英泉は退廃的な婀娜(あだ)っぽい、粋な美人画を描いた浮世絵師です。
寛政3年(1791年)、江戸星ケ岡に池田政兵衛の子として生まれ、善次郎と名付けられます。6歳の時、母親が亡くなり、翌年、父親は後妻を迎えます。
12歳の時、狩野白珪斎に師事して絵を学びます。
15歳の時、元服して、安房北条の水野壱岐守の江戸屋敷に仕えます。侍奉公は向いていないのか、17歳の時に上役と喧嘩して追い出されてしまいます。
浪人となった善次郎は父親の知り合いのつてで、市村座の狂言作者、篠田金治の弟子となって、千代田才一と名乗ります。
20歳の時、父親と継母が相次いで亡くなってしまい、善次郎が3人の妹の面倒を見なくてはならなくなります。仕方なく狂言作者を諦め、浮世絵師、菊川英山の弟子になって英泉と号します。
当時、英山は可憐な美人を描く絵師として人気絶頂でした。善次郎は英山宅に居候しながら、英山から美人絵を学びますが、北斎宅にも出入りして、弟子にはなりませんが、
北斎から様々な事を学びます。
英泉を語るには、艶本(春画)抜きには語れません。22歳の時、千代田淫乱の名で最初の艶本『絵本三世相』を発表し、24歳の時には『恋の操(あやつり)』を発表します。美人絵の方も英山色から離れて、英泉独自の婀娜っぽさが現れて、人気が出て来ます。
26歳の時には、北斎から譲られた可候という号を使って、合巻『桜曇(はなぐもり)春朧夜』を発表しています。絵師として認められながらも、文を書く事も諦められなかったようです。その合巻では絵と文、両方を書いています。
毎年のように艶本を発表していますが、文政5年(1822年)に発表した『春野薄雪』は傑作と言っていいでしょう。
30歳頃からは人情本や読本の挿絵も手がけ、曲亭馬琴の『南総里見八犬伝』の挿絵も描いています。
文政12年3月の江戸大火で、英泉の家も焼けてしまい、さらに縁者の保証倒れに会い、英泉は若竹屋と号して女郎屋を始めます。
天保の改革後は画業よりも文筆業に力を置いて、合巻や滑稽本を書いています。
嘉永元年(1848年)7月、58歳で亡くなりますが、なかなか興味深い男です。縁があって、彼が書いた合巻や滑稽本を読む事ができたら、彼の事を小説に書きたいと思っています。
渓斎英泉作品略目録 艶本一覧 定本・浮世絵春画名品集成(5)