2006年05月26日

十返舎一九

一九といえば、映画「写楽」に出ていた片岡鶴太郎が演じた少しお調子者の一九を思い浮かべますが、実際の一九は生真面目な男だったようです。
生まれは駿河の国で、父親は駿府の奉行所に勤めていた武士で、本名は重田幾五郎です。
20歳の頃、江戸に出て、23歳の頃には大坂に移ります。武士になる事をやめて浄瑠璃の世界に身を投じ、浄瑠璃作者を目指します。近松余七の名で作品をいくつか合作しますが、うまく行かずに、30歳頃、再び、江戸を目指します。
江戸では版元の蔦屋重三郎の所に居候して、吉原などで遊びながらも、当時、売れっ子だった山東京伝の滑稽本の挿絵を描いたりしています。絵は自己流らしいですが、浮世絵も何枚か売り出したようです。
31歳の正月、初めて黄表紙を売り出し、以後、毎年、黄表紙を発表しています。黄表紙というのは大人向けの絵本のようなもので、絵も自分で描いていました。当時、敵討ち物や怪談物が流行っていてたようです。毎年、20作品前後の黄表紙を売り出していましたが、これと言ったヒット作はありませんでした。
37歳の時、滑稽本の「浮世道中膝栗毛」を書いて版元に持って行きます。本人もそれほど期待していなかったのですが、これが大いに受けて、増刷が間に合わないほどに売れまくります。
滑稽本というのは文章が中心の読物で、洒落本から発達したものです。洒落本は吉原とか深川の色町を題材にした読物ですが、取締りが厳しくなったので、色町以外を舞台に庶民の生活を面白おかしく書くようになって行きました。式亭三馬の「浮世風呂」や「浮世床」が有名です。
翌年の正月、「東海道中膝栗毛」と題名を改めての続編を発表し、以後毎年、続編を書き続け、完結したのは20年後の事でした。勿論、「膝栗毛」だけではなく、毎年、数多くの作品も書いていました。
晩年は人情本なども書いていましたが、「膝栗毛」以上のヒットはなく、おまけに病気になって手足も自由にならなくなり、67歳で淋しく世を去って行きました。


 十返舎一九の年表

 十返舎一九集  十返舎一九全集新装版

「草津温泉膝栗毛・冗談しっこなし」のあらすじ

草津温泉膝栗毛・冗談しっこなし


十返舎一九  絵図に見る東海道中膝栗毛  十返舎一九研究  「膝栗毛」はなぜ愛されたか  東海道中膝栗毛(上)


ラベル:戯作者
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2006年05月23日

喜多川月麿

群馬県の草津温泉で一番古い旅館「日新館」のお食事処の飾り棚に三枚続きの浮世絵が飾ってあります。
江戸時代の日新館の座敷の様子を描いたもので、芸者風の女性が八人、水汲みの女性が一人、若旦那風の男が一人、風呂上りにくつろいでいます。煙草盆と水桶に「湯安」と書いてあり、当時、湯本安兵衛と名乗っていた日新館の室内だとわかります。作者は喜多川月麿です。
その絵を初めて見た時、月麿とは何者なのか、私は知りませんでした。喜多川という姓と麿が付く事から、あの有名な歌麿の弟子なのかもしれないと思いました。女性の顔立ちも歌麿の描く美人に似ています。
調べてみたら、やはり、歌麿の弟子でした。初めの頃は菊麿と名乗っていて、途中から月麿に改名しています。黄表紙の挿絵も描いていて、弥次さん北さんで有名な十返舎一九の「東海道中膝栗毛」の挿絵も描いていました。
十返舎一九が草津温泉に来たというのは知っていました。もしかしたら、一九と一緒に月麿も草津温泉に来て、当時の日新館に泊まったのかもしれないと思いました。
これは小説になるとピンと来ました。江戸時代の草津温泉を舞台に、一九と月麿の珍道中を一九が書いた滑稽本のように書いたら面白い作品ができると思いました。
当時の草津温泉の様子や江戸の様子、活躍していた戯作者や浮世絵師を調べ、謎解きの要素も加えて、完成したのが「草津温泉膝栗毛・冗談しっこなし」です。当時の草津温泉をできるだけ再現してみたつもりです。読んでみて下さい。


 喜多川月麿の略歴

「草津温泉膝栗毛・冗談しっこなし」のあらすじ

草津温泉膝栗毛・冗談しっこなし


大江戸怪奇画帖  春画浮世絵の魅惑(6)  歌麿の美人
ラベル:浮世絵師
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2006年05月20日

国定忠治の子分たち

忠治の子分で有名なのは、「赤城の子守唄」に出て来る板割りの浅太郎がいますが、実際の名は浅次郎です。板割りという名は父親がこけら葺きの屋根に敷く板作りの職人だったからと伝えられています。下植木村の浅次郎とも呼ばれ、足が速く、槍も得意だったようです。
一の子分はやはり三ツ木村の文蔵でしょう。彼は忠治の兄貴分でしたが、親分の紋次が倒れた時、親分の座を忠治に譲ります。自分は読み書きもできないし、親分の器ではないと身を引き、忠治の片腕として活躍します。貧しい農家に生まれ、剣術を習う事ができなかったので、自分で工夫して手裏剣術を身に付けました。島村の伊三郎を襲撃した時も、文蔵が手裏剣を投げて、伊三郎がひるんだ隙を忠治が一刀のもとに斬ったようです。
五目牛村の千代松国定村の清五郎曲沢村の富五郎の三人は忠治の幼馴染みで、ガキの頃から一緒に悪さをしていた仲間です。忠治が百々一家の親分になった後、子分になります。
山王道村の民五郎は居合い抜きの名人で、八寸村の才市は鉄砲撃ちが得意だったようです。二人とも、伊三郎襲撃に加わっています。
桐生町のお辰は女渡世人で忠治の噂を聞いて草鞋を脱ぎ、そのまま、子分となりました。桐生町の車屋の娘だったと伝えられています。お辰と同じように、流れて来て忠治の子分になった者に下総無宿の神崎の友五郎と甲州無宿の甲斐の新十郎がいます。二人とも腕が立ったようです。
変わった所では学者崩れの太田宿の日新がいます。師の生田万が越後の柏崎の代官陣屋を襲撃した後、逃げて来て、身を隠すために忠治の子分になったようです。
その他に、保泉村の久次郎茂呂村の孫蔵田部井村の又八富塚村の角次郎上中村の清蔵新川の秀吉境川の安五郎鹿村の安次郎といった子分がいます。
忠治は27歳の時に、百々一家から国定一家に名前を変えますが、親分が若いので、子分たちも皆、若く、個性ある面々が揃っていたようです。

侠客国定忠次一代記

国定忠次外伝・嗚呼美女六斬

侠客国定忠次一代記の創作ノート
ラベル:侠客
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2006年05月17日

弁天のおりん

日光の円蔵の妻は女壷振り師で、通り名を弁天のおりんといいます。
そのいわれは博奕打ちに成り立ての若い頃、勝負に負けてオケラになってしまい、悔しくて帰る事もできず、襦袢姿になって着物を賭けました。それでも負けてしまい、ついに素っ裸になって襦袢と腰巻も賭けました。ようやく、運が巡って来て勝負に勝ち、着物を取り戻して、さらに10両勝って、意気揚々と引き上げました。その時の事が噂になって、裸弁天のおりんと呼ばれるようになりました。自分で名乗る時、裸弁天では恥ずかしいので、弁天のおりんと名乗っていました。
旅先でおりんと出会った円蔵は噂を知っていて、おりんの裸を拝もうと勝負を挑みますが負けて、自分が裸にされてしまいました。それでも二人は意気投合して、やがて、夫婦となります。
円蔵が国定忠治の客人になってから、おりんも百々一家にやって来て、忠治のために伊三郎の事を調べたり、女壷振り師を育て上げます。
30歳を過ぎて壷振りから身を引いて、境宿で居酒屋を始めます。円蔵が捕まって牢死した後は、旅に出て行方知れずとなってしまいます。
とは言っても、おりんは「侠客国定忠次一代記」を書くにあたって、私が創作した人物です。男ばかりじゃ面白くないと話に色を添えたわけです。
実際に、おりんのような女渡世人がいなかったわけではありません。忠治の子分の桐生町のお辰は実在しています。他にも、箱原のおさん、追分おきょう、女無宿おりは、投げ賽小万、小桜おせんなど、語り継がれている女渡世人は何人もいました。

侠客国定忠次一代記

国定忠次外伝・嗚呼美女六斬


緋牡丹博徒  緋牡丹博徒 一宿一飯  緋牡丹博徒 二代目襲名  緋牡丹博徒 お竜参上  陽炎
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2006年05月14日

日光の円蔵

国定一家で軍師と呼ばれた日光の円蔵は野州(栃木県)都賀郡の落合村に生まれました。幼い頃より寺に入れられますが、17歳の頃、寺を飛び出して、野州無宿の日光の円蔵を名乗って旅に出ます。寺にいた時の名前が、晃円といい、晃を分解して日光、円に蔵をくっつけて日光の円蔵としたようです。
親分子分の関係を持たずに、旅から旅への渡世を送っていましたが、前橋の福田屋栄次郎のもとに客人として世話になっていた時、国定忠治と出会います。円蔵29歳、忠治21歳でした。
円蔵は忠治に何かを感じたのでしょう。百々一家の親分になったばかりの忠治を助ける気になって、百々一家の客人となり、以後、死ぬまで、忠治の片腕として活躍します。
円蔵が生まれた落合村はかなり山奥の村で、入れられた寺というのは山伏の寺だったのかもしれません。そこで厳しい修行を積み、武芸や学問も学んだようです。兵法なども学んでいたのでしょう。それが役に立ったというわけです。
忠治がもし、円蔵に出会わなかったら、伊三郎の暗殺に失敗し、逆に殺されていたかもしれません。国定一家を張る前に、百々一家は潰れていたでしょう。21歳の忠治が立派な親分になれたのも、側に円蔵が控えていたからです。伊三郎を殺して旅に出た忠治の留守をしっかりと守っていたのも円蔵です。円蔵がいなかったら、留守の間に潰されていたに違いありません。
天保13年(1842)11月、円蔵は関東取締出役に捕らえられ、翌年、牢屋の中で亡くなります。忠治の死より8年前の事でした。

日光の円蔵の略歴

侠客国定忠次一代記

国定忠次外伝・嗚呼美女六斬


国定忠治とその外伝130話  御蔵堀情話
ラベル:侠客
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2006年05月13日

島村の伊三郎

国定忠治に殺された島村の伊三郎は東上州の利根川流域を仕切っていた親分でした。
船問屋の倅に生まれて、二十代の半ば頃、無宿者になって島村一家を張ります。本姓は町田といい、背丈が6尺もあった大男だと伝えられています。最初の縄張りは島村と平塚河岸でした。
当時の平塚は江戸と上州を結ぶ航路として栄えていました。江戸からの船が平塚まで上って来て、様々な物資を運んでいたのです。河岸には船問屋の土蔵がいくつも並び、大勢の人足たちが働いていました。当然のごとく博奕が盛んで、稼ぎになる縄張りでした。
伊三郎は利根川筋の小さな一家の親分たちを吸収して勢力を広げて行きます。30歳の頃、八州様と呼ばれた関東取締出役(とりしまりしゅつやく)の道案内になって十手を持つようになります。
道案内というのは江戸でいう岡っ引きみたいな者です。関東の地は支配者がバラバラで、細切れ状態になっていました。悪い事をしても支配者の違う土地に逃げ込めば、捕まえる事はできません。そこで、幕府が考えたのが関東取締出役です。彼らは誰の土地だろうが入って行って悪人を捕まえる権限を持っていました。しかし、江戸に住んでいる八州様には土地勘がなく、道案内を必要としたのです。
本来なら、道案内は各地の名主が勤めるべきなのですが、無法者を捕らえるには、その道の者の方が具合がいいので、博奕打ちの親分たちが勤めるようになりました。お上のお勤めをするかわりに、お目こぼしをしてもらうというわけです。
博奕打ちでありながら、お上の手下を勤めている者を二足の草鞋と呼びました。国定忠治はそんな筋の通らない事はないと言って嫌いましたが、二足の草鞋を履いていた親分はかなりいました。忠治を助けた玉村の佐重郎も前橋の福田屋栄次郎も二足の草鞋でした。
勢力を広げて行った伊三郎ですが、境宿を縄張りとする百々一家を配下に加える事はできませんでした。絹市の開かれる境宿は相当な稼ぎになる縄張りです。伊三郎は何としても、手に入れようと企みます。そして、百々一家の跡目を継いだ国定忠治と対立するわけです。
天保5年(1834)7月2日、日の暮れた後、世良田の賭場へ向かう伊三郎の一行を忠治たちが襲撃しました。伊三郎44歳、忠治25歳でした。
伊三郎は忠治を見くびっていたのでしょう。もし、自分が忠治の立場だったら、同じ事をしていただろうに、そんな事まで考えず、忠治にそんな度胸はないと軽く見ていたようです。
伊三郎の死後、島村一家は分裂してしまい、忠治の勢力は広がって行きます。

島村の伊三郎の略歴

侠客国定忠次一代記

国定忠次外伝・嗚呼美女六斬
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2006年05月07日

大前田栄五郎

本名は田島栄五郎です。一般に大前田村の栄五郎で通っていますが、大前田一家の親分ではありません。大前田一家は兄の要吉が継いでいたので、栄五郎は旅で男を売って名を上げました。名古屋から伊豆にかけて東海地方に縄張りを持っていたようです。
15歳の時、兄弟分の月田村の栄次郎と一緒に三下奴を斬って、最初の旅に出ます。その時は2年程で故郷に戻れたようです。
25歳の時、月田村の栄次郎と武井村の和太郎の三人で、東上州の大親分と言われた久宮(くぐう)一家の丈八を殺します。この時は指名手配になってしまい、故郷に近づく事は難しくなってしまいます。栄五郎は美濃へ、栄次郎は甲州へ、和太郎は日光へと、バラバラになって逃げ、各地の親分さんを訪ねての長い旅が始まったのです。
30歳の頃は名古屋に落ち着いていたようですが、32歳の時、江戸に出て、無宿狩りに遭って捕まってしまいます。牢屋に入れられ、その後、佐渡ヶ島に送られます。佐渡の金山の金掘り人足をさせられたのです。
佐渡送りにされたら、二度と生きては戻れないと言われていましたが、栄五郎は見事に島抜けに成功します。佐渡ヶ島には一年位いたようです。
島抜けの後、武州の藤久保に隠れていた時、国定忠治が無宿人を殺して頼って行きます。その頃には、栄五郎の名は博奕打ちの世界では有名になっていて、あちこちに呼ばれては喧嘩の仲裁役を買って出ていました。
41歳の時、兄弟分の栄次郎の仲介で久宮一家との和解が成立して、ようやく、故郷に戻れるようになりました。
明治7年、82歳で亡くなるまで、大親分として各地の親分さんたちから畏敬の目でみられ、仲裁役として活躍していました。

「大前田栄五郎の生涯」より

 大前田栄五郎の略歴

侠客国定忠次一代記
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2006年05月03日

国定忠治の愛妾、お町

国定忠治が捕まった時、一緒にいたのは妾のお町でした。
お町は国定村の隣村の田部井(ためがい)村に生まれ、忠治とは同い年です。
父親は尾内(おない)市太夫といい、お町が幼い頃に亡くなったようです。庄八という兄がいて、博奕打ちになって、尾内の嘉藤太(かとうた)と呼ばれ、身代を潰してしまいます。お町が六歳の時、母親も亡くなってしまい、隣に住んでいた本家の尾内弥平次の養女になります。
弥平次は名主を務めていて、お町は名主の娘として育てられ、読み書き、そろばん、裁縫など、一通りの芸事を習ったようです。村一番の器量よしで、忠治だけでなく、若者たちの憧れの的でした。
16歳の時、伊与久(いよく)村の深町某に嫁ぎますが、二年後には別れて戻ってきます。伊与久村の深町家というのは、学者の家系で、忠治の死後、忠治の悪口を残した深町北荘という人も出ています。堅苦しい家柄に耐えられなくなって、離縁したのかもしれません。
田部井村に戻ってきたお町は忠治と再会して、忠治の妾になります。本妻のお鶴は忠治の実家を守っていて、やくざ渡世に関係しなかったので、お町が子分たちからアネサンと呼ばれていました。
忠治が捕まった時は41歳でしたが、相変わらずの美人で、10歳は若く見えたと伝えられています。
忠治の処刑後、その美貌ゆえに、新田郡田中村の田中秀之進の妾になります。秀之進が尊王運動に身を投じて処刑されると、東小保方(ひがしおぼかた)村の高橋某の後妻に納まります。
高橋某の病死後、田部井村に戻って、裁縫の師匠として過ごし、忠治の死から20年後の明治三年、61歳で亡くなりました。

侠客国定忠次一代記、創作ノート お町の略歴

侠客国定忠次一代記
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2006年05月01日

国定忠治

石川五右衛門と同じように見せしめの処刑にあったのが国定忠治です。
国定忠治とは国定村の忠次郎の略で、本名は長岡忠次郎といいます。
先祖は新田義貞の家臣だったらしく、代々長岡姓を持っていました。身分は農民だったので、堂々と姓を名乗る事はできませんでしたが、国定村の名主も務めた事もある裕福な農民だったようです。
10歳の頃、父親を亡くして、村でも評判のガキ大将に育ち、博奕に熱中します。
当時、博奕はお上に禁じられていましたが、上州の村々では庶民の娯楽として日常茶飯事に行なわれていました。村人たちが集まれば、決まって博奕が始まります。道端やお寺や神社の境内で大っぴらに行なわれていたようです。
養蚕が盛んな上州では農民たちもお金を持つようになり、益々、盛んになって行きます。忠治が博奕を覚えるのも当然の事と言えるでしょう。
農家の仕事は母親が小作人たちを使って切り盛りし、忠治は剣術道場に通いながら遊んでいたようです。そんな忠治の転機は、誤って無宿者を殺してしまった事です。
名主たちの計らいで身を隠した忠治は武州で大前田栄五郎と出会い、匿われます。栄五郎の男気に惚れた忠治は博奕渡世に生きる決心をして、栄五郎の紹介で境宿の隣村の百々(どうどう)村で一家を張っている紋次の子分になります。
紋次親分は境宿を仕切っていましたが、絹の市場で栄えている境宿を狙っていたのが島村の伊三郎です。伊三郎は様々な手を使って、百々一家を潰そうとたくらみ、紋次は抵抗しますが、中風で倒れてしまいます。
紋次の跡を継いで、百々一家の親分になったのが、忠治です。その時、忠治は21歳でした。
その後、伊三郎を殺して勢力を広げ、お上に睨まれる存在となります。子分が捕まり、腹を立てた忠治は大戸の関所を堂々と破ってしまいます。
当時の関所には必ず、抜け道があって、そこを通れば済んだのですが、その時の怒りから、関所をまかり通ってしまったのです。そのお陰で、忠治は全国に指名手配され、逃亡の日々を送らなければならなくなります。
41歳の夏、故郷に帰って来た所を捕まり、江戸送りの後、12月21日、大戸の関所ではりつけ刑に処せられます。
幕府は御威光を見せ付けるために、忠治を大衆の見守る中で殺しましたが、時はすでに遅く、忠治の処刑から18年後には幕府は崩壊します。

侠客国定忠次一代記 創作ノート

侠客国定忠次一代記

国定忠次外伝・嗚呼美女六斬


江戸やくざ列伝  江戸やくざ研究  八州廻りと博徒  国定忠治  
ラベル:侠客
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