長い話になってしまい、一旦、ここで切る事にしました。

1372年、志喜屋(しちゃ)の大主(うふぬし)は『月代の石』の光に導かれて、佐敷の山の中の小屋で生まれた赤ん坊を見つけます。その赤ん坊が尚巴志です。尚巴志が9歳の時、佐敷の近くの島添大里(しましいうふざとぅ)グスクが汪英紫(おーえーじ)に攻められて落城し、父は佐敷按司となります。五年後には、大(うふ)グスクも落城して、佐敷グスクは孤立してしまいます。尚巴志が21歳になった時、父は宿敵の汪英紫を倒すための十年の計を立てて隠居します。佐敷按司となった尚巴志は十年間、佐敷グスクを守り通し、計画通りに島添大里グスクを奪い取り、島添大里按司となります。そして、その四年後に、中山王の武寧を倒して、父を中山王にします。

山伏のクマヌは予想通りの動きをしてくれましたが、予想外な動きをした人物がかなりいました。
ウニタキはただの恋敵として登場させたのでしたが、兄たちに恨まれて殺されそうになり、尚巴志のもとに逃げてきた事によって、重要な登場人物になりました。
ヒューガもサハチの剣術の師匠として登場させたのでしたが、「山賊になる」と言い出してからは、船を盗んで海賊となり、重要な登場人物になりました。このヒューガは『陰の流れ・第一部』で愛洲移香斎に、気合いの術を教えた智羅天の若き日の姿です。
尚巴志の叔母の馬天ヌルも、久高島に行ってから、自由気ままに動き出して、重要な登場人物になりました。
汪英紫が八重瀬(えーじ)グスクを落とす時に使った絶世の美女のナーサも、後半になって、重要な登場人物になりました。
汪英紫は勿論の事、三人の息子のタブチ(達勃期)、シタルー(汪応祖)、ヤフス(屋富祖)も重要な登場人物です。

長い物語ですか、お楽しみ下さい。


尚巴志伝
posted by 酔雲 at 13:06| Comment(0) | TrackBack(0) | 琉球王国 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年06月18日

島添大里按司(しましぃうふざとあじ)

島添大里按司の本拠地、島添大里グスクは馬天港と与那原港を見下ろす山の上にあります。「島添」とは島々を支配するという意味があり、島添大里按司はかなり古くから勢力を持っていた按司のようです。
初代の浦添按司、舜天の母親は島添大里按司の娘だったと伝えられ、12世紀頃にはすでにかなりの勢力を持っていたようです。
13世紀になると舜天王統を滅ぼして浦添按司になった英祖が島尻大里にグスクを築いて南部に進出して来ます。また、玉城按司も良港を持つ島添大里グスクを奪い取ろうと企んで、大グスクと糸数グスクを築いて進出して来ます。
14世紀には英祖王統を滅ぼした察度が島尻大里按司と同盟して、島添大里按司を攻めます。島添大里グスク攻めの先鋒となったのは島尻大里按司の弟、八重瀬按司です。八重瀬按司は新グスクを築いて隙を窺い、1380年頃、島添大里グスクを奪い取って、島添大里按司を名乗ります。
島添大里按司となった八重瀬按司は明国との交易も始めて「下の世の主」と呼ばれるまでに栄えます。勢いに乗った八重瀬按司は同族の島尻大里按司を滅ぼし、山南王となります。
八重瀬按司が島尻大里グスクに移った後、島添大里按司になったのは三男の屋冨祖ではないかと思われます。八重瀬按司には三人の息子がいて、長男のタブチは本拠地の八重瀬グスクを守り、次男の汪応祖は豊見グスクを守っていました。三男の屋冨祖は次男の汪応祖が豊見グスクを築いて、大グスクから移って行った後、大グスク按司となり、父親が島尻大里グスクに移った後に島添大里按司になったと思われます。
1400年頃、山南王になった八重瀬按司が亡くなり、跡を継いだのは次男の汪応祖でした。汪応祖は明国に留学した事もある秀才で、父親は汪応祖に後を託したのでしたが、それに不満を持った長男のタブチが反乱を起こします。兄弟で争いを始めたその隙に乗じて島添大里グスクを奪い取ったのは佐敷按司の尚巴志でした。
尚巴志は本拠地を佐敷グスクから島添大里グスクに移して、島添大里按司を名乗ります。
島添大里按司となった尚巴志はグスクを拡張して守りを固め、勢力を広げながら周りの状況を見極め、1406年、中山王の武寧を攻め滅ぼします。本拠地を首里に移しますが、自らは中山王とはならず、父親の思紹を中山王とします。
尚巴志が首里に移った後も有力な武将か、尚巴志の息子が島添大里グスクを守って南部に睨みをきかせていました。





尚巴志伝


          

          
タグ:琉球
posted by 酔雲 at 12:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 琉球王国 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年03月01日

尚巴志伝

ホームページ「酔雲庵」で長編歴史小説「尚巴志伝」を公開します。
戦乱の続いた琉球を統一した英雄、尚巴志(しょうはし)の物語です。尚巴志が生まれた1372年、浦添按司(うらしぃあじ)の察度(さとぅ)は明の洪武帝から冊封(さっぽう)を受け、琉球中山王(ちゅうざんおう)となって進貢貿易を始めます。
尚巴志の父親、苗代大親(なーしるうふや)は大(うふ)グスク按司に仕え、やがて、佐敷按司となります。21歳になった尚巴志は家督を譲られて佐敷按司になり、勢力を広げて行って琉球を統一します。どのようにして尚巴志が琉球を統一したのか、お楽しみください。
いつもなら完成してから公開するのですが、「尚巴志伝」はまだ完成していません。公開しながら完成させようと思っています。何度か、書き換えが行なわれると思いますが、よろしくお願いいたします。

尚巴志伝

タグ:琉球
posted by 酔雲 at 10:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 琉球王国 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年07月12日

勝連按司(かつれんあじ)

勝連グスクの城主、勝連按司は古くから日本との交易をしていたようです。
近くの泡瀬干潟でタカラガイが採れ、それを目当てに遠く日本から商人たちがやって来ました。その取り引きをした者たちが富を守るために築いたのが勝連グスクの始まりでしょう。
やがて、ヤコウガイやホラ貝の取り引きも始めて、ますます、勝連は栄えて行きます。
1259年、伊祖按司だった英祖(えいそ)は舜天(しゅんてん)王統を滅ぼして浦添按司になります。英祖が日本との交易の拠点になっている勝連を放って置くはずがありません。英祖は勝連按司を滅ぼして、一族の者を送り込みます。英祖の死後、大成(英祖王統二代目)の五男が勝連按司になっていますが、それ以前に勝連は英祖の支配下に入っていたと思われます。
英祖王統は三代目の英慈の死後、家督争いが起こり、それに巻き込まれて、各地で争いが始まります。英祖王統もかつての勢いをなくし、五代目の西威は察度(さっと)に滅ぼされます。察度は勝連按司の娘を妻に迎え、勝連按司の力を借りて英祖王統を滅ぼしたのです。
察度は長生きしたので46年間も王として君臨しますが、二代目の武寧(ぶねい)は尚巴志(しょうはし)に滅ぼされます。尚巴志は勝連按司も滅ぼして、妻の兄弟(伊波按司の六男)を勝連按司に任命します。さらに尚巴志は勝連按司の娘を次男の尚忠(しょうちゅう)の嫁に迎え、つながりを強化します。
伊波按司の六男の跡を継いだのは浜川按司です。伊波按司の六男に跡継ぎがいなかったのか、浜川按司が二代続きます。勿論、浜川按司を任命したのは尚巴志でしょう。浜川按司の実力を認め、もしかしたら、娘を嫁にやったのかもしれません。
二代目の浜川按司の跡を継いだのは茂知附(もちづき)按司です。茂知附というのは望月の事だと思いますが、もしかしたら女性かもしれません。浜川按司の娘で、望月ノロを名乗っていましたが、浜川按司に跡継ぎの男子がいなかったため、女性の身で按司になったのかもしれません。尚巴志の孫娘だったので、首里でも認めたのかもしれませんし、その頃、すでに今帰仁(なきじん)グスクも尚氏の支配下にあったので、以前ほど勝連の価値がなくなっていたのかもしれません。日本との交易は勝連よりも今帰仁の方が重きをなしていたようです。
茂知附按司の次は阿麻和利(あまわり)です。茂知附按司を滅ぼして按司の座に就いたのか、茂知附按司の婿に迎えられたのかはわかりませんが、阿麻和利は首里の意向を無視して独自に日本との交易を始め、以前のごとく勝連を栄えさせます。首里の尚王統が家督争いなどで勢力を弱めて行くのを横目で見ながら、阿麻和利は着々と力を蓄え、やがては、察度や尚巴志のように、琉球王になろうと夢見ていたのかもしれません。
首里グスクが炎上してしまう程の家督争いを演じた志魯(しろ)と布里(ふり)の乱の後、家督を継いだのは越来(ごえく)グスクにいた尚泰久(しょうたいきゅう、尚巴志の七男)です。尚泰久は阿麻和利を抑えるために娘の百十踏揚(ももとふみあがり)を阿麻和利に嫁がせます。それでうまく行くかと思われましたが、尚泰久の側近の金丸(かなまる)の思惑通りに阿麻和利は中城(なかぐすく)按司の護佐丸(ごさまる)と争い始めて、共に滅ぼされてしまいます。


尚巴志伝


          

          
タグ:琉球
posted by 酔雲 at 10:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 琉球王国 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年06月10日

察度(さっと)

察度は浦添(うらそえ)グスクの城主で、初めて明国(みんこく)皇帝から冊封(さっぽう)を受けて琉球中山(ちゅうざん)王になります。丁度、尚巴志(しょうはし)が生まれた1372年に明国から琉球に使者が来ました。
父親は奥間大親(おくまうふうや)で、母親は天女だったそうです。1321年に浦添間切の謝名(じゃな)に生まれ、妻は勝連按司(かつれんあじ)の娘です。
1349年、29歳の時に察度は浦添グスクの城主、西威(せいい)を滅ぼして浦添按司になります。西威は英祖(えいそ)王統の五代目で当時22歳だったそうです。
1372年、51歳の時に明国の使者に従い冊封を受け入れて中山王となって進貢貿易を始めます。亡くなったのは1395年で、75歳まで生きました。
母親が天女とは一体、どういう意味なんでしょうか? 琉球人ではなく、外国の女性だったのでしょうか。
察度がどのようにして浦添グスクを攻め落としたのかも、まったく不明です。当時、一番勢力を持っていたであろう浦添グスクを落とすには、それなりの兵力がなければなりません。妻の実家の勝連按司の兵力は勿論、加わったでしょうが、それだけでは不可能のような気がします。
勝連按司の娘が嫁に来た時、察度は黄金をかなり持っていたと伝えられています。その黄金はどうやって手に入れたのでしょう。当時、黄金を取り引きに使っていたのは日本の商人(倭寇)です。察度は日本の商人と交易をしていたのでしょうか。一体、何を黄金と交換したのかわかりません。螺鈿(らでん)に使うヤコウガイだったのでしょうか。
察度には泰期(たいき)という弟がいて、使者として最初に明国に行っています。母親違いの弟のようですが、もしかしたら、泰期は弟ではなく、若い頃の仲間で、共に船に乗って日本や中国などに行ったのではないでしょうか。
拠点としたのが当時、浮島と呼ばれていた那覇です。浮島はさびれた漁村に過ぎませんでしたが、日本の商人や中国の商人たちが交易の拠点として、住み始めていた頃でした。察度も彼らと一緒に浮島に住み、いつしか首領のような存在となり、財を蓄え、武器を手に入れたのかもしれません。
そして、浮島を見渡せる首里の地にグスクを築いて勢力を広げ、1349年、浦添グスクを攻め落とします。その後は浦添グスクを本拠地にしますが、晩年は浦添グスクを長男の武寧(ぶねい)に任せ、察度は首里グスクにいたのかもしれません。


尚巴志伝


          

          
タグ:琉球
posted by 酔雲 at 11:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 琉球王国 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年06月05日

伊波按司(いはあじ)

尚巴志の妻は伊波按司の娘です。
伊波按司は沖縄本島中部の伊波グスクの城主です。以前は北部の今帰仁(なきじん)グスクの城主の息子でしたが、羽地(はねじ)按司に攻められて城を奪われてしまいます。何とか逃げのびて越来間切(ごえくまぎり)の山中に隠れていた所を村人に助けられ、伊波にグスクを築いて伊波按司になります。
南部の佐敷に住む尚巴志と中部に住む伊波按司との接点は何だったのでしょう。母親の父親、美里子(みさとのし)が越来間切の美里の出身で、そのつながりから知り合ったのでしょうか。
尚巴志の妻となった伊波按司の娘は1391年に次男の尚忠(しょうちゅう)を産んでいます。尚巴志が20歳(数え年)の時です。その前に長男を産んでいるはずですから、二人が結ばれたのは18歳前後の事でしょう。祖父の佐銘川大主に連れられ船で旅に出て、偶然、出会ったのかもしれません。
尚徳(しょうとく、尚巴志の孫)王の頃の事ですが、首里城では刀を差した女官が取次ぎ役として仕えていたようです。もしかしたら、それは尚巴志の妻が考えた事で、妻自身が女武者だったのかもしれません。敵討ちに燃えて幼い頃から武術の修行に励んでいたのかもしれません。尚巴志との出会いで二人が戦い、尚巴志が負ければ面白い話になりそうです。
伊波按司の弟は読谷山(ゆんたんざ)間切の山田にグスクを築いて読谷山按司となり、孫に護佐丸(ごさまる)が生まれます。護佐丸は尚巴志の北山攻撃に加わって活躍し、今帰仁グスクの城主に任命されます。
尚巴志の外戚となった伊波一族は尚巴志と共に勢力を広げて行き、子供たちは安慶名グスク、具志川グスク、喜屋武グスクなどの城主になっています。そして、尚巴志が沖縄本島を統一すると子孫たちは南部の主要グスクの按司となります。


尚巴志伝


          

          
タグ:琉球
posted by 酔雲 at 12:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 琉球王国 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年05月28日

屋蔵大主(やぐらうふぬし)

屋蔵大主は尚巴志の曾祖父です。
父親は沖縄本島南部の与座按司で、兄の大里按司に攻められて戦死してしまいます。屋蔵大主は追っ手を逃れて伊平屋島にたどり着きます。伊平屋島出身の家臣の手引きがあったのかもしれません。
我喜屋に落ち着いた屋蔵大主は我喜屋のノロ(神女)と結ばれて佐銘川大主が生まれます。農耕に精を出して富農になったそうですが、日本の商人(倭寇)を相手に取り引きをして、鉄を手に入れ富を蓄えたのではないでしょうか。「鮫皮」あるいは螺鈿(らでん)細工に必要な「ヤコウガイ」、合戦に必要な「法螺貝」などと鉄を交換したのかもしれません。
蔵を八つも持っていたので八蔵(屋蔵)大主と呼ばれたそうですが、私は「与五郎(ユグラー)」という名が「屋蔵」になったのではないかと思います。与座の五郎で与五郎です。曾孫の尚巴志の名は佐敷の八郎で佐八です。サハチを中国風に書くと「尚巴志」となります。明国が尚を姓と勘違いしたため、以後、尚を姓として名乗る事になります。
尚巴志の父の思紹は中山王になった時、佐敷按司を尚巴志に譲って隠居していました。隠居していたとはいえ、皆から「師匠」と呼ばれていたのではないでしょうか。
何の師匠か? 時は戦国の世です。武術の師匠だったのではないでしょうか。当時、白樽親方という武将が「白樽の棍」という棒術を編み出しています。思紹も自ら編み出した武術を家臣たちに教えていたのではないでしょうか。尚巴志の軍師だった明人の懐機(かいき)が「師匠」を「思紹」に替えて明国に伝えたのでしょう。


尚巴志伝


          

          
タグ:琉球
posted by 酔雲 at 13:09| Comment(0) | TrackBack(0) | 琉球王国 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年05月09日

佐銘川大主(さめがわうふぬし)

佐銘川(鮫川)大主は尚巴志の祖父です。
1330年頃、伊平屋(いへや)島で生まれます。父親は屋蔵(やぐら)大主、母親は我喜屋(がきや)のノロです。
父親の屋蔵大主は隣の伊是名(いぜな)島も支配下に置き、長男の佐銘川を伊是名島に配置します。
ある年、飢饉となり、佐銘川は蔵に蓄えてあった食糧を島民たちに分け与えていましたが、島民たちが暴動を起こして島から追い出されてしまいます。
佐銘川は船で今帰仁(なきじん)に逃げ、夢のお告げによって馬天(ばてん)浜(佐敷)に向かいます。馬天浜に落ち着いた佐銘川は漁をして生活していました。ある日、大城按司(うふぐしくあじ)と出会い、見込まれて娘婿となります。そして、苗代大親(思紹)が生まれます。
その後、どうなったのかはわかりません。思紹が中山王になった時、もし生きていたとすれば76歳前後ですので亡くなっていたかもしれません。
以上が尚巴志の祖父、佐銘川大主の略歴ですが、私は「佐銘川」というのは「鮫皮」の事ではないかと思います。
鮫皮は日本刀の柄に巻かれ、日本刀作りには欠かせない材料です。鮫皮と呼んでいますが、実は鮫の皮ではなく、エイの皮です。当時、日本は南北朝の動乱で日本刀は大量に生産されました。その日本刀に必要な鮫皮は日本では採れません。日本の商人(倭寇)は鮫皮を求めて琉球にやって来たはずです。
琉球に行く前に伊平屋島で水の補給などをした商人たちから「鮫皮」を集めれば、鉄や陶器など欲しい物と交換できる事を聞いた佐銘川は伊是名の島民たちを使って「鮫皮」集めを始めます。
島民たちを使って鮫皮を集めても、日本の商人が来なければ、欲しい物は手に入りません。日本の商人たちも毎年、来ていたわけではないでしょう。佐銘川の言う通りに「鮫皮」を集めても、欲しい物が手に入らないので、島民たちが怒って佐銘川を追い出したしまったのではないでしょうか。
それに、鮫皮を保存するには鞣さなければなりません。鞣し方も商人たちから教わったのでしょう。鮫皮をなめすためにエイを解体すると物凄い臭いが充満します。島中が臭くなってしまい、それも佐銘川が追い出された原因でしょう。
伊是名島を追い出された佐銘川は各地の漁師たちから話を聞き、馬天浜が最もエイ漁にふさわしい場所だと悟って、馬天浜で「鮫皮」集めを再開します。大城按司の援助もあって、佐銘川は「鮫皮」で財をなし、「鮫皮大主」と呼ばれるようになったのではないでしょうか。
「鮫皮」で鉄や陶器ばかりでなく、武器も大量に手に入れて、孫の尚巴志の中央進出を助けたのだと思います。





尚巴志伝


          

          
タグ:琉球
posted by 酔雲 at 09:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 琉球王国 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年05月07日

思紹(ししょう)

尚巴志の父親、苗代大親(なーしるうふや)は中山王となって思紹と名乗ります。
1354年に沖縄本島南部の佐敷(南城市)に生まれます。父親は佐銘川(鮫川)大主(うふしゅ)、母親は大城按司(うふぐしくあじ)の娘です。
美人として評判だった美里之子(んざとぅぬしぃ)の娘と結ばれ、尚巴志が生まれます。
苗代という地に住んでいたので苗代大親と呼ばれ、やがて、佐敷按司になります。按司というのは領主の事で、思紹の祖父が大城按司だったので、その力を借りて按司になったものと思われます。
いつの事かわかりませんが、母親の実家である大城按司は島添大里按司と争って滅ぼされてしまいます。その合戦に思紹も参加して活躍したはずですが、合戦の詳しい様子はわかりません。
1392年、39歳の時、何の理由があってか、21歳の尚巴志に家督を譲って隠居してしまいます。大城按司が滅ぼされ、戦国の世を生き抜くには倅の尚巴志の方がふさわしいと考えたのでしょうか。
尚巴志の活躍を助けながらも表に出なかった思紹ですが、1406年、尚巴志が浦添按司を倒した後、表に担ぎ出されて中山王となります。53歳でした。
15年間、王位にあった思紹は1921年に68歳で亡くなりました。8年後、尚巴志は沖縄本島を統一します。


尚巴志伝


          

          
タグ:琉球
posted by 酔雲 at 10:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 琉球王国 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年05月04日

尚巴志(しょうはし)

尚巴志は沖縄の戦国時代を制して、沖縄を統一した英雄です。
1372年に沖縄本島南部の佐敷(南城市)で生まれています。その頃、日本は南北朝時代で、室町幕府の将軍は足利義満でした。
尚巴志の父親は苗代大親(なーしるうふや)、母親は美里之子(んざとぅぬしい)の娘です。父親の苗代大親はやがて佐敷按司(あじ)となり、尚巴志は21歳の時に家督を譲られて佐敷按司になります。
1402年、31歳の時に南部で勢力を持っていた島添大里(しましぃうふざと)按司を倒し、南部の東半分を勢力下に置きます。
1406年、35歳の時に中央で勢力を持つ浦添按司(中山王)を倒して本拠地を首里に移し、父親を中山王として明との冊封貿易を始めます。
1416年、45歳の時に北部に勢力を持つ今帰仁按司(北山王)を倒し、1421年、50歳の時に父親が亡くなって中山王となり、1429年、58歳の時に島尻大里按司(南山王)を倒して、沖縄本島を統一します。
1439年4月、68歳で波乱の生涯を閉じます。
以上が尚巴志の略歴ですが、詳しい事はよくわかりません。これだけの偉業を成し遂げたのに、有力な家臣たちの名前は記録には残っていません。わかっているのは軍師役の明人の懐機(かいき)と北山攻撃に加わった護佐丸くらいです。次々に強敵を倒して行ったのですから有能な家臣たちが何人もいたはずですが、まったくわかりません。
尚巴志の死の14年後の1453年、尚巴志の孫、尚志魯と息子の布里が家督争いを始めて、首里城は全焼してしまいます。その時に当時の記録はすべて燃えてしまったのかもしれません。また、1469年の金丸(尚円)のクーデターの時に第一尚氏の事績は抹殺されてしまったのかもしれません。





尚巴志伝


          

          
タグ:琉球
posted by 酔雲 at 09:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 琉球王国 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする