2009年03月03日

無外流 辻月丹

辻月丹は慶安2年(1649年)に近江の国、甲賀に生まれます。13歳の時に京都に出て山口流の山口卜真斎の門に入って、26歳の時に印可を得ます。
甲賀に帰った月丹は岩尾山や油日岳に籠もって厳しい修行を重ねた後、江戸に出て道場を開きます。
厳しすぎる教えで道場は流行りませんが、月丹はさらに心の修行をするために麻布の吸江寺の石潭和尚のもとで禅の修行を始めます。
参禅を続けて十数年、45歳の時に月丹は悟りの境地に達して、自らを「一法無外」と号し、剣術を「無外流」と号します。
無外流と号してからは道場も大いに流行り、大名家からも教えを請われ、門弟の数は5000人を超えたと言われています。
享保12年(1727年)6月23日、月丹は79歳で没し、高輪の如輪寺に葬られました。


無外流居合術  真伝無外流居合兵道  甲斐国征泰心 無外流居合兵道  狼よ落日を斬れ  剣客商売 第1シリーズ
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2009年02月11日

二階堂流平法 松山主水

二階堂流平法は中条流平法の流れで、美濃の稲葉山城主だった二階堂氏が代々伝えて、美濃の郷士、松山氏に伝わります。
松山主水の祖父は軍師竹中半兵衛の従弟で、半兵衛の旗本として戦で活躍します。半兵衛の死後、浪人となった祖父は各地を流浪した後、豊臣秀吉の斡旋で加藤清正に仕えます。朝鮮にも出兵して活躍しますが、剣術を極めるために再び、浪人となって鎌倉に隠棲します。
父親は早世し、祖父に育てられた主水は幼い頃より剣術を仕込まれ、二階堂流平法の極意を伝授されます。
寛永6年(1629年)頃、主水は剣術指南役として細川家に仕えます。一千石の禄を貰い、藩士たちの剣術指導にあたりますが、細川父子の争いに巻き込まれて、寛永12年(1635年)10月に暗殺されてしまいます。その時、何歳だったのか不明です。
二階堂流平法では初伝を「一文字」、中伝を「八文字」、奥伝を「十文字」といい、秘伝として「心の一方」と呼ばれる気合の術があります。敵の気の流れを止めて動けなくしてしまう術で、主水の後、誰にも伝わりませんでした。


人物日本剣豪伝(3)  日本剣豪100人伝  戦国剣豪100選  剣豪列伝  日本の古武道  真田剣流
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2008年07月13日

小出切一雲(1630-1706)

小出切一雲は無住心剣流を開いた針ヶ谷夕雲の高弟です。
夕雲の門人になったのは28歳の時で、その時、庄田真流など13流派の免許を持っていて相当の腕前だったようです。師の夕雲はその時、65歳でした。
5年間の修業の後、師と三度、相抜け(無住心剣流の極意)をして印可を受けました。師の死後は道場を継いだと思われます。
晩年は出家して「空鈍」と号し、著書に「剣法夕雲先生相伝」があります。
一雲の門人には跡を継いだ真理谷円四郎、雲弘流を開いた井鳥巨雲がいます。

無住心剣流 針ヶ谷夕雲

剣と禅  剣の精神誌  剣の思想  古武術からの発想  
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2008年05月11日

草津温泉の宿、湯本安兵衛

湯本安兵衛の湯宿でくつろぐ女たち(日新館蔵、喜多川月麿画)


草津温泉の湯本家は建久4年(1193年)、源頼朝から湯本の姓と三日月の家紋を授かったと伝えられています。
戦国時代には湯本善太夫が武田家の家臣となって草津温泉を守りますが、長篠の合戦で戦死してしまいます。善太夫の跡を継いだ三郎右衛門は真田昌幸に仕えて、草津温泉を守ります。
江戸時代には真田家の重臣として活躍しますが、寛文5年(1665年)に跡継ぎがないとの理由で湯本家は断絶させられてしまい、草津温泉は天領となってしまいます。
本家の湯本家はなくなってしまいましたが、分家の平兵衛、角右衛門、安兵衛の三家は江戸時代の初期より草津温泉で湯宿を経営していて栄えていました。
初代湯本安兵衛は郷雪と号して、元禄15年(1702年)に亡くなりました。二代目安兵衛は湯守役を務め、享保7年(1722年)に亡くなります。
三代目安兵衛は年寄役を務め、享保15年(1730年)に亡くなります。以後、代々、年寄役を務めています。
四代目安兵衛は東市と号して、安永8年(1779年)に亡くなり、五代目安兵衛は寛政4年(1792年)に亡くなり、六代目安兵衛は安永8年(1779年)、父親より先に亡くなりました。
七代目安兵衛は竹前と号して、享和元年(1801年)に亡くなり、八代目安兵衛は天保15年(1844年)に亡くなり、九代目安兵衛は雷村と号して、嘉永元年(1848年)に亡くなりました。
草津温泉膝栗毛・冗談しっこなし」では、八代目安兵衛が登場し、九代目が若旦那として登場します。
その後も代々続いて、現在も湯畑の近くで「日新館」という旅館を営んでいます。


  温泉主義  文人が愛した温泉  ベルツの日記(上)  ベルツの日記(下)
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2008年05月03日

二代目十返舎一九

膝栗毛滑稽双六


あまり知られてはいませんが、十返舎一九には二代目を継いだ弟子がいます。本名は糸井武、通称は鳳助といいます。
上州勢多郡花輪村の生まれで、20歳の頃、狂歌師を志して江戸に出て、大田南畝に師事します。滝の糸丈という狂歌名で、文政年間に数多くの狂歌を残しています。
文政6年(1823年)に大田南畝が亡くなると、当時、二代目南仙笑楚満人と称していた為永春水の弟子になって、登仙笑苫人と号します。
その後、27歳の頃に十返舎一九の弟子になって、十字亭三九と号します。一九が亡くなる二年前の文政12年(1829年)に、二代目を譲られたようです。
文政11年に十字亭主人の名で、人情本「谷中の月」を発表、天保7年(1836年)には二世一九の名で、人情本「清談花佳都美」を発表しますが、天保8年、仙石騒動を題材にした作品が、幕府の怒りに触れてしまい、江戸から逐電します。
上州に帰り、名前を変えて赤城山麓に隠れていたようです。ほとぼりの冷めた弘化2年(1845年)に江戸に戻りますが、同門の九辺舎一八(三亭春馬)が二代目十返舎一九を名乗っていました。その後、2人の間で何があったのかはわかりませんが、三九が二代目で、一八が三代目という事に落ち着いたようです。
二代目一九は絵を北斎の弟子の北馬から習い、初代と同じように絵もうまかったようです。


反骨者大田南畝と山東京伝  新編日本古典文学全集(79)  江戸文学(19)  江戸文学(20)  江戸の絵入小説  
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2008年04月26日

草津温泉の俳人、雲嶺庵鷺白

鷺白の句碑


鷺白は本名を黒岩忠右衛門といい、老舗の宿屋の主人です。現在の「ホテル望雲」の先祖にあたります。
芳草舎、老狸窟、雲嶺庵と号して、小林一茶とも交流がありました。一茶は文化5年(1808年)、信州に帰る途中、草津温泉に寄って鷺白を訪ねています。その時は18年振りの再会だったようです。
鷺白は文化文政期の草津温泉の文壇の中心になって活躍し、江戸から訪れた文人墨客たちを大いに歓迎して持て成したようです。
十返舎一九とも交流があって、「草津温泉膝栗毛・冗談しっこなし」では、喜多川月麿を助けて、辰巳芸者の夢吉から渡された手紙の謎解きに一役買っています。
辞世の句は「冬籠り水の恩さへ送りかね」、文政7年(1824年)、78歳で亡くなりました。


小林一茶  小林一茶  一茶と句碑  江戸俳諧歳時記(上)  江戸俳諧歳時記(下)  
ラベル:草津温泉
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2008年04月20日

感和亭鬼武

報仇奇談自来也説話


感和亭鬼武はもと武士で、本名は前野曼七といいます。神道無念流の剣術の達人で、一橋家の勘定役を務めていたのに、さっさと隠居してしまい、戯作に専念するために侍をやめて町人となった変わり者です。
飯田町に住んでいましたが浅草に移り、山東京伝の門人になって戯作を学び、絵は谷文晁に学んでいます。
文化3年(1806年)に発表した読本『報仇奇談自来也説話(挿絵は葛飾北斎)』が大いに受けて、鬼武は売れっ子作家になります。翌年、『自来也説話』は歌舞伎になり、大坂で上演されて大当たりしました。
十返舎一九とは気が合い、一九が主催している「噺の会」にも参加して、一緒に茶番などをして騒いでいたようです。
草津温泉膝栗毛・冗談しっこなし」では、鬼武は重要な役で登場します。


くノ一忍法帖 劇場版 自来也秘抄  伝奇大忍術映画 忍術児雷也  伝奇大忍術映画 逆襲大蛇丸  自来也忍法帖  
ラベル:戯作者
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2008年04月12日

為永春水

梅暦(上)


為永春水は人情本「春色梅暦」の作者として有名です。
人情本というのは洒落本から発達した読物で、婦女子向けの恋愛小説です。当時、女性向けの読物は少なく、春水の人情本は大いに受けました。
寛政2年(1790年)に生まれた春水は20代の半ば頃、越前屋長次郎を名乗って貸本屋を始めます。
文政2年(1819年)、兄の滝亭鯉丈と組んで、人情本「明烏後正夢」を発表します。
天保3年(1832年)、「春色梅暦」の初編を売り出して大当たりします。翌年には続編の「春色辰巳園」を発表、天保7年には「春色恵の花」、天保9年には「英対暖語」、天保12年には「春色梅美婦祢」とシリーズ化されます。
その頃、水野忠邦の天保の改革が始まり、庶民の娯楽も規制されてしまいます。天保12年の暮れ、春水も北町奉行所に呼び出されます。翌年の正月から取り調べが始まり、春水は手鎖50日の判決を受け、春水の本は絶版となってしまいます。この時、歌舞伎の七代目市川団十郎は江戸から追放され、人気戯作者の柳亭種彦は自殺してしまいます。
草津温泉膝栗毛・冗談しっこなし」では、若い頃の春水が越前屋長次郎の名で登場します。


近世文学研究事典新版  新編日本古典文学全集(80)  江戸庶民風俗図絵  柳亭種彦  近世の三大改革  
ラベル:戯作者
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2008年04月06日

曲亭馬琴



曲亭馬琴は「南総里見八犬伝」の作者として有名です。
25歳の正月、山東京伝の門人、大栄山人という名で、黄表紙を売り出したのが、戯作者としての始まりです。
その頃、京伝の紹介で、版元の蔦屋重三郎のもとで番頭として働きながら黄表紙を書きます。
何作もの黄表紙を発表しますが、話題になる作品もなく、失敗に終わりますが、文化元年(1804年)、38歳の時に売り出した読本「月氷奇縁」が転機となって、以後、読本作者としての活躍が始まります。
文化4年から文化8年にかけて、源為朝を主人公にした読本「椿説弓張月」を発表します。挿絵を描いたのは葛飾北斎で、この作品は大いに受けて、歌舞伎にもなります。
そして、文化11年(1814年)から「南総里見八犬伝」を発表します。全98巻、106冊にも及ぶ大作が完結したのは天保13年(1842年)でした。「八犬伝」の挿絵を描いたのは北斎の弟子の柳川重信と北斎の弟子ではありませんが北斎に私淑していた渓斎英泉です。重信が天保3年に亡くなった後は二世重信を継いだ弟子が引き継ぎました。


草津温泉膝栗毛・冗談しっこなし


里見八犬伝の世界  南総里見八犬伝  里見八犬伝  THE 八犬伝 / アニメ  里見八犬伝  
ラベル:戯作者
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2008年03月29日

蔦屋重三郎

東洲斎写楽『奴江戸兵衛』木版画


蔦屋重三郎は「蔦重」と呼ばれ、喜多川歌麿や東洲斎写楽を売り出した版元として有名です。
寛延3年(1750年)の正月、吉原の遊廓内で生まれた蔦重は二十代の半ば頃、吉原の大門前に小さな本屋を開業して、「吉原細見」と呼ばれる遊廓の案内書を売り始めます。
安永9年(1780年)頃から、黄表紙や洒落本、狂歌本などを売り出し、天明3年(1783年)、老舗の版元が居並ぶ通油町に進出します。
寛政3年(1791年)、正月に売り出した山東京伝の洒落本が風紀を乱す違法出版物だと指摘されて、身代を半減されてしまいますが、蔦重は歌麿の美人大首絵を売り出して巻き返します。
そして、寛政6年の5月から、謎の絵師、写楽の役者絵を売り出します。
十返舎一九が「東海道中膝栗毛」を売り出して有名になった頃、蔦重はすでに亡くなっていましたが、売れる前の一九は蔦重に居候して、色々と世話になっていました。若き日の葛飾北斎と曲亭馬琴も蔦重の世話になっています。


草津温泉膝栗毛・冗談しっこなし


  写楽 Sharaku  歌麿 夢と知りせば  探訪・蔦屋重三郎  江戸の出版事情  図説浮世絵に見る江戸吉原新装版
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2008年03月19日

滝亭鯉丈

都一まり・都一志朗/一中節


滝亭鯉丈は都八造と称して、一中節の三味線弾きとしても有名でした。寄席にも顔を出して、落語をやったり、一中節や新内節を語りました。手先が器用で、櫛作りや竹細工、象牙細工、駕籠の修繕などもしたようです。
40歳位から滝亭鯉丈の名で滑稽本を書き始め、文政3年(1820年)に売り出した「花暦八笑人」は大いに受けました。
その前年には実の弟の為永春水と組んで人情本「明烏後正夢」を発表します。春水はこれを発展させて、人情本の代表と言われる「春色梅暦」を生み出します。
草津温泉膝栗毛・冗談しっこなし」では、都八(とっぱち)と呼ばれていた若い頃、鯉丈は十返舎一九と一緒に草津温泉に行っています。弟の春水も越前屋長次郎という名で登場します。


江戸の出版事情  江戸の広場 江戸庶民風俗図絵 江戸文学(19)戯作の時代 江戸文学(20)戯作の時代2 一中節十二世都一中の世界 
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2008年03月01日

玉村宿の玉斎楼

飯盛女


日光例幣使道の玉村宿は飯盛女と呼ばれる宿場女郎が大勢いた事で有名ですが、中でも、玉斎楼(ぎょくさいろう)と呼ばれた万屋(よろずや)は玉村一の旅籠屋でした。
玉斎楼は豪奢な構えで、江戸の吉原にも2軒とはあるまいと言われ、近くにある岩鼻代官所の代官や関東取締出役がよく利用していました。1868年の記録では部屋数が80室もあったと書かれています。40人前後の飯盛女を抱えていたようです。
主人は千輝(ちぎら)幸兵衛(1790-1872)といい、中之条の町田という家に生まれましたが、生家が没落してしまい、玉村の酒屋に婿入りします。機知に富んだ人で、金儲けもうまく、飯盛旅籠屋を始めて大成功します。幸兵衛は絵画、彫刻、俳句、茶の湯、陶芸など多芸に秀でて、玉斎と号しました。旅籠屋の屋号は万屋ですが、人々は玉斎楼と呼び、そちらの名前の方が有名になってしまったようです。
侠客国定忠次一代記」では、忠次は玉斎楼で大戸の分限者、加部安と出会い、豪勢に遊びます。


日本売春史  娼婦と近世社会  宿場の日本史  宿場と飯盛女    
ラベル:街道
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2008年02月21日

生田万

生田万(よろず)は享和元年(1801年)、上州館林藩士の長男に生まれ、23歳の時に江戸に出て、国学者の平田篤胤の門人になります。
文政11年(1828年)10月、藩政改革の意見書を提出しますが、それが藩主の怒りに触れて、館林藩から追放されてしまいます。再び江戸に出て、篤胤のもとで4年間暮らしてから、館林の近くの太田に私塾を開きます。
天保7年(1836年)5月、万は江戸の篤胤門下で共に勉学に励んだ神官の樋口英哲を訪ねて柏崎に行きます。英哲に歓迎された万は、柏崎に移住する決心をして、その年の9月、家族を連れて柏崎に移り、「桜園塾」という私塾を開きます。
そして、翌年の6月、柏崎の代官陣屋を襲撃しますが、失敗して自害してしまいます。
当時、天保の飢饉の真っ最中で、越後では餓死者が続出していました。にもかかわらず、越後の米は江戸の豪商に買い占められて、次々に江戸に運ばれてしまいます。それを禁止しないのは代官も悪徳商人たちと結託しているに違いないと万は同志5人と一緒に代官屋敷を襲撃したのです。その年の2月、大坂で起こった大塩平八郎の乱が影響しているといわれています。
陣屋の襲撃後、米価は下がり、民衆は助かりましたが、万の妻子は捕まってしまいます。万の妻は牢屋の中で、二人の子供を殺し、万の後を追って自害します。


百姓一揆事典  浜田藩清廉記  新・にいがた歴史紀行(6)  平田篤胤の学問と思想



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2008年02月16日

赤堀村の本間道場

国定忠次が生きていた時代、国定村の近くの赤堀村に本間道場という剣術道場がありました。
道場主は本間千五郎(1784-1874)といい、門人は数百人いたと言われています。北辰一刀流の千葉周作が伊香保神社に額を奉納しようとして、馬庭念流の樋口家と争いになった事件に千五郎も参加しています。俳人としても有名で「丹頂」と号し、島村の絵師、金井烏洲とも交流がありました。
千五郎の祖父は権八郎(1721-1756)といい、力持ちの大男で草相撲の大関を務め、剣術の達人でもありましたが、蚕種の商用で奥州を旅している最中に食中毒で亡くなってしまいました。
権八郎の嫡男、仙五郎(1744-1815)は、赤城山に籠もって厳しい修行を積んで荒木流の免許を授かり、さらに、馬庭念流の樋口道場に入門して、免許を授かって道場を開きます。1773年には、樋口家より永代免許を授けられます。
千五郎は仙五郎の長男で、父親の跡を継いで道場主になりました。


日本の古武道  人物日本剣豪伝(3)  北斗の人    
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2008年02月08日

百々村の紋次親分

国定一家の忠次親分も当然の事ながら、最初から親分だったわけではなく、子分時代がありました。
絹糸市が開かれて栄えていた日光例幣使道の境宿の隣に百々(どうどう)村という村があって、そこで「百々一家」を張っていた紋次親分がいました。忠次は大前田栄五郎の紹介で紋次の子分になります。
紋次親分は百々村の裕福な農家に生まれますが、若い頃に村を飛び出して渡世人の世界に入ります。村に戻って来たのは28歳頃で、その時に一家を張ります。縄張りは境宿を中心に、その周辺で、大前田栄五郎とは兄弟分です。
忠次が子分になって三年後、紋次は病に倒れてしまいます。そこで、跡目を継いだのが、まだ21歳だった忠次です。忠次は百々一家の親分になったわけです。
百々一家の親分になって4年後、忠次は島村の伊三郎親分を殺して勢力を広げます。忠次が本拠地を百々村から田部井(ためがい)村に移して、「国定一家」を名乗ったのは、天保7年(1836年)4月の事でした。
隠居した紋次は天保13年(1842年)3月11日、50歳で亡くなりました。戒名は「花輪昶光居士」です。


侠客国定忠次一代記


日光・奥州道中・日光例幣使道を行く  八州廻りと博徒  絹    
ラベル:侠客
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2008年01月28日

御子神の丈吉

御子神の丈吉


笹沢佐保の股旅小説に「無宿人御子神の丈吉」というのがあります。一度は足を洗って堅気になった丈吉が妻を殺されて、復讐するために再び、渡世の道に入ります。丈吉の仇が国定忠次という設定です。
1972年、原田芳雄主演で映画化され、国定忠次役は峰岸隆之介(峰岸徹)でした。中村敦夫も疾風の伊三郎という役で出ています。
「川風に過去は流れた」「牙は引き裂いた」「黄昏に閃光が飛んだ」とシリーズ化されて三本作られました。若き日の松尾嘉代、中野良子、安田道代(大楠道代)も出演しています。
今、もう一度、観てみたいと思いますが、DVD化されていないようなので残念です。



御子神の丈吉 / 牙は引き裂いた  御子神の丈吉 / 黄昏に閃光が飛んだ
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2008年01月20日

木枯し紋次郎

木枯し紋次郎


笹沢左保原作の「木枯し紋次郎」は1972年正月から中村敦夫主演でテレビドラマ化されて、大ヒットしました。
「あっしには関わりがねえこって」が流行語になり、長い楊枝を口にくわえるのが流行りました。私も紋次郎に憧れて、中山道を歩いたりもしました。
小説の「木枯し紋次郎」は、友人の罪をかぶって三宅島に島送りにされた紋次郎が島抜けして、裏切った友人を斬るという第一話「赦免花は散った」で始まります。この話はテレビドラマ化されていませんが、菅原文太主演で映画化されて、1972年6月に公開されました。菅原文太の紋次郎もそれなりによかったと思います。
原作の第三話「湯煙に月は砕けた」で、紋次郎は足を怪我して伊豆で湯治します。時は天保7年(1836年)、紋次郎は31歳となっています。当時は数え歳だったので、紋次郎は文化3年(1806年)生まれとなります。文化7年(1810年)生まれの国定忠次より4歳年上のようです。
1977年から始まった「新木枯し紋次郎」の第16話「二度と拝めぬ三日月」で、原作者の笹沢左保が国定忠次役で出演しています。見たはずですが、どんな話だったか思い出せません。





木枯し紋次郎 DVD-BOX 1  木枯し紋次郎 DVD-BOX 2  木枯し紋次郎 DVD-BOX 3  木枯し紋次郎 DVD-BOX 4  木枯し紋次郎中山道を往く(1(倉賀野〜長久保)  木枯し紋次郎中山道を往く(2(塩尻〜妻篭))
ラベル:侠客
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2008年01月15日

国定忠次と有名な侠客たち

大親分と呼ばれた大前田栄五郎は寛政5年(1793年)生まれですから、忠次より17歳年長です。
「天保水滸伝」で有名な笹川の繁蔵は文化7年(1810年)生まれで、忠次と同い年です。八丈島送りになった津向の文吉も忠次と同い年です。
清水の次郎長は文政3年(1820年)生まれですので、忠次より10歳も若く、忠次との接点はなかったようです。
黒駒の勝蔵は天保3年(1832年)生まれで、忠次より22歳年下、吉良の仁吉は天保10年(1839年)生まれで、忠次より29歳年下です。
竹居の吃安(どもやす)は文化8年(1811年)生まれで、忠次より1歳年下です。記録には残っていませんが、忠次と接点があったかもしれません。忠次が磔刑になった嘉永3年(1850年)、吃安は捕まって新島に島送りになりますが、8年後、島抜けに成功して、甲州に戻って来ます。
上州館林の江戸屋虎五郎は文化11年(1814年)生まれで、忠次より4歳年下、忠次が世話になった藤久保の重五郎の子分なので、忠次とは面識があっただろうと思います。
会津の小鉄は弘化2年(1845年)生まれで、忠次が処刑になった時、まだ5歳でした。


侠客国定忠次一代記


巷説天保水滸伝  からくり乱れ蝶  次郎長富士    
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2007年08月01日

渓斎英泉


英泉は退廃的な婀娜(あだ)っぽい、粋な美人画を描いた浮世絵師です。
寛政3年(1791年)、江戸星ケ岡に池田政兵衛の子として生まれ、善次郎と名付けられます。6歳の時、母親が亡くなり、翌年、父親は後妻を迎えます。
12歳の時、狩野白珪斎に師事して絵を学びます。
15歳の時、元服して、安房北条の水野壱岐守の江戸屋敷に仕えます。侍奉公は向いていないのか、17歳の時に上役と喧嘩して追い出されてしまいます。
浪人となった善次郎は父親の知り合いのつてで、市村座の狂言作者、篠田金治の弟子となって、千代田才一と名乗ります。
20歳の時、父親と継母が相次いで亡くなってしまい、善次郎が3人の妹の面倒を見なくてはならなくなります。仕方なく狂言作者を諦め、浮世絵師、菊川英山の弟子になって英泉と号します。
当時、英山は可憐な美人を描く絵師として人気絶頂でした。善次郎は英山宅に居候しながら、英山から美人絵を学びますが、北斎宅にも出入りして、弟子にはなりませんが、北斎から様々な事を学びます。
英泉を語るには、艶本(春画)抜きには語れません。22歳の時、千代田淫乱の名で最初の艶本『絵本三世相』を発表し、24歳の時には『恋の操(あやつり)』を発表します。美人絵の方も英山色から離れて、英泉独自の婀娜っぽさが現れて、人気が出て来ます。
26歳の時には、北斎から譲られた可候という号を使って、合巻『桜曇(はなぐもり)春朧夜』を発表しています。絵師として認められながらも、文を書く事も諦められなかったようです。その合巻では絵と文、両方を書いています。
毎年のように艶本を発表していますが、文政5年(1822年)に発表した『春野薄雪』は傑作と言っていいでしょう。
30歳頃からは人情本や読本の挿絵も手がけ、曲亭馬琴の『南総里見八犬伝』の挿絵も描いています。
文政12年3月の江戸大火で、英泉の家も焼けてしまい、さらに縁者の保証倒れに会い、英泉は若竹屋と号して女郎屋を始めます。
天保の改革後は画業よりも文筆業に力を置いて、合巻や滑稽本を書いています。
嘉永元年(1848年)7月、58歳で亡くなりますが、なかなか興味深い男です。縁があって、彼が書いた合巻や滑稽本を読む事ができたら、彼の事を小説に書きたいと思っています。


渓斎英泉作品略目録   艶本一覧   定本・浮世絵春画名品集成(5)
ラベル:浮世絵師
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2007年03月01日

関東取締出役と道案内

八州廻りとか八州様とか呼ばれる関東取締出役(しゅつやく)が設置されたのは文化2年(1805年)6月の事です。
関東の国々は幕府の直轄領(天領)、旗本領、藩領、寺社領がモザイクのように入り乱れていて、支配者の違う他領に逃げ込んだ犯罪者を逮捕する事ができませんでした。特に上州(群馬県)は細切れ状態になっていて、犯罪者が潜伏したり逃亡するのに都合がよく、多くの博徒が生まれるのも当然と言えました。そこで幕府が考えたのが、どこへでも踏み込んで行って犯罪者を逮捕できる権限を持った関東取締出役でした。
文政10年(1827年)の頃、関東取締出役は10人いて、上州と武州を担当していたのは吉田左五郎、河野啓助、太田平助、脇屋武左衛門の4人、上総と下総を担当していたのは武藤佐左衛門、森東平、松村小五郎の3人、野州担当は下山逢七が1人、そして、江戸で待機していたのが田地門五郎、堀江与四郎の2人だったと記録に残っています。
彼らは江戸に住んでいるため、地方を巡回するには道案内を必要としました。道案内は原則として村の名主たちが務めるべきでしたが、取り締まりの対象が博奕打ちや無宿者なので、そういう者たちを捕まえるには内情をよく知っている者でなくてはなりません。そこで、顔の売れている博奕打ちの親分を道案内に採用する事になって行きます。これを『二足の草鞋』といって、国定忠治と対立した島村の伊三郎もそうでした。
道案内は無報酬でしたが、八州様を後ろ盾にした役得は多かったようです。博奕を見逃してやるからと言って賄賂を貰ったり、払わない博徒は捕まえて江戸に送り、その縄張りは自分のものにしました。
飯盛女と呼ばれる宿場女郎は一軒に二人までという決まりでしたが、それを守っている旅籠屋はありません。見逃してやるからと言って賄賂を貰い、払わない者は捕まえました。
料理屋や分限者(金持ち)の所に顔を出して、何か問題が起きたら俺がうまくやってやると言っては袖の下を受け取ったりしていました。十手をちらつかせて、人の弱みに付け込んでは勢力を広げて行ったのでした。

嗚呼美女六斬

侠客国定忠次一代記
ラベル:侠客
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2007年02月21日

保泉の久次郎

国定忠治の子分、保泉の久次郎は上州保泉村(群馬県伊勢崎市)の農家の次男に生まれます。
15歳の頃、百々(どうどう)一家の三下奴(さんしたやっこ)になって、17歳の頃、子分に取り立てられます。久次郎が子分になった頃、国定村の忠治が大前田栄五郎の紹介状を持って、百々一家にやって来ます。
忠治は久次郎より一つ年上でした。久次郎は忠治を兄貴分として迎えます。
久次郎が20歳になった夏、親分の紋次が中風で倒れ、忠治が跡目を継ぐ事になります。忠治の兄貴分だった三ツ木の文蔵も忠治の子分になり、久次郎も忠治の子分になります。この時、客人として滞在していた日光の円蔵は若い忠治を助けるために軍師として残ります。
久次郎が24歳の時、忠治は対立していた島村の伊三郎親分を殺し、文蔵を連れて旅に出ます。日光の円蔵を助けて、百々一家の留守を守っていたのが久次郎でした。
天保7年(1836年)、忠治は田部井村(国定村の隣村)に新居を構えて、国定一家を名乗ります。その時、久次郎は代貸(だいがし)となって、保泉村に賭場を開帳します。
天保13年、忠治は下植木の浅次郎に命じて、三室の勘助父子を殺させます。八州様と呼ばれる関東取締出役の詮索も厳しくなって、その年の10月、浅次郎、茂呂の茂八、富塚の角次郎らが捕まり、久次郎も捕まってしまいます。11月には日光の円蔵も捕まって、さらし首にされます。久次郎がさらし首にされたのかどうかはわかりませんが、処刑されたようです。32歳の短い生涯でした。
それから八年後、親分の忠治も捕まり、大戸で磔(はりつけ)刑に処せられました。

侠客国定忠次一代記

国定忠次外伝・嗚呼美女六斬
ラベル:侠客
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2007年02月18日

浮世絵師 歌川貞利

貞利は上州(群馬県)島村の裕福な農家の次男に生まれます。近くに住んでいた絵師、金井烏洲(うじゅう)から絵を習い、さらに、江戸に出て、有名な浮世絵師、歌川国貞の弟子になります。
江戸で役者絵や美人絵を売り出しますが、24歳の時、兄弟子と喧嘩をして、故郷に帰り、木崎宿に落ち着きます。
日光例幣使(れいへいし)街道の木崎宿は飯盛女と呼ばれる宿場女郎が大勢いて賑わっていました。貞利は飯盛女たちを美人絵に描いて売り出し、評判になります。そして、飯盛女たちの生活を題材にした艶本(春本)も描いて、こちらも大いに受けます。
博奕打ちの親分である島村の伊三郎が後ろ盾になって、貞利は毎年、美人絵や艶本を売り出します。
天保5年(1834年)、境宿で、小町と呼ばれた美しい娘が行方知れずになり、5日後、バラバラにされた死体が絹市の後に発見されます。貞利が美人絵に描いた娘だったので、責任を感じて、下手人の捜索を手伝い、見事に下手人を捕まえます。
貞利はそのバラバラ殺人事件を題材にして、艶本を描きます。『嗚呼美女六斬(ああびじょむざん)』と名付けた艶本は、目をそむけたくなるような残酷な場面が多い艶本でしたが、旦那衆たちが競って買い求め、大評判になりました。
とはいっても、貞利は私が創作した人物です。貞利の活躍を描いた『国定忠治外伝・嗚呼美女六斬』をお楽しみ下さい。

国定忠治外伝・嗚呼美女六斬


絵入春画艶本(えほん)目録  江戸庶民の性愛文化を愉しむ
ラベル:浮世絵師
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2006年12月17日

三代目中村歌右衛門

豊国画「三代目中村歌右衛門」
文化5年(1808年)3月、31歳の時に、中村歌右衛門は上方から江戸に下って来て大活躍します。
目はぎょろっとして体は小さく、体格や容貌には恵まれなかったようですが、演技力でカバーして江戸っ子たちの人気者になります。
主役だろうが悪役だろうが、男役だろうが女役だろうが何でもこなして、一つの芝居の中で七変化や九変化をやって観客をあっと驚かせました。
「仮名手本忠臣蔵」では高師直、大星由良之助、斧定九郎、おかるの母親、弥五郎、戸無瀬、天河屋義平の七役を見事に演じ分けたそうです。
ぎょろっとした目を生かして、石川五右衛門は当たり役でした。
屋号は加賀屋、俳名は梅玉、あるいは芝翫(しかん)と号しています。


  假名手本忠臣蔵(大序・三段目・四段目)  假名手本忠臣蔵(道行・五段目・六段目)  假名手本忠臣蔵(七段目)  假名手本忠臣蔵(九段目・大詰)

  草津温泉膝栗毛・冗談しっこなし
ラベル:歌舞伎
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2006年10月30日

松林蝙也斎

蝙也斎(へんやさい)は15歳の時に上州と信州の国境に聳える浅間山に籠もって、三年間の修行の後、夢想願流という独自の武術を編み出して、武者修行の旅に出ます。
時は慶長15年(1610)、戦国時代が終わりを告げようとしていた頃です。
30歳の頃は関東郡代を務める旗本の伊奈備前守のもとに居候して、剣術を教えていたようです。その後、江戸に出て道場を開き、50歳を過ぎて、仙台藩の伊達家に300石で召し抱えられます。
59歳の春には将軍家光の御前で剣術を披露して、家光に気に入られて大層、褒められます。その時、家光が「まるで、蝙蝠のようだ」と言った事から、それ以後、蝙也斎と号したようです。それ以前は、無雲と号していました。
蝙也斎の武術はとても人間業とは思えないほど、超人的なものでした。動きが素早くて、身が軽く、天狗の舞を見ているようだと言われます。同じ時代を生きた針ヶ谷夕雲が心法を重んじたのとは、まるで正反対の武術でした。
ただ強いだけではなく、人間的にもできていた人物のようで、人々から尊敬され、女性たちにも慕われていたようです。

陰の流れ外伝 針ヶ谷夕雲


秘剣影法師  蝙蝠の剣  剣の達人111人データファイル  日本剣豪列伝
ラベル:武芸者
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2006年09月24日

針ヶ谷夕雲

夕雲(せきうん)は江戸時代初期の剣豪です。江戸に出て、小笠原源信斎から真新陰流を習います。源信斎の師は奥山休賀斎で、休賀斎の師は新陰流の流祖、上泉伊勢守です。
夕雲が8歳の時、関ヶ原の合戦が起こって、11歳の時、徳川家康が江戸に幕府を開きます。22歳の時、大坂冬の陣があり、翌年、大坂夏の陣があって豊臣家は滅亡します。
徳川家によって天下は統一されましたが、徳川家に対する不満分子はまだ多く、戦が完全に終結したわけではありませんでした。いつ、反乱が起こるかわからない状況でした、腕に自身のある浪人たちは諸国武者修行と称して、自分を高く買ってくれる仕官口を捜して旅に出ました。
夕雲も武者修行の旅を続けていた1人でした。夕雲の場合は仕官口探しというよりは、強くなりたい一心で、自分の腕を試すという方が強かったようです。何度も真剣勝負をして勝ち続けますが、ある日、自分の剣術に疑問を持ちます。
自分は強くなったが、ただ、それだけでいいのか。本物の剣術というものはもっと大きなものではないのか。流祖、伊勢守の剣術はもっと大きなものだったような気がすると思い、悩みます。
虚伯和尚のもとに参禅したりして、悩み抜いたあげくに悟った極意が、相抜けという境地です。極意を悟った夕雲は新陰流を捨てて、新たに、無住心剣流を開きます。
流祖、伊勢守は新陰流を広めるために、いくつかの形を決めました。弟子たちはその形から入って行って、修行を積んで極意まで達します。伊勢守の考えた形は弟子たちに伝わり、弟子たちはさらに工夫を加えて、自分の弟子たちに伝えます。そうして、代々、形が重要なものとして伝えられて行きます。
形というのは剣術を極めるための手段の一つに過ぎなかったのですが、やがて、代々伝わって来た形そのものが重要なものだと勘違いしてしまいます。相手がこう来たら、こう返す、そう来たら、そう返さなければならないという風に形に囚われてしまいます。夕雲は自分でも知らないうちに形に囚われてしまっていた事に気づいて、そこから自分を解放したのです。
表現の仕方は違いますが、夕雲は流祖、伊勢守と同じ境地まで達したのだと思います。

陰の流れ外伝 針ヶ谷夕雲


剣と禅  剣の精神誌
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2006年08月29日

大戸の加部安左衛門

上州吾妻郡大戸村に代々、加部安左衛門を名乗る上州一の分限者がいました。みんなから加部安(かべやす)と呼ばれて親しまれていました。
初代は富沢掃部といって、戦国時代に生きた武士だったようです。
三代目から加部姓を名乗ります。三代目から五代目までは八右衛門を名乗っていて、六代目から安左衛門を名乗っています。
七代目の加部安が立派な人だったようで、酒造業を始めて、麻の仲買いなどもして、財産を蓄えます。
八代目も立派な人で、父親の稼業を継いで財産を増やし、巨万の富を蓄えます。
天明三年(1783年)に浅間山が大噴火を起こして、鎌原村をはじめとして吾妻郡の村々は壊滅状態となり、避難民が溢れます。八代目は財産を惜しまず、避難民の救済に当たります。翌年の正月、その功績によって、幕府より帯刀を許されます。天明六年の大洪水の時も、避難民たちを救っています。
九代目は婿養子で、松井田の分限者、儘田又兵衛の次男だったようです。
十代目は八代目の長男で、学問を好みましたが、それ以上に遊興を好み、江戸に出ては、吉原遊廓で派手に豪遊していました。お陰で、父親の残した財産も使い果たしてしまいました。晩年は江戸で暮らしていたようです。
十一代目は江戸で生まれて、江戸で育ちますが、郷里に戻って、家業の建て直しを図ります。この十一代目は侠客の国定忠治とも仲がよく、忠治が処刑される時、最期に望んだのが、加部安が造った銘酒「牡丹」でした。
十二代目は琴堂と号して、俳諧に熱中します。明治の時代になって、横浜に進出して大きな店を出し、貿易に手を染めますが、どうやら失敗したようです。
現在、大戸の関所跡の近くに加部安の屋敷跡がひっそりと残っています。

天明三年浅間大焼 鎌原村大変日記
ラベル:分限者
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2006年07月20日

葛飾北斎

「富嶽三十六景」で有名な北斎は、一般に「葛飾北斎」の名で親しまれていますが、色々な画号を使っています。
幼い頃は時太郎、元服してからは鉄蔵が本名です。
20歳の頃、役者絵で有名だった勝川春章の門人となって、勝川春朗の画号を貰います。時々、群馬亭や白山人可候を名乗る時もありますが、36歳頃までは春朗を使っています。春朗時代は主に黄表紙の挿絵を描いていたようです。
37歳の正月に売り出した狂歌集で、北斎宗理を名乗り、その後、春朗を使う事はありません。41歳の時には北斎辰政、42歳では画狂人北斎を名乗ります。この頃は狂歌本の挿絵を数多く描いていて、自画自作の黄表紙を書く時には時太郎可候という号も使っています。この可候という号は渓斎英泉に譲られ、英泉が文章を書くときに一筆庵可候と号しています。
47歳の頃から葛飾北斎を名乗り、この頃より読本の挿絵に熱中します。曲亭馬琴と組んで、「椿説弓張月」などの傑作を残します。
55歳の時、「北斎漫画」を売り出し、これが大いに受けて、北斎の名は日本中に知れ渡ります。以後、「北斎漫画」の続編が何作も作られ、北斎の名を弟子に譲った後も、この本だけは北斎の名で出しています。
56歳の頃に北斎戴斗、還暦を過ぎてからは為一と改めます。「富嶽三十六景」は68歳の時に描き始めて、74歳の時に完成しています。
75歳の頃に画狂卍と名乗り、晩年は肉筆画に熱中していたようです。90歳で亡くなるまで、決して絵筆を離さず、死ぬ時になっても自分の絵に満足しなかったようです。まだまだ、遣り残した事があると無念の想いを残して、あの世へと旅立ちました。
掃除をするのが面倒くさくて、部屋が汚れる度に引越しを繰り返していた北斎は、名前にもこだわる事なく、気分転換のつもりで色々と変えていたのかもしれません。
天明3年、まだ売れる前の春朗時代の北斎が浅間山を描くために鎌原村に行ったかどうかわかりませんが、旅が好きな北斎のことだから、もしかしたら浅間焼けを見に行ったかもしれません。小説に色を添えるつもりで、「天明三年浅間大焼 鎌原村大変日記」に北斎に登場してもらいました。

天明三年浅間大焼 鎌原村大変日記


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2006年06月03日

辰巳芸者の夢吉

江戸城の辰巳の方角にあったので、辰巳と呼ばれた深川は岡場所(非公認の遊里)として賑わっていました。粋な芸者衆がいた事で有名で、公認の吉原遊廓に対抗していました。吉原は色々なしきたりがあって面倒なので、気楽に遊べる深川を好む通人も多かったようです。
為永春水の人情本「春色梅暦」は当時の深川を舞台に、芸者たちの色恋を面白く書いています。ちなみに、若き日の為永春水は越前屋長次郎と名乗っていて、『草津温泉膝栗毛・冗談しっこなし』に登場します。
夢吉の本名は卯月(うづき)といい、父親は浮世絵師の勝川春輝、母親は商家の娘です。二人は駆け落ちして深川の裏長屋に住みます。夢吉が5歳の時、父親は病死し、母親は料理屋に女中奉公に出ます。
夢吉は15歳で鶴屋に奉公に出て、17歳の時、芸者として座敷に出ます。持ち前の美貌で、翌年にはもう売れっ子芸者として持てはやされます。
19歳の時、歌麿の美人絵に描かれて、さらに有名になります。この頃、月麿と出会い、月麿に惚れられます。
21歳の時、母親が倒れてしまい、看病するために、仕方なく相模屋の妾になります。
24歳の時、母親も亡くなり、翌年には火事で相模屋が焼けてしまいます。
夢吉は江戸を去る決心をして、かつての芸者仲間に呼ばれて草津温泉へと向かうわけです。すべてを失い、再出発のつもりでした。まさか、月麿が後を追って来るなんて夢にも思っていませんでした。


 春色梅暦(上)


草津温泉膝栗毛・冗談しっこなし


辰巳八景  大江戸妖美伝  考証江戸を歩く
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2006年05月31日

喜多川歌麿と艶本

艶本(えほん)は枕絵とか、春本とか、わ印(わらい本)とか呼ばれています。
江戸時代、幕府に禁止されていた書物ですが、版元は裏に隠れて盛んに出版していました。それを描く浮世絵師も勿論、禁止されているのを承知で、腕によりを掛けて描いていました。
美人絵を描かせたら天下一品と言われる歌麿は当然のごとく、腕をふるって素晴しい艶本を何冊も残しています。色のない墨摺りの半紙本が多いのですが、寛政11年(1799年)、47歳の時に売り出した「ねがひの糸ぐち」と享和2年(1802)、50歳の時に出した「絵本小町引」は多色摺りで折帖仕立ての豪華なものでした。
寛政9年から文化元年(1804)まで、毎年、艶本を売り出していた歌麿でしたが、その年の5月、「太閤記」に関する浮世絵を描いたという理由でお上に捕まってしまい、3日間、牢屋に入れられて責められ、その後、50日間の手鎖りの刑に処せられます。
当時、太閤記ものが流行っていて、歌麿もそれに便乗したのですが、豊臣秀吉の出世話である「太閤記」には徳川家康が出てきます。江戸時代、徳川幕府の始祖である家康は東照大権現様という神様になっていて、神様の事をとやかく言うのはけしからんと言うわけで、捕まってしまったのです。
「太閤記」は単なる口実に過ぎず、贅沢になった町人たちを取り締まるために、有名になりすぎた歌麿をみせしめとしたのでしょう。みせしめにされたのは歌麿だけではなく、弟子の月麿、勝川春亭、勝川春英、歌川豊国、そして、十返舎一九も手鎖り50日の刑に処せられました。
その時、歌麿は52歳でした。その刑の後、歌麿は懲りて艶本は描かなくなります。歌麿だけでなく、歌川派、勝川派の浮世絵師も描かなくなり、葛飾北斎とその弟子のような存在の渓斎英泉の活躍が始まります。
刑の後、歌麿はかなり落胆して、2年後には亡くなってしまいました。


 喜多川歌麿の履歴

 艶本一覧


草津温泉膝栗毛・冗談しっこなし


歌麿の謎美人画と春画  喜多川歌麿  春画  江戸春画性愛枕絵研究  春画浮世絵の魅惑(4)  春画・江戸ごよみ(夏の巻)  春画と肉筆浮世絵  
ラベル:浮世絵師
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2006年05月28日

山東京伝

十返舎一九が活躍していた当時、江戸で一番有名な作家は山東京伝でした。
京伝に憧れて戯作者になった者も多く、一九を初めとして、「里見八犬伝」の曲亭馬琴も、「浮世風呂」の式亭三馬も、「自来也説話」の感和亭鬼武も皆そうです。
京伝は初め、絵師を目指して北尾重政の弟子になります。北尾政演の名で美人絵なども売り出しています。浮世絵師としても立派にやっていけたでしょうが、22歳の時に自分で絵も文章も書いた黄表紙「御存知商売物」が大いに受けて、以後、文章の方に力を入れて行き、遊廓の吉原を舞台にした洒落本をいくつも売り出します。
25、6歳の頃にはもう江戸で一番の売れっ子作家になっていて、版元の蔦屋重三郎と連れ立ち、吉原で花魁(おいらん)に囲まれて贅沢な遊びを繰り返していた事でしょう。30歳の時に、吉原の遊女だったお菊を妻に迎えます。この頃、馬琴が京伝に弟子入りしています。
順風満帆だった京伝も翌年、風紀を乱す書物を出版したとしてお上に捕まってしまい、蔦屋重三郎と共に手鎖り50日の刑に処せられます。この事が大分こたえたとみえて、京伝は以後、作家活動をやめて、煙草入れを売る店を開きます。しかし、刑に処せられた事によって、かえって、京伝の名は有名になってしまい、世間の方が放ってはおきません。版元の催促もあって、黄表紙などを書いていましたが、40歳の時、本格的な読物である読本「忠臣水滸伝」を発表します。
「忠臣水滸伝」は大いに受けました。以後、「桜姫全伝」「稲妻表紙」「本朝酔菩提全伝」など何作もの読本を発表します。
江戸の文学は戯作と呼ばれて、文学扱いされていないのが残念です。京伝の作品が文庫本にでもなって、もっと身近に読めるようになってほしいものです。

 山東京伝の略歴

 江戸戯作


草津温泉膝栗毛・冗談しっこなし


反骨者大田南畝と山東京伝  江戸文芸とともに  山東京傳全集(第3巻)  山東京傳全集(第17巻)  探訪・蔦屋重三郎
ラベル:戯作者
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