2006年10月14日

粟田口善法

村田珠光の弟子に侘び茶の名人と称された粟田口善法がいます。
京都東山の粟田口に草庵を結んで、行き交う人にお茶を勧めていたといわれます。名物茶道具など一切所持せず、燗鍋一つだけで食事も茶の湯も楽しんでいたようです。
豊臣秀吉が善法の事を聞いて、善法が持っていた燗鍋を捜させましたが見つからず、利休に同じ物を作らせて、それを愛用したと伝えられています。
善法に関してはそれ以上の事はわかりません。そこで私は考えました。
善法は応仁の乱の頃、「伏見屋」と称した羽振りのいい商人で、幕府の重臣たちとも取り引きをしていました。しかし、ある日、足軽連中に店を襲撃されて、家族を殺されてしまいます。
家族を失った伏見屋は生きる目的を失い、奈良にいた師の珠光を訪ね、珠光の茶の湯のために全財産を使い果たします。無一文になった伏見屋は、銭が泡と消えたので、銭泡と名乗り、頭を丸めて放浪の旅に出ます。
一流の茶の湯の腕を持ちながら、銭泡は乞食坊主として各地をさまよい、関東を旅している時に、空腹で倒れてしまいます。その時、助けてくれたのが、江戸城主の太田道灌の父親でした。銭泡は助けてくれたお礼に茶の湯を披露します。
珠光が編み出した『侘び茶』は関東でも有名になっていましたが、教えてくれる者はまだ関東にはいません。銭泡が『侘び茶』を心得ている事を知った道灌は銭泡を江戸城に招待します。そして、道灌に茶の湯の指導をする事になります。
その事が噂になって、銭泡は各地の大名から招待されて、茶の湯の指導をしていましたが、晩年には京都に戻り、名を善法と改めて隠棲しました。
という事にして、小説に登場していただきました。善法さん、間違っていたら、すみません。きっと、怒らないと思いますが‥‥‥

 伏見屋銭泡の略歴

陰の流れ《愛洲移香斎》第三部・本願寺蓮如   陰の流れ《愛洲移香斎》第四部・早雲登場

※銭泡は陰の流れ第三部・本願寺蓮如の17.早雲庵に登場し、第四部・早雲登場では太田道灌と共に重要な場面に登場します。

銭泡記〜太田道灌暗殺の謎


わび茶への道  よくわかる茶道の歴史  茶の湯の文化史  すぐわかる茶の湯の美術


ラベル:茶の湯
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2006年10月10日

種玉庵宗祇

宗祇は連歌師の第一人者です。連歌会所奉行職を務め、連歌界の総元締のような立場にありました。
室町時代から戦国時代にかけて、武将の嗜みの一つに連歌がありました。
連歌とは数人が集まって句の詠み合いをする即興的な遊びで、まず、師匠格の人が発句と呼ばれる五・七・五の句を詠みます。次に、亭主格の人が脇句と呼ばれる七・七の句を詠み、師匠の次の位の人が第三句の五・七・五を詠み、それから順番に、七・七の句、五・七・五の句と詠んで行きます。100句まで詠むのが普通で、百韻連歌と呼ばれます。
発句には季語を入れて、その句だけで独立していなければなりません。脇句は発句と同じ季節を詠み、発句からあまり離れていてはいけません。第三句は発句と脇句に関連しながらも、変化する事を重要視します。同じ所をグルグル回っていては発展しないので、少し、目先を変えなければならないのです。
連歌をするには古典の和歌を知らなければならないので、武将たちは合戦の合間に「古今和歌集」や「源氏物語」などを読んで勉強していたのです。
宗祇は相国寺の僧で、30歳頃、寺を出て、東山の近くに草庵を結んで連歌の修行を始めます。40歳を過ぎてから連歌師としての名が広まります。
48歳の時に、応仁の乱が始まり、宗祇は戦を避けて関東へと旅立ちます。この時、江戸城主の太田道灌に歓迎されて、しばらく、江戸に落ち着きます。
53歳の秋、近江の飛鳥井雅親邸内に種玉庵を営み、古典の研究に没頭します。連歌会所の奉行職に就いたのは68歳の時でした。
武将たちから招待を受けては遠くまで出かけて行き、82歳で亡くなる時まで、旅を続けていました。弟子で有名なのは夢庵肖柏と柴屋軒宗長です。
現在も盛んに行なわれている俳句は、江戸時代になって、連歌の発句が独立したものです。

種玉庵宗祇の略歴

陰の流れ《愛洲移香斎》第三部・本願寺蓮如

※宗祇は陰の流れ第三部・本願寺蓮如の35.再会その2に登場します。


宗祇  連歌師宗祇の実像  連歌とは何か  中世和歌連歌の研究  連歌の心と会席  新編日本古典文学全集(61)
ラベル:連歌師
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2006年10月03日

今川義忠

駿河の国(静岡県)の守護大名、今川氏は足利将軍家の一族です。足利義氏の子、長氏が吉良姓を名乗って吉良氏の祖となり、長氏の次男、国氏が今川姓を名乗って今川氏の祖となります。国氏の孫の範国が駿河の守護となって、代々、駿河の守護職に就いています。
義忠は国氏から数えて8代目の当主で、26歳の時に家督を継ぎました。32歳の時、応仁の乱が起こり、東軍方として京都まで出陣します。この時、幕府政所執事を務めていた伊勢伊勢守の娘を嫁に貰って帰国します。その娘は伊勢守の養女で、伊勢新九郎の実の妹でした。
当時、幕府に仕えていた新九郎でしたが、幕府内の権力争いを目の当たりにして、武士の世界に嫌気がさします。刀を捨て、潔く頭を丸めると、早雲と号して放浪の旅に出ます。伊豆の国まで来て、妹に会おうか躊躇しますが、妹が子供を産んだと聞いて、一目でもいいから会おうと決心して駿府へ向かいます。駿府で妹に歓迎され、義忠にも歓迎されます。居心地がいいので、早雲は駿河に腰を落ち着けます。
早雲が気ままに暮らしていた四年目の春、遠江に出陣した義忠はちょっとした不注意で戦死してしまいます。跡継ぎの竜王丸はまだ6歳です。今川家中で家督争いが起き、妹のためにも竜王丸に跡を継がせなければならないと早雲の活躍が始まります。
もし、この時、義忠が戦死しなければ、早雲の登場はありませんでした。早雲は一禅僧として、竜王丸の成長を見守りながら平穏な一生を終えた事でしょう。関東の地を甲斐の武田氏、越後の上杉氏と争った小田原の北条氏は歴史上に存在しなかったと言えます。

陰の流れ《愛洲移香斎》第四部 早雲登場

 今川氏


戦国大名今川氏と領国支配  今川氏の研究  戦国今川氏  
ラベル:武将
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2006年09月27日

小野屋四代目女将、ナツメ

小田原北条家の御用商人「小野屋」の四代目の女将、ナツメは愛洲移香斎の孫で、風摩党の水軍の砦のある浦賀で生まれます。
16歳の時、兄と一緒に上野の国(群馬県)の草津の湯に行き、草津の領主の倅の湯本善太夫と出会います。お互いに惹かれ合って、将来の約束をしますが、運命のいたずらで、それはかないませんでした。
善太夫は次男だったので、宿屋の主人になるはずでしたが、父親と兄が戦死してしまい、急遽、湯本家の当主になる事に決まってしまいました。当主の嫁は然るべき武将から迎えなければならず、善太夫はナツメの事を諦めて、長野原城主の海野長門守の娘を嫁を迎えます。
ナツメの方も三代目の小野屋の女将が急死したため、跡を継がなければならなくなって、今までのような自由の身ではなくなります。まして、小野屋の女将を継いだら尼僧にならなくてはならず、嫁に行く事を諦めなければなりませんでした。ナツメは善太夫の事を胸の奥にしまって、商売一筋の人生に命を懸けます。
ナツメは北条の御用商人として草津に店を開いて、硫黄の取り引きを始め、善太夫に会いに草津にもよく行きました。
善太夫は草津温泉を守るために甲斐の武田信玄に仕えます。北条と武田が同盟を結んでいた時は、北条家の商人として出入りして、鉄砲を贈ったり、塩を贈ったりしていましたが、信玄が駿河の今川家を攻める事によって同盟が壊れて敵同士になってしまいました。それでも、ナツメは正体を隠して草津に行きました。善太夫の方も敵と知りながらもナツメを歓迎しました。
三年後、再び、武田と北条は同盟を結び、ナツメは堂々と草津に行って、善太夫と会う事ができるようになります。
しかし、それから2年余り後、長篠の合戦が起こります。善太夫が長篠に出陣した事を知らずに草津を訪れたナツメはその事を知って、不吉な予感がします。ナツメはすぐに長篠に向かいますが、間に合いませんでした。善太夫は戦死してしまいます。ナツメはようやく尼僧になる決心をして、善恵尼を名乗ります。

戦国草津温泉記・湯本善太夫

戦国草津温泉記・湯本三郎右衛門

 ナツメの略歴
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2006年09月23日

豊臣秀吉の妻、於祢(おね)

於祢の実の父親は岩倉の織田伊勢守の家臣だった林弥七郎です。
於祢が11歳の時、岩倉城は信長に攻められ、父親は戦死してしまいます。於祢は父親の親友だった浅野又右衛門の養女となります。主家が滅び、又右衛門は浪人となりますが、弓矢の名人だったので、信長に召抱えられます。
16歳の春、木下藤吉郎と称していた秀吉と祝言を挙げます。当時、秀吉は27歳で、足軽鉄砲隊の頭になったばかりでした。秀吉が於祢に惚れ込んだのか、義父の又右衛門が秀吉の将来を見越したのかわかりませんが、於祢は11歳も年上の見た目も冴えない秀吉の妻になりました。
於祢が20歳の時、織田信長は将軍義昭を奉じて京都に攻め入ります。この時、秀吉は奉行の1人として京都に残ります。
於祢が28歳の時、夫の秀吉は長浜城主に出世します。於祢は城主の奥方様になりました。信じられない事のように喜びましたが、それはほんの序の口に過ぎませんでした。夫の秀吉は出世街道をまっしぐらに走って、天下人になってしまいます。
残念ながら、於祢は子供に恵まれませんでした。もし、二人の間に男の子が生まれていれば、秀吉が亡くなった時には立派な武将になっていて、徳川家康の出番は来なかったかもしれません。
於祢は祢々(ねね)とも呼ばれます。どっちが正しいのかわかりませんが、祢々の方がふさわしい様な気がします。

藤吉郎伝―若き日の豊臣秀吉


おんな太閤記 完全版 第一巻  太閤記  新史太閤記(上巻)  新書太閤記(1)
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2006年09月19日

木下藤吉郎

木下藤吉郎というのは豊臣秀吉の若い頃の名前です。37歳の頃、羽柴姓に改めるまで、木下姓を名乗っていました。
木下というのは藤吉郎の実の父親の姓です。実の父親は武士で、藤吉郎が幼い頃に戦死しました。母親はお茶坊主だった筑阿弥と一緒になって、藤吉郎を育てます。
藤吉郎が生まれた頃、那古野城には今川氏がいました。駿河の今川氏の分家です。織田信長の父親、信秀は今川氏をだまし討ちにして、那古野城を奪い取ってしまいます。
私が思うに、藤吉郎の父親は那古野城の今川氏に仕えていたのではないでしょうか。
信秀は今川氏とつながりのあった者たちを皆殺しにしてしまいます。身の危険を感じた藤吉郎の母親は筑阿弥と一緒になって、藤吉郎を守ります。
お茶坊主の筑阿弥は信秀に利用されて、今川氏に近づいて茶の湯の指導をしていました。那古野城が襲撃された時、その場にいて、自分が騙されたことを知って嘆きます。そして、藤吉郎の母子を匿う決心をして、茶の湯の捨てて農民になるのです。
実の父親の事を知った藤吉郎は木下家を再興するために立派な武士になろうと頑張ります。木下家を再興するのは、唯一生き残った自分しかいないんだと張り切ります。
父親と同じ今川家に仕えようと駿河まで行きますが、仕官はかなわず、遠江の国で松下佐右衛門のもとで侍奉公を始めます。3年近く奉公しますが、思った程の出世はできず、尾張の国に戻った藤吉郎は蜂須賀小六たちの仲間に入って野武士となります。
織田信長に仕えるまでの藤吉郎は何もかもが思うようには行かず、何度も悩んだり迷ったりしています。信長との出逢いによって、ようやく、空高く羽ばたく事になるのです。
余談ですが、昔、「今にみておれ」というテレビドラマで、なべおさみさんが藤吉郎を演じていました。藤吉郎というとなぜか、あの時のなべおさみさんのイメージが浮かんできます。その時、藤吉郎の妻、ネネの役をやったのは大原麗子さんでした。

藤吉郎伝―若き日の豊臣秀吉


豊臣秀吉事典コンパクト版  太閤の手紙  天下を獲った男 豊臣秀吉  太閤記  太閤記〜サルと呼ばれた男
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2006年07月31日

小野屋の初代女将、松恵尼

松恵尼の本名は奈美といいます。伊勢の国にて関一族の小野信濃守の長女として生まれました。幼い頃より母親から薙刀を習い、素質があったのか見る見る上達します。
可愛い娘でしたが、成長するにしたがって、さらに美しくなり、16歳の時に伊勢の国司、北畠教具に見初められて、側室となります。教具は当時、27歳の武将で、歳は少し離れていますが、奈美としても嫌いではなかったようです。
翌年、奈美は教具の子供を産みますが、残念ながら死産してしまいます。その年の秋には父親が戦死してしまいます。教具には愛されましたが、側室が何人もいて、嫌がらせなども多かったようです。
翌年の春、奈美は覚悟を決めて、教具の許を去ります。
実家に戻っても、父親が戦死したため、肩身の狭いを思いをして、母親と一緒に母親の実家がある甲賀に移ります。教具は何度も戻って来いと言いますが、奈美は断って、尼僧になって花養院に入ってしまいます。
奈美が松恵尼になった頃、飯道山に風眼坊、高林坊、火乱坊、栄意坊の四天王と呼ばれる山伏たちが来て、若い者たちに武術を教え始めます。風眼坊が松恵尼に一目惚れをするのはこの頃です。
22歳の時、北畠教具に頼まれて、2歳だった楓を預かり、育てる事になります。23歳の頃、「小野屋」と号して、商売を始めます。商売をしながら各地の情報を集めて、教具に知らせるという裏の仕事も始めるのです。
小野屋の本店は北畠氏の本拠地、多気の城下にあって、檜物や白粉、布などを扱っています。二年後には伊勢安濃津に支店を開いて、塩や海産物の取り引きも始めます。さらに二年後には奈良に支店を出して、刀剣類、鋳物、お茶も扱い、その翌年には伊賀上野にも支店を出して、陶器やお茶を扱います。
初めの頃は取り引きに失敗したりしますが、北畠教具が後ろ盾になって助けてくれるので、「小野屋」はどんどん大きくなって行きました。そして、やがては小田原北条氏の御用商人となって行くわけです。
とは言っても、松恵尼は私が創作した人物です。実際に北条家の御用商人に「小野屋」がいたかどうかはさだかではありません。

 松恵尼の略歴

陰の流れ《愛洲移香斎》
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2006年07月25日

織田信長の側室、吉乃

吉乃は生駒蔵人家宗の娘です。生駒蔵人は灰と油を商う商人でありながら、武士でもありました。輸送のための人足を多く抱え、各地から集まって来た浪人者なども居候していたようです。
木曽川流域の野武士集団を率いていた蜂須賀小六も出入りしていて、商人たちの警固に当たっていました。豊臣秀吉も木下藤吉郎を名乗っていた若き日に、生駒家の世話になっています。
吉乃は美人でした。藤吉郎は当然、吉乃に一目惚れした事でしょう。しかし、居候と生駒家のお嬢様とでは身分が違いすぎます。藤吉郎は吉乃を嫁に迎えるために、出世して偉くなって戻って来ると心に誓って旅に出ます。
ところが、吉乃は親の勧めで、土田山城主の土田七郎左衛門の次男、弥平次に嫁いでしまいます。七郎左衛門の妹は織田信長の母親なので、吉乃は信長の従兄に嫁いだ事になります。
土田家に嫁いで二年目の9月、美濃の斎藤勢に攻められて、土田弥平次は戦死してしまいます。吉乃は実家に帰って、喪に服します。そこに、故郷に戻って来ていた藤吉郎が顔を出し、信長も顔を出します。
当時の信長は尾張の国を統一する前で、周りに多くの敵を抱えていました。各地の情報を手に入れるために、生駒家に出入りするようになったようです。吉乃を見た信長も一目惚れをしてしまいます。吉乃の方も、度々、土産物を持って訪ねて来る信長に惹かれて行ったのでしょう。顔立ちもよく、何をやるにも型破りな信長という男は、女性にもてたに違いありません。
吉乃は信長の側室に迎えられて、幸せに暮らします。信忠、信雄、徳姫の3人の子供を産みますが、29歳の若さでなくなってしまいます。
吉乃に振られた藤吉郎は、恋敵の信長に仕えて、自分が思っていた以上の出世をする事になるわけです。

藤吉郎伝―若き日の豊臣秀吉


戦国の妻(おんな)たち  風雲児信長と悲運の女たち
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2006年07月13日

真田一徳斎

真田昌幸の父親、一徳斎幸隆は信濃の国、真田郷に生まれますが、天文10年の5月、29歳の時に武田信虎らに攻められて故郷を追われます。5歳の信綱と生まれたばかりの昌輝、他にも女の子がいたかもしれませんが、幼い子供たちを連れて、故郷を離れなくてはなりませんでした。
その事件の一月後、信虎は息子の晴信に追放されます。
故郷を追われた幸隆は上野の国に行って、平井城の関東管領上杉氏を頼ります。しかし、上杉氏は頼りにならないので、箕輪城の長野氏を頼ります。
2年近く、上野の国にいて、信濃の国の様子を眺めていた幸隆は、武田晴信に仕える決心を固めて甲斐の国に行きます。その後は、武田軍の信濃先方衆として活躍して、真田郷を取り戻します。
永禄2年、晴信が出家して、信玄を名乗ると、幸隆もならって出家し、一徳斎を名乗ります。
永禄4年、武田軍の上野進攻が始まり、一徳斎は大将として吾妻郡に出陣します。難攻不落といわれた岩櫃城を落とし、岳山城も落として、吾妻郡を武田の領国とする事に成功します。
天正元年、信玄が亡くなり、翌年、信玄の後を追うように、一徳斎も亡くなります。62歳でした。

戦国草津温泉記・湯本善太夫

戦国草津温泉記・湯本三郎右衛門


真田幸隆  真田幸隆  真田一族  真説・智謀の一族真田三代  真田幸隆トートバッグ
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2006年07月10日

上杉謙信の名前について一言

上杉謙信は越後守護代長尾為景の末っ子で、幼名は虎千代と名付けられました。生まれた享禄三年が寅年だったからだそうです。
7歳の頃、出家して林泉寺に入りますが、その時の名は不明です。
兄の片腕として働くために、14歳の時に還俗させられて、長尾平三郎景虎を名乗ります。その後、いつの頃からかわかりませんが、弾正少弼景虎を名乗ります。
32歳の時に関東に攻め込み、鎌倉の鶴岡八幡宮にて、関東管領上杉憲政から、管領職と上杉姓と政の字を譲られて、関東管領上杉政虎を名乗ります。
しかし、翌年には、将軍足利義輝から輝の字を名乗る事を許されて輝虎と改名します。そして、42歳の時に不識庵謙信を名乗り、45歳の時に剃髪して法体となります。
景虎を名乗っていたのが14歳から32歳までの17年余り、政虎を名乗っていたのが1年余り、輝虎を名乗っていたのが33歳から42歳までの8年余り、謙信を名乗っていたのが42歳から49歳で亡くなるまでの6年余りという事になります。
ちなみに、武田晴信が信玄を名乗ったのは39歳の時で、北条氏康が万松軒を名乗ったのは45歳の時でした。関東の地を争った三人の年齢を比較してみますと、万松軒が1515年の亥年生まれ、信玄が1521年の巳年生まれ、謙信が1530年の寅年生まれです。

戦国草津温泉記・湯本善太夫

戦国草津温泉記・湯本三郎右衛門


上杉氏年表  上杉謙信  上杉謙信  上杉謙信に学ぶ事業承継
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2006年07月07日

武田勝頼夫人

三郎景虎は北条家から上杉家の養子になりましたが、三郎の妹で武田家に嫁いだ娘もいます。
武田勝頼は二十歳の時に織田信長の養女を妻に迎えますが、二年後に信勝を産んだ後、亡くなってしまいます。それから10年間、勝頼には正妻はいませんでした。
今川家の問題で対立した北条と武田は北条氏康の死後、再び、同盟を結びます。その時、人質となって甲府に行ったのは、三郎の弟で幻庵の跡を継いだ四郎です。人質として越後にいた三郎は実家と縁を切って、越後に残りました。
その後、武田信玄が亡くなり、長篠の合戦で敗れた武田家は北条との同盟を強化するために、北条家から嫁を迎える事になります。
選ばれたのが三郎の妹で、当時、まだ14歳でした。勝頼は32歳でしたから親子とも言える年齢差があります。勝頼には3人の子供がいて、長女が12歳、嫡男の信勝が11歳、次女が5歳だったようです。
両家の婚礼は盛大に行なわれ、甲府の人々からも大歓迎を受けました。娘の名前は記録に残っていませんので、仮に、淡雪と呼びます。正妻になった淡雪は勝頼に大切にされたようです。
しかし、翌年の3月、上杉謙信が亡くなり、御館の乱が始まると、武田家は北条を裏切って、上杉景勝と同盟を結んでしまいます。勝頼は淡雪に実家に戻れと言いますが、淡雪は実家と縁を切って甲府に残ります。
淡雪は氏康が50歳の時の子供で、8歳の時に氏康は亡くなっています。父親の記憶などほとんどないでしょう。母親は生存していたでしょうが、帰っても自分の居場所はないと判断したのかもしれません。それとも、勝頼と一緒に暮らして幸せだったのかもしれません。
その幸せも長くは続きません。嫁いで5年後の春、身内だった木曽義昌の裏切りから始まって、武田家は崩壊への道を突き進み、3月には織田徳川の連合軍に攻められて甲府を追われます。
頼った家臣にも裏切られ、淡雪は勝頼と共に寂しい山中で自殺をして果てます。わずか、19歳の生涯でした。

戦国草津温泉記・湯本三郎右衛門


涙、らんかんたり  武田勝頼のすべて
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2006年07月04日

上杉三郎景虎

上杉謙信の養子となり、謙信の出家前の名前、景虎を名乗った三郎は北条氏康の八男です。幼い頃より出家して、西堂様と呼ばれていました。何事もなければ、そのまま僧侶として長生きした事でしょう。
運命が変わるのは18歳の時です。その年の暮れ、北条幻庵の跡を継いでいた新三郎が武田軍に攻められて戦死してしまいます。跡継ぎを失った幻庵は甥の氏康に頼んで、西堂を娘婿に迎える事に決めます。西堂は還俗して、幻庵の出家前の名前、三郎を名乗って、幻庵が若き日に守っていた小机城主となります。
三郎は僧侶にしておくには勿体ない程の美男子だったといわれています。幻庵の娘も美しく、美男美女の新婚夫婦は幸せに暮らした事でしょう。そんな二人を運命が引き離します。新婚生活はたった三ヶ月で幕を下ろし、急遽、三郎は人質として越後に赴く事に決まってしまいました。
武田信玄との同盟を断ち、上杉謙信と同盟した北条家は人質の交換をしなければなりません。人質だから誰でもいいというわけではなく、北条家の代表として越後に赴くにはそれなりの値打ちのある人物でなくてはなりません。最初、当時のお屋形様だった氏政の息子を送る予定でしたが、あまりにも幼すぎるため、氏政の弟に決められました。三郎より上の兄たちはすでに重要な地位にいたため送る事はできません。三郎の下に二つ違いの弟、四郎がいました。四郎を送ろうと決まりかけたのですが、四郎は幼い頃に患った麻疹の後、顔にあばたが残ってしまいました。北条家の代表として行くには少し見苦しいと、美男子だった三郎に決まってしまいました。
三郎は幻庵の娘とむりやり別れさせられて、越後へと向かいます。途中、上野の国、沼田の倉内城で上杉謙信と対面します。謙信は三郎を非常に気に入って、自分の養子に迎え、景虎の名まで授けるのです。多分、四郎だったら養子にはしなかったかもしれません。
選ばれなかった四郎は幻庵の娘と一緒になって幻庵の跡継ぎになります。幻庵の娘は非常に辛い思いをしたでしょうが、戦国の世のならいで、自らを犠牲にしなければなりませんでした。
謙信の養子となった三郎は越後に行っても大歓迎されて、謙信の姪を嫁に迎えます。翌年の秋、実父の北条氏康が亡くなり、その年の暮れに、北条は上杉との同盟を破棄して、再び、武田と同盟を結びます。人質の三郎は謙信から小田原に帰るように言われますが断って、越後に残ります。今更、帰っても自分の居場所は北条家にはないと悟ったのでしょう。実家との縁を切って越後に骨を埋める決心を固めます。
越後に滞在して8年後、謙信が急死し、もう一人の養子だった喜平次景勝と跡目争いが生じます。御館の乱といわれる上杉家の跡目争いは越後国内を二つに分け、北条、武田も巻き込んで大きな戦となります。同盟関係にあった北条と武田は共に三郎の後ろ盾となり、圧倒的に三郎の方が有利でした。ところが、武田が裏切ります。武田にしてみれば、越後が北条領国になってしまえば、武田の領地は北条に囲まれる形になって、やがては北条に滅ぼされてしまうと考え、景勝と同盟を結んでしまうのです。
武田が景勝に味方したため、三郎は不利となって、やがては滅ぼされてしまいます。
謙信が亡くなってから、およそ一年後、三郎は敵に囲まれて自刃して果てます。還俗してから10年、28歳で波乱の生涯を閉じます。

戦国草津温泉記・湯本三郎右衛門


上杉三郎景虎  上杉謙信大事典コンパクト版
ラベル:武将
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2006年06月30日

お松(信松尼)

お松は武田勝頼の腹違いの妹です。母親は油川殿と呼ばれ、美人揃いの信玄の側室の中でも最も美しかったといわれています。油川殿には三人の子供がいて、仁科家を継いだ五郎盛信、お松、お菊です。五郎は信玄の子供たちの中で、一番、面影が信玄に似ていたといわれ、お松、お菊の姉妹は母親似の美人でした。
お松は7歳の時、織田信長の長男、奇妙丸(信忠)と婚約します。この頃の信長は信玄を恐れて、やたらと信玄の機嫌を取っていました。勝頼に嫁いだ信長の養女が子供を産んだ後に亡くなってしまったので、つながりが途切れてしまうのはまずいと思った信長は、自分の長男の嫁にお松を迎えたいと言って来ました。信玄としても様々な贈り物を送ってよこす信長を可愛い奴だと思って許します。
お松は奇妙丸の嫁として、新しい屋敷に移って、新館御寮人様と呼ばれるようになります。婚約した幼い二人は手紙のやり取りを何度もしていたようです。
お松が12歳の時、信長は徳川家康と組んで信玄に敵対してきます。信玄は信長との縁を切り、お松の婚約は破棄されます。翌年、父親の信玄が亡くなり、お松は甲府を離れて母親と兄のいる信濃の国の仁科郷に移ります。仁科郷の静かな山の中で、お松は会った事はないが、五年間、婚約者として手紙のやり取りをしていた奇妙丸の事を思っていたのかもしれません。
17歳になったお松はその美貌を騒がれますが、甲府に戻ると出家してしまいます。戦の道具として嫁に行くのを拒否したのでしょう。
長篠の合戦後、かつての勢いを失って行った武田家に比べて、信長は日の出の勢いのように勢力を広げて行きました。織田に対する守りとして、兄の信盛は仁科郷から高遠城に移りました。信松尼となったお松も兄のいる高遠城に移ります。そして、22歳の3月、織田の軍勢が武田を攻め、武田家は滅亡します。
高遠城にいたお松は高遠城が落城する前に信盛に頼まれて、信盛の3歳の娘を連れて逃げています。山をいくつも超えて武蔵の国の八王子まで逃げました。同じ年の六月には本能寺の変が起こり、婚約者だった織田信忠も戦死します。
お松は出家して信松尼を名乗りますが、信の字は表向きは武田家が代々名乗っていた信ですが、本当は信忠の信だといわれています。信じられないかもしれませんが、一度も会った事のない婚約者をお松は一生、想い続けていたのかもしれません。

 お松(信松尼)の略歴

戦国草津温泉記・湯本三郎右衛門


信松尼  武田信玄大事典
ラベル:戦国の女性
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2006年06月25日

武田勝頼

勝頼は武田信玄の四男です。母親は信玄に滅ぼされた諏訪氏の姫様で、かなりの美貌だったようです。勝頼を産んだ時、姫はまだ16歳で、信玄は22歳でした。
勝頼が10歳の時に母親は25歳の若さで亡くなってしまいます。17歳の時に元服して、諏訪四郎勝頼を名乗ります。信濃の国を我が物にしようと企んでいる信玄にとって、信濃の武士たちの反発を抑えるためには、諏訪氏の血を引いている勝頼に諏訪氏を継がせる必要があったのです。勝頼は伊那郡代として、諏訪氏の城だった高遠城に入ります。
20歳の時に織田信長の養女を妻に迎えます。この頃の信長はようやく尾張の国を統一したばかりで、信玄を恐れて、様々な贈り物をして機嫌を取っていました。養女にした娘も飛び切りの美女だったのでしょう。勝頼も母親の血を引いて、かなりの美男子だったようです。
勝頼は高遠城で美しい妻と平和に暮らしていたのでしょうが、二年後、信玄の跡継ぎだった長兄の義信が自害してしまいます。
義信の妻は駿河の今川氏でしたが、信玄は今川氏を倒して駿河の国を奪い取ろうと考え、義信と対立したようです。義信は信玄が父親を追放したのを真似して、信玄を追放しようと企みますが、ばれてしまい、幽閉されたあげくに自害してしまいます。義信の下の弟、次郎は盲目で、海野氏を継いでいます。その下の弟、三郎は10歳で亡くなっています。勝頼の下の弟、五郎はまだ11歳で仁科家を継ぐ事に決まっています。信玄の跡を継ぐのは勝頼しかいなくなってしまったのです。
信玄としては、すぐにでも勝頼を跡継ぎに決めたい所ですが、勝頼が武田に戻れば、諏訪氏を継ぐものがいなくなってしまいます。幸い、義信の死の翌月、勝頼の長男が生まれました。その子を武田家の跡継ぎとして、勝頼は諏訪氏のまま、後見させるという事に決めました。長男は生まれましたが、産後の肥立ちが悪く、妻は亡くなってしまいました。
義信の死の翌年、信玄は駿河に進攻して、今川氏を追い出し、駿河の国を我が物にする事に成功しました。海のない甲斐の国から海のある駿河へと進出する事ができたのです。これで塩に困る事はなくなり、海産物も甲府へと運ばれました。
26歳の春、勝頼は高遠城から甲府に移って、信玄の元で政務の見習いを始めます。正式には跡継ぎではないにしろ、50歳を過ぎた信玄はもしもの事を考えて、勝頼を側近くに呼んだようです。そして、二年後の4月、信玄は上洛の途中で突然、亡くなってしまいます。
信玄亡き後、武田四郎勝頼を名乗って、歴史の表舞台へと登場して来るわけです。

 武田勝頼の略歴

戦国草津温泉記・湯本三郎右衛門


武田勝頼  武田勝頼  武田勝頼(第1巻)  武田勝頼のすべて  長篠の戦い  
ラベル:武将
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2006年06月21日

真田昌幸

真田昌幸は一徳斎幸隆の三男として生まれます。
父の一徳斎は戦に敗れて領土を失い、一時は浪人となって上州に隠れていました。昌幸が生まれた頃は武田信玄に仕えていましたが、まだ、領土を取り戻す事はできず、甲府にいたのかもしれません。
昌幸5歳の時、父親は戸石城を攻め落として、領土を取り戻し、真田に復帰します。そして、上州攻めの先鋒となって活躍します。
昌幸は7歳の時、人質として甲府に行き、武田信玄の奥近習として仕えます。人質とはいえ、父親が活躍しているので、昌幸の待遇はよかったようです。信玄の側近くに仕えて、武将としての心構えを自然と身に付けていきます。
18歳の時、足軽大将の遠山右馬助の娘を嫁に迎え、20歳の時、甲斐の国の名族で、信玄に滅ぼされた武藤家の名跡を継いで、武藤喜兵衛と名乗ります。この時点で、昌幸は実家の真田家とは縁が切れます。このままの状態でいれば、昌幸は武田家の重臣として勝頼と共に滅び去った事でしょう。
27歳の時にお屋形様であり、師でもあった信玄が亡くなり、29歳の時に、長篠の合戦が起こります。その合戦では武田家の主だった重臣たちが数多く戦死してしまいますが、昌幸の二人の兄も亡くなってしまいます。急遽、昌幸は実家の跡を継ぐ事になって真田姓に戻ります。
真田に帰った昌幸は多くの家臣を失った真田家を建て直して、領土を広げるために沼田へと進攻します。
越後の上杉氏、小田原の北条氏と戦いながら、5年後には見事に沼田攻略に成功します。ところが、その2年後、主家の武田家が織田信長によって滅ぼされてしまい、昌幸は戦国大名として独立の道を選び、真田から沼田までの領土を守り抜くために戦い続ける事になります。

 真田喜兵衛昌幸の略歴

戦国草津温泉記・湯本三郎右衛門


真田昌幸  真田太平記(第1巻)改版  真田一族  真説・智謀の一族真田三代  真田昌幸のすべて
ラベル:武将
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2006年04月27日

石川五右衛門

大盗賊の石川五右衛門が実在して、釜茹での刑にあったのは事実です。しかし、どんな人物だったのかは定かではありません。
盗賊だったからには一流の忍びの術を心得ている者に違いないと思われ、伊賀にある石川村の出身なのだろうと言われています。
何を盗もうとして捕まったのかわかりませんが、時の権力者、豊臣秀吉に反抗した事は確かでしょう。そうでなければ、見せしめのような派手な処刑は行なわれなかったでしょう。
私は五右衛門は秀吉の陰の存在だったのではないかと疑っています。北条氏と風摩小太郎のような関係です。秀吉が出世する裏で、五右衛門が活躍していたのではないでしょうか。汚い事はすべて五右衛門が引き受けて、秀吉を助けていたのです。そうでなければ、あれだけの短期間で、あれほど出世するのは難しいように思います。
織田信長を殺した明智光秀を倒すまでは、二人の関係はうまく行っていましたが、天下人となった秀吉の好き勝手な振る舞いに腹を立てた五右衛門は秀吉と対立します。
秀吉としてはすべてを知っている五右衛門を生かしておくわけには行かず、捕らえて、大盗賊として処刑したのではないでしょうか。闇に葬るのではなく、公開処刑にしたのは、長年の恩に対する秀吉なりの思いやりだったのかもしれません。後世に五右衛門の名を残すために。

時は今‥‥石川五右衛門伝


石川五右衛門  石川五右衛門(上)  忍びの者(1)  忍法秘巻新装  太閤暗殺
ラベル:忍びの者
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2006年04月25日

蓮如の妻たち

蓮如の布教に大いに役立ったのが、子供たちです。男の子は各地に飛んで、寺の坊主となり、蓮如の教えを広めて門徒たちの中心になります。女の子は有力寺院に嫁いで教団の結束を固めます。
その子供たちの数は、驚く事に27人もいます。男の子が13人、女の子が14人です。本願寺の法主として妾が何人もいたのだろうと普通は思いますが、蓮如は本妻の他に妾を持った事はありません。妻は5人いますが、前の妻が亡くなった後に、次の妻を娶っています。85歳の一生で、5人の妻を持って27人の子を成したのです。
最初の奥さんの如了は当時、幕府の有力者だった伊勢家の親戚の娘で、7人の子供を産みます。蓮如がまだ部屋住みだった頃で、家計は貧しく、長男以外は皆、養子に出さなくてはなりませんでした。蓮如が法主になったのを見る事もなく、32歳の若さで亡くなってしまいます。
二番目の奥さんの蓮祐は最初の奥さんの妹です。10人の子供を産みますが、この頃の蓮如は法主として活動を始め、比叡山と対立して、本願寺を破壊され、門徒たちに助けられて住む場所も転々としなければなりませんでした。何人もの子供を連れて苦労した事でしょう。蓮如が北陸の吉崎の地に行く前に亡くなってしまいます。吉崎の繁栄振りを見る事もなく、33歳の若さでした。
三番目の奥さんの如勝は門徒の中から選ばれました。二番目の奥さんを助けて、子供たちの面倒を見ていたようです。子供たちもよく懐いていて働き者だったので、周りの者たちに薦められて妻にしました。この奥さんは1人の娘を産んだだけですが、大勢の子供の面倒を見なければならず、大変だったでしょう。やはり、31歳の若さで亡くなってしまいます。
四番目の奥さんの宗如は公家の姉小路家から嫁いでいます。蓮如が67歳の時で、何歳で嫁いだのかはわかりませんが、2人の子供を産んで、嫁いでから三年後には亡くなります。
五番目の奥さんの蓮能は武家の畠山家から嫁いで来ます。蓮如が72歳、奥さんは22歳です。70歳を過ぎた蓮如はその奥さんに5人の子供を産ませます。最後の子供は84歳の時です。亡くなる前年まで、子供を作っていたとはとても信じられない事です。この奥さんは蓮如の死を看取って、54歳まで生きました。

 蓮如の子供たち

陰の流れ第三部・本願寺蓮如


蓮如さまとお方さま  民衆の導師蓮如  蓮如論  図説蓮如  蓮如  蓮如伝説を歩く
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2006年04月21日

本願寺蓮如

村田珠光が茶の湯の世界では皆、平等と唱えたように、阿弥陀如来様の前では皆、平等と唱えたのが本願寺の蓮如上人です。
浄土真宗が今のように広まったのは蓮如のお陰と言ってもいいでしょう。
蓮如が生まれた時、京都の大谷にあった本願寺は寂れていました。蓮如は43歳になるまで部屋住みの身で、ただひたすら親鸞聖人の教えを学んでいました。43歳で本願寺第八代法主になると、教えのために戦い始めます。比叡山を敵にしても決して、自分の考えを曲げませんでした。挙句に、本願寺を破壊されて、放浪の身となってしまいます。近江の門徒たちに助けられて、各地を転々とした後、北陸に進出します。
蓮如は誰にでもわかるように簡単な文章で教えを説きました。その文章は御文と呼ばれ、各道場に配られて門徒たちを増やすのに役立ちました。蓮如は下層階級の者たちから教えを広めて行きました。今まで宗教とはあまり縁のなかった人々が次々に門徒になって行ったのです。
蓮如の教えは、人々が阿弥陀如来様に救いを求めるのではなく、阿弥陀如来様が人々を救うという本願をかけたので、すでに、すべての人々は救われているというものです。その事に気づき、感謝の気持ちを込めて南無阿弥陀仏と唱えなさいと教えます。そして、阿弥陀如来様の前では、すべての人は平等であると説きます。
門徒が増えると道場が各地にでき、今まで、支配者が違っていたため、横のつながりのなかった村と村が門徒同士という事でつながり、互いの情報を交換し合うようになります。つながりを持った門徒たちは団結して、支配者たちに反抗します。支配者たちも背に腹は変えられないと本願寺の門徒になります。
他宗の寺も寺領の農民たちが本願寺門徒になってしまい、改宗を余儀なくされます。こうして、本願寺門徒は見る見る増えて行きました。
蓮如の教えが、身分制度で成り立っている武士の社会と対立しないわけには行きません。蓮如が争い事はするなと言っても、動き出した大きな力を止める事はできません。そして、一揆が始まるのです。
本願寺の一揆を一向一揆と呼んだのは京都の人々です。念仏を唱える宗派は、浄土真宗も、一遍の開いた時宗も、一向が開いた一向衆も皆、同じに思えたのでしょう。蓮如自身は一向宗と呼ばれるのを嫌って、浄土真宗だと何度も言っていますが、効き目はなかったようです。

 本願寺蓮如の略歴

陰の流れ第三部・本願寺蓮如


蓮如  蓮如の「御文」  蓮如  蓮如  蓮如信仰の研究
ラベル:僧侶 本願寺
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2006年04月19日

村田珠光

茶の湯の開祖、村田珠光(じゅこう)も一休門下の変わり者と言えるでしょう。
奈良に生まれて幼い頃より寺に入れられますが、20歳の頃、破門になって寺を追い出されます。
諸国を放浪して回り、25歳の頃、京都に草庵を立てて南星庵と号して落ち着きますが、何をしていたのかわかりません。道行く人たちにお茶を点てていたのかもしれません。
30歳の頃、大徳寺の一休禅師の弟子になって、厳しい修行に耐え、休心珠光という名を授かります。
34歳の時、将軍お抱えの絵師、能阿弥に弟子入りして、唐物の目利きを学びます。さらに、志野宗信の弟子になって香道も学びます。
41歳の時には茶の湯の師匠として、八代将軍、足利善政に迎えられます。
応仁の乱が始まると、京都を離れて奈良に戻り、還俗して、村田珠光を名乗ります。茶の湯は俗世間にありと悟ったわけです。
珠光以前の茶の湯は、お茶は別の場所で点てて、書院の間で飲ませていました。珠光は客の前でお茶を点てる事を始めました。これが、将軍義政に気に入られたのです。
将軍とは名ばかりで、何もかも自分の思い通りにならない将軍にとって、自らお茶を点てて、武将たちに飲ませてやるという事が嬉しくてたまらなかったのです。
武将たちも喜んで、将軍直々に点てた茶を感激して飲みました。自分たちが感激したのだから、部下たちも自分が点てたお茶を飲めば感激するだろうと誰もが思い、武士の世界に茶の湯は流行って行くわけです。
珠光はさらに、広い書院の間で飲んでいた茶の湯を狭い四畳半の茶室に移し、禅に通じる『侘び』を強調しました。将軍もそれは面白いと同意して、狭い茶室でお茶を点てるようになります。
茶の湯の世界では、俗世間の身分差もなく、皆、平等であると珠光は主張して、上段の間でお茶を点てていた将軍を上段の間から下ろす事に成功します。
俗世間で身分差があっても、茶室の中では、亭主と客という対等の立場になるという事を見事に証明してみせたのです。
珠光の弟子には、夢庵肖柏、一路庵禅海、粟田口善法、篠道耳、石黒道提、天王寺屋宗柏などがいます。

 村田珠光の略歴

陰の流れ第三部・本願寺蓮如

※珠光は陰の流れ第三部・本願寺蓮如の13.小野屋2に登場します。


茶の湯の祖、珠光  珠光 茶道形成期の精神    中世を創った人びと  茶の湯の心


珠光文琳  掛け軸 和敬清寂  珠光棗  上杉瓢箪
ラベル:茶の湯
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2006年04月14日

夢庵(牡丹花)肖柏

一休禅師の周りには変わり者が何人もいましたが、連歌師の夢庵もその一人です。角に金箔を塗った牛に乗って漂泊の旅をしていたと伝えられている変わり者です。
生まれは中院家という身分の高いお公家さんで、幼い頃より宮廷に出入りし、お家芸の和歌を嗜んでいました。
二十歳の頃、連歌師の心敬の弟子になり、何年かして、侘び茶の村田珠光の弟子になります。器用で頭もいいのか、連歌も茶の湯も一流と言われる程の腕になります。
25歳の時、応仁の乱が起こって、池田氏に誘われて摂津の国の池田庄に難を避けます。その頃、夢庵という庵に住み、夢庵と号します。
豊富な知識と連歌や茶の湯の腕で、各地の大名に招待されてはフラフラと出掛けたりしていましたが、30歳を過ぎて、もう一度、連歌の修行をしようと、種玉庵宗祇に弟子入りします。
当時、宗祇は連歌の第一人者でしたが、まだまだ、自分は修行の身と言って、古典に没頭していました。夢庵は何とか粘って、宗祇の一番弟子になります。二番弟子になったのは柴屋軒宗長です。
三人は共に旅をしながら、連歌の名作を幾つも残します。
師の宗祇が亡くなった後は堺に住み、堺の豪商たちに連歌や茶の湯の指導をしたり、気の向くままに旅に出たりしていました。
晩年に、牡丹花、弄花老人と号します。花を愛し、酒も愛したようです。肖柏という名は一休禅師に貰ったといわれています。
一休禅師と同じように、85年の人生を何のこだわりもなく、飄々と過ごしたようです。

 夢庵(牡丹花)肖柏の略歴

陰の流れ第二部・赤松政則


連歌とは何か  連歌師宗祇の実像  新編日本古典文学全集(61)  室町和歌への招待
ラベル:連歌師 茶の湯
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2006年04月13日

伊勢新九郎はなぜ、早雲と号したのか?

将軍になるはずだった足利義視の申次衆だった伊勢新九郎は、自分の事しか考えない武士というものに嫌気が差して、武士をやめ、頭を丸めて旅に出ます。その時、「早雲」と号しているのですが、なぜ、「早雲」なのか、色々な書物をあさってみても、答えは見つかりませんでした。
そこで、私は考えてみました。武士から出家した人で有名なのは西行法師です。新九郎も西行にならって旅に出たのだと思いますが、「東行」とは号していません。
当時、京都で有名だった一休禅師が一時、狂雲と号していました。幕府に仕えていた頃、新九郎は狂雲と名乗っていた一休と出会い、感化されたのかもしれません。一休のように、自由な境地で生きたいと「雲」を号したのだろうと思います。ただ、なぜ、「早」なのか? 早い雲とは何なのか?
「早」という字には、夜明けという意味もあり、夜明けに、ポッカリと浮かんでいる雲を自分に例えたのでしょうか。
40歳になっても自分の出番がないと諦めた新九郎は、あと20年遅く生まれていたなら、出番があったかもしれないと思い、早すぎた雲と号したのではないでしょうか。
他に「雲」を号している人に、無住心剣流の剣客、針ヶ谷夕雲と願流の剣客、松林無雲がいます。まだいるでしょうが、思い出せません。
ちなみに、「酔雲」の「雲」は早雲さんから頂きました。「酔」は勝海舟の親父さん、勝夢酔さんから頂きました。

 陰の流れ第一部・陰流天狗勝―早雲

 陰の流れ第二部・赤松政則―駿河

 陰の流れ第三部・本願寺蓮如―早雲庵


北条早雲とその一族  西行の旅路  一休  夢酔独言
ラベル:武将
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2006年04月07日

北川殿

早雲の実の妹である北川殿の本名は伝えられていません。
今川義忠が京都から輿入れして来る花嫁のために、北川のほとりに屋敷を建てたので北川殿と呼ばれています。
早雲の実の妹と言っても、年齢は20も離れていて、しかも、北川殿が生まれた時、早雲は京都の伊勢家に居候していました。
備中の国の伊勢家に生まれた北川殿は美しい子供だったため、幕府の政所執事を勤めている京都の伊勢家の養女となって京都に来ます。
京都の伊勢家の娘として大切に育てられ、居候していた兄の早雲とは会うこともできなかったでしょう。
北川殿は成長して美しい娘となり、応仁の乱で京都に来ていた今川義忠に見初められて駿河の国へと嫁いで行きます。当事、兄の早雲は次期将軍職を約束された足利義視の申次衆を勤めていたので、二人の出会いを演出したのかもしれません。
京都から遠く離れた駿河の国に嫁いだ北川殿は駿河の人々に大歓迎されます。名門である伊勢家から嫁いだことと、その美貌が、お屋形様にふさわしい花嫁だと誰もが認めました。それでも、もう二度と京都へは帰れないと思うと心細く思うこともありました。そんな時、突然、兄が訪ねて来たのです。京都にいた時、あまり会うこともなかったけれど、やはり、血を分けた兄妹です。北川殿はどんなにか嬉しかったことでしょう。
北川殿は武士をやめて僧侶となった早雲を引きとめます。早雲も居心地がよかったので、腰を落ち着けてしまいます。
夫の今川義忠が不慮の戦死を遂げなければ、北川殿も普通の武将の妻として平和な一生を送ったことでしょう。そして、兄の早雲も世に出なかったかもしれません。
跡継ぎの氏親を産んだ五年後、義忠は41歳の若さで戦死してしまいます。悲しみに暮れる間もなく、家督争いに巻き込まれ、北川殿は我が子のために、そして、今川家のために、兄早雲の力を借りて、全力を尽くして頑張って行くのです。

 陰の流れ第一部・陰流天狗勝―早雲

 陰の流れ第二部・赤松政則―駿河

 陰の流れ第三部・本願寺蓮如―早雲庵


戦国大名今川氏と領国支配  戦国期静岡の研究  今川氏の研究  今川義元  戦国を往く連歌師宗長
ラベル:戦国の女性
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2006年04月04日

風摩小太郎

北条氏五代100年間を通じて、陰で守って来たのが風摩小太郎率いる忍び集団です。
初代小太郎が早雲の陰となって働いて以来、首領は代々、小太郎を名乗り、北条家のために諜報活動を行なって来ました。
風摩小太郎とはどんな男だったのか?
一流の忍びなので、素性はまったくわかりません。早雲が伊豆に攻め込んだ時には、すでに陰として活躍していたものと思われるので、早雲が今川家の家督争いに活躍した時に呼んだのか、あるいは噂を聞いて、早雲を慕って来たのだと思います。
当事はまだ、伊賀や甲賀の忍びは有名ではないので、山の中を走り回っていた先達と呼ばれる山伏だったのではないでしょうか。修験道の本場、大和の大峯山で厳しい修行を積んだ山伏だったのかもしれません。
風摩という姓ですが、孫子の風林火山の風と摩利支天の摩を合わせたのではないかと思います。孫子は兵書として有名でしたし、摩利支天は自ら姿を隠して勝利をもたらす武術の神として祀られていました。速きこと風のごとく、摩利支天のように姿を隠して活躍するという意味を込めているのではないでしょうか。小太郎の本名が風間小太郎で、カザマを音読みにして、間を摩利支天の摩に変えただけかもしれませんが。
早雲と小太郎はただの主従関係ではなく、もっと強いつながりで結ばれていたように思います。早雲の夢見る新しい国造りに賛同して、決して表には出ないで、陰に徹して来たのでしょう。小太郎は早雲の次なる行動を見越して敵の情報を集め、時には、敵将の暗殺などもして、早雲を一国一城の主にします。そして、相模の国、武蔵の国へと夢を広げていきます。
しかし、早雲と初代小太郎との関係は二代目、三代目になるに従って、初代の時のような強い結びつきはなくなって行きます。初代の頃は早雲の考える事は早雲が一々言わなくても、小太郎にはわかりました。ところが代を追うごとに、北条家の当主と小太郎とのつながりは弱くなって、一々命じなくてはならなくなります。また、北条家が大きくなるに従って、小太郎の忍び集団も大きくならざるを得ない状況となり、同時に多方面での活動をしなければならず、組織を統一して行くのも難しい状況となって行きます。そして、100年後には詳細な情報を集める事ができずに、北条家は豊臣秀吉に滅ぼされてしまいました。

陰の流れ・愛洲移香斎

※「陰の流れ」では、風摩小太郎は風眼坊という大峯山の山伏で登場します。

摩利支天の風〜若き日の北条幻庵


風魔小太郎(上)  風魔(上)  図説・忍者と忍術
ラベル:忍びの者
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2006年04月01日

北条早雲

一般に北条早雲の名で知られていますが、早雲自身は一度も北条の姓を名乗ってはいません。
三十代の頃、伊勢新九郎という名で幕府に仕え、将軍になるはずだった足利義視の申次衆を勤めています。応仁の乱の頃です。悲惨な戦を目の当たりにして、無能な幕府や武士に嫌気が差し、頭を丸めて早雲と名乗り、旅に出ます。早雲、四十歳の時です。
五十年の寿命といわれていた時代で、半ば、人生を諦め、西行法師を真似て、漂泊の旅に出たわけです。
駿河の国まで来て、今川家の当主に嫁いだ妹に会おうか迷いますが、妹に子供が生まれたと聞いて、意を決して会いに行きます。妹に歓迎され、居心地もよかったため、早雲は駿府から少し離れた小河庄に庵を立てて暮らす事になります。
駿河に居ついて四年後、妹の主人、今川義忠が戦死してしまいます。跡継ぎの竜王丸はまだ六歳、竜王丸の伯父である早雲は今川家の家督争いに巻き込まれます。幕府とのつながりのある早雲のお陰で、竜王丸は正式な跡取りと認められ、早雲は今川家の武将として活躍します。
元服して氏親を名乗った竜王丸も一人前となったのを見て、早雲は伊豆の国に攻め込みます。戦乱の絶えない隣国を黙って見ていられなかったのでしょう。早雲は民衆のために新しい国を作ろうと決心したのです。早雲、六十歳の時です。
伊豆の国をまとめ、さらに、相模の国を攻め取り、武蔵の国へと進出しようとしていた1519年、早雲は八十八歳の大往生を遂げます。
早雲の跡を継いだ新九郎氏綱は江戸城を攻略した後に北条姓を名乗ります。関東に新しい国を創るに当たって、伊勢氏では関東の武将たちをなびかせるのは難しいと考えた早雲が伊豆の国で鎌倉の北条氏の末裔の女性を見つけ、氏綱の嫁に迎えたと伝えられています。

 伊勢新九郎の略歴

陰の流れ・愛洲移香斎

摩利支天の風〜若き日の北条幻庵


北条早雲と家臣団  北条早雲とその一族  戦国時代の魁  箱根の坂(上)新装版  謀将北条早雲(上)
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2006年03月29日

北条幻庵

幻庵は北条早雲の四男です。
生まれたのは明応二年で、その年、父の早雲は伊豆の国を攻め取り、今川家から独立して、戦国大名としての道を歩み始めます。
幼名は菊寿丸といい、幼い頃より喝食として箱根権現に入れられます。
当事の箱根権現は大勢の山伏や僧兵を擁して多大な領地と武力を持っていました。相模の国に進出して行こうとしている早雲にとって邪魔な存在でした。そこで、幻庵を別当職にして、箱根権現の権力の解体を考えたのです。
別当職になるために修行を積んでいた幻庵でしたが、途中で還俗して三郎を名乗ります。小机城主として活躍しますが、早雲の死後、再び、出家して京都で修行をし、箱根権現の別当職に就きます。11年余り、別当職を勤めて役目を果すと隠居して幻庵を名乗ります。
のんびりと隠居するはずでしたが、三年後、当主だった兄の氏綱が亡くなってしまいます。幻庵は跡を継いだ氏康の後ろ盾として、再び、表に立たなくてはなりませんでした。
幻庵が60歳の時、北条氏康は関東管領の上杉氏を倒して、上野の国まで進出して行きます。その前線を守ったのが幻庵です。幻庵は上杉氏の本拠地だった平井城に入り、二年後には厩橋城に入ります。幻庵は沼田の倉内城も攻め取り、上野の国の利根川以東は北条領国になります。この時、上泉伊勢守も北条方となり、多分、幻庵と親交を深めた事でしょう。
幻庵が上野の国にいたのは9年近くにもおよび、永禄三年(1560)の9月、越後の長尾景虎(後の上杉謙信)が管領を伴って出陣して来ると敗退して、小田原に引き上げます。その後も隠居する事なく、長老として活躍します。
幻庵の屋敷は小田原城下ではなく、箱根の入口にあたる久野にあります。幻庵は北条家の裏の世界を仕切っていたのではないかと思います。北条家の忍び集団の頭に風摩小太郎がいますが、小太郎に指令を下していたのが幻庵だったのではないかと私は思っています。
幻庵は98歳まで生き、初代の早雲から五代目の氏直まで、北条家のすべてを見てきています。幻庵の死後、一年余りで、北条家は豊臣秀吉に滅ぼされました。

 北条幻庵の略歴

 摩利支天の風

 戦国草津温泉記・湯本三郎右衛門


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2006年03月20日

武将としての上泉伊勢守

上野の国(群馬県)は関東公方の執事である関東管領上杉氏の領国でした。
京都で応仁の乱が始まった頃より、関東でも公方と管領の争いが始まり、各地の武将たちもそれに巻き込まれて争いが絶えませんでした。やがて、管領の上杉氏も分裂して争いを繰り返します。その頃、関東の地を一つにまとめようと活躍したのが、上杉家の執事を勤めていた太田道灌です。しかし、道灌は騙し討ちにあって殺されてしまいます。
道灌の死後、関東の地はバラバラになってしまい、益々、ひどい状況になって行きます。そこに登場するのが、伊豆の国を乗っ取って、関東に進出してきた北条氏です。
伊勢守が38歳の9月、河越で北条氏と上杉氏の合戦がありました。伊勢守も上杉方として出陣します。その合戦は河越城を守る北条氏が籠城したため長引きます。何万もの兵に囲まれた河越城は誰が見ても落城は時間の問題と思われました。ところが、翌年の4月、北条方の夜襲によって、上杉方は敗れてしまいます。
河越で敗れた上杉氏は翌年の夏には西から攻めて来た武田氏にも敗れます。
伊勢守が45歳の時、上杉氏の本拠地だった平井城が北条氏に攻められて落城します。管領の上杉氏は越後に逃げ、長尾景虎に上杉姓と管領職を譲ります。
管領のいなくなった上野は攻め取り放題の国となって、南から北条氏康、西から武田信玄が攻め寄せて来ます。
平井城を落とした北条氏は三年後には厩橋城を攻め取り、さらに沼田の倉内城も落とします。この時点で、上野の国は利根川を挟んで東側は北条の勢力範囲となってしまいます。伊勢守48歳の時で、利根川以東にあった上泉城も北条方とならざるを得ませんでした。
利根川以西は箕輪城の長野氏を中心に西から攻めて来る武田氏に抵抗していました。
利根川以東の北条支配は五年間続きますが、永禄3年(1560)、上杉謙信(長尾景虎)が大軍を率いて北から攻めて来ます。管領職を継いだ謙信の勢いは物凄く、北条勢は上野の国から一掃されてしまいます。この時、伊勢守は家族を連れて小田原に移ったのだと思います。そして、三年後、伊勢守は剣客となって西へ旅立つのです。

 戦国草津温泉記・湯本善太夫

 戦国草津温泉記・湯本三郎右衛門


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2006年03月14日

上泉伊勢守

上泉伊勢守は群馬県を代表する偉人なのですが、群馬県内で、それほど有名でないのは残念です。
伊勢守は上泉城(前橋市)の城主の倅として1508年に生まれました。二年後は生誕500年に当たるわけです。
15歳前後で元服して、鹿島に武術修行に出ます。当時、鹿島神宮と利根川を挟んで対岸にある香取神宮は、武術の聖地として栄えていました。伊勢守は鹿島で松本備前守という武将から神道流を学びます。二年間位、鹿島で修行したのだろうと思います。
故郷に帰って来た伊勢守はさらに修行を続けますが、そこに現れたのが、愛洲移香斎です。移香斎は伊勢守の才能を見抜き、後継者として陰流のすべてを授けます。移香斎は伊勢守を連れて旅をしながら、陰流を授けたのだろうと思います。移香斎の弟子が各地にいて、彼らに伊勢守を紹介したに違いありません。
移香斎が上泉の地を訪ねたのは初めてではなく、上泉家は代々、武術の修行を積んでいたので、伊勢守の父や祖父とも親交があったのでしょう。
すべてを伊勢守に授けた移香斎はどこかに消えていきます。立派な後継者を得て、満足して隠退したのでしょう。
伊勢守は移香斎から授かった陰流をさらに工夫して新陰流を編み出します。

 上泉伊勢守の略歴

戦国草津温泉記・湯本善太夫

戦国草津温泉記・湯本三郎右衛門


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2006年03月10日

愛洲移香斎

まずは愛洲移香斎の話から行きましょうか。
愛洲移香斎は言わずと知れた陰流の流祖です。現在の剣道の源流とも言えるでしょう。
移香斎の本名は愛洲太郎左衛門久忠といい、生まれは伊勢の国(三重県)の南端、五ケ所浦で、応仁の乱(1467年)が始まる15年前に生まれています。
愛洲氏は南北朝の頃、伊勢の国に入ってきた北畠氏を助けて、南朝方として活躍して名をあげます。「太平記」にも愛洲氏の名は出てきます。
五ケ所浦は当時、伊勢神宮の南の入口として栄えていました。大勢の参拝者が熊野や遠く九州の方からも船でやって来ました。愛洲氏は水軍を持って、船の出入りを管理していたのです。
移香斎も水軍の出身だと思われます。32歳の時、日向の国(宮崎県)の鵜戸神宮で開眼して、陰流を開きますが、水軍に関係していたからこそ、鵜戸神宮に行ったのだと思います。
移香斎の編み出した陰流は、上野の国(群馬県)の上泉伊勢守に伝えられ、伊勢守はさらに工夫して、新陰流を開きます。伊勢守は武将でしたが、晩年、新陰流を広めるために旅に出て、大和の国(奈良県)で、柳生石舟斎と出会います。石舟斎の才能を認めた伊勢守は彼にすべてを授けます。石舟斎に伝えられた新陰流は子の但馬守に伝えられ、但馬守は徳川幕府の武術指南役となります。幕府に認められた新陰流は門弟が増え、全国各地へと広まって行ったわけです。

陰の流れ・愛洲移香斎

摩利支天の風〜若き日の北条幻庵


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