2007年03月17日

奥山休賀斎

上泉伊勢守門下の四天王の1人です。本名は奥平孫次郎公重といい、三河の国、奥山郷の生まれです。三河からどういう経路で上州まで来たのかはわかりませんが、伊勢守が上泉城にいた頃の弟子のようです。
伊勢守から印可を貰った後、三河に帰って奥山明神に籠もり、剣の奥義を悟ったと伝えられます。その時、新陰流を神陰流(神影流)に改めたようです。奥山流を称したという説もあります。
高弟には小笠原源信斎がいて、源信斎の門下に針ヶ谷夕雲がいます。若き日の徳川家康も休賀斎を武術指南役に迎えて、指導を受けています。
慶長7年(1602年)、77歳で亡くなりました。

陰の流れ外伝 針ヶ谷夕雲


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2007年03月14日

神後伊豆守宗治

上泉伊勢守の門下で、疋田豊五郎と双璧を成していたのが、神後伊豆守です。
越後の長尾景虎(後の上杉謙信)に攻められて、上泉城が落城した後、豊五郎と共に伊勢守の供をして上洛の旅に出ます。その時、鈴木意伯と改名しています。なぜだか、わかりません。上州を去るに当たって、神後家の家督を弟に譲り、妻の姓を名乗ったのかもしれません。母方の姓を名乗ったという説もあります。
柳生の庄で、柳生宗厳と試合をしたのは意伯と称していた神後伊豆守でした。元亀元年(1570年)の兵法天覧の時までは師の側にいたようですが、その後、師と別れて旅に出て、奥州方面に「新陰流」を広めたようです。

戦国草津温泉記・湯本三郎右衛門

※「戦国草津温泉記・湯本三郎右衛門」では鈴木移伯として登場します。
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2007年03月11日

疋田栖雲斎

新陰流の流祖、上泉伊勢守の高弟で、伊勢守の甥に当たります。晩年に栖雲斎(せいうんさい)と号しますが、本名は豊五郎景兼といいます。虎伯とも号しました。
父親は疋田主膳景範といい加賀の国、倉月庄疋田郷の郷士で、本願寺の有力門徒でもあります。母は伊勢守の姉だと伝えられています。
幼い頃から叔父の伊勢守に預けられて、新陰流の修行を積んで、上泉門下の四天王の1人と呼ばれます。
越後の長尾景虎(後の上杉謙信)に攻められて、上泉城が落城した後、伊勢守の供をして上洛の旅に出ます。柳生の庄で柳生宗厳(後の石舟斎)と出会い、宗厳が伊勢守の弟子になった時、柳生に残って宗厳の指導に当たったのが豊五郎でした。
宗厳が伊勢守から印可を得てからは、師の伊勢守と別れて諸国修行の旅に出ます。
織田家に仕えて、信長の長男、信忠の武術指南役を勤めますが、織田家は滅びてしまいます。その後、豊臣家に仕えて、秀吉の養子、秀次の武術指南役になります。秀次が亡くなった後は九州へと行き、豊前の細川家に仕えます。さらに、筑前の黒田家、肥前の寺沢家にも仕えたようです。
一ヶ所に長く留まる事ができない性格らしく、その後も旅を続けて、最後には豊臣秀頼の大坂城内で亡くなりました。
慶長10年(1605年)9月30日、享年は80歳前後だったようです。
栖雲斎自身は新陰流を称していましたが、弟子の山田浮月斎によって疋田陰流と呼ばれるようになります。

戦国草津温泉記・湯本三郎右衛門

※「戦国草津温泉記・湯本三郎右衛門」では栖雲斎はセリフの中に登場するのみです。
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2007年02月15日

北条氏綱の子供たち

北条氏二代目の氏綱は10人の子供に恵まれました。
1番目は長女で、太田道灌の孫、太田資高に嫁ぎます。
2番目は次女で、香沼姫と呼ばれ、世田谷御所の吉良頼康に嫁ぎます。
そして、三番目が長男の氏康です。
4番目は三女で、葛山氏元に嫁ぎます。氏元の父親は氏綱の弟なので、従兄妹同士の婚姻です。
5番目は次男の弥九郎ですが、23歳で亡くなってしまいます。若くして亡くなってしまったため、詳しい事はわかりません。戦死だったのか、病死だったのか、死ぬまで、どこの城を守っていたのか不明です。
6番目は四女で、福島綱成に嫁ぎます。この綱成は今川家の家臣、福島正成の子で、父親が戦死した後、小田原に逃げて来て、氏綱に助けられます。武将としての才能に恵まれていたようで、氏綱は「綱」の字を与え、婿養子に迎えて北条姓を名乗らせます。綱成は氏康亡き後も、氏政を助けて長老として活躍します。
7番目は三男の為昌で、二代目玉縄城主になります。この為昌も不思議な事に23歳で亡くなっています。戦死なのか、病死なのかわかりません。そして、なぜ、実名に「氏」ではなく、「為」という字が付いているのかも不思議です。
8番目は五女で、崎姫と呼ばれ、今川氏の一族である堀越氏延の妻になります。
9番目は四男の氏堯で、幻庵の婿になって、幻庵の長男、三郎が戦死した後、小机城主になっています。
末っ子は六女で、古河公方の足利晴氏に嫁ぎました。
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2007年02月11日

北条氏康

氏康は早雲の孫で、氏綱の長男です。幼名は伊豆千代丸といい、永正12年(1515年)、小田原城で生まれます。
氏康が生まれた時はまだ伊勢氏を名乗っていて、祖父の早雲は84歳でしたが健在でした。氏康が生まれた翌年、早雲は三浦道寸の籠もる新井城を落として、相模の国を平定します。
氏康が5歳の時に、祖父は大往生を遂げます。氏康の記憶の中に祖父の面影が残っていたかはわかりませんが、周りの家臣たちから祖父の活躍話は何度も聞いて、自分も祖父のようになりたいと思った事でしょう。
10歳の時、父氏綱は扇谷上杉氏の江戸城を攻め落として、武蔵の国へと進出して行きます。そして、伊勢姓を北条姓に改めます。
15歳の時に元服して、父親と同じように祖父の名、新九郎を継ぎ、北条新九郎氏康を名乗ります。
20歳の時、今川氏親の娘を嫁に貰います。父親の氏綱と今川氏親は従兄弟同士なので、はとこ同士の結婚でした。美人だった北川殿の孫なので、美しい娘だったに違いありません。
氏康と新妻は仲睦まじく、翌年には長男が生まれます。ところが、結婚してから三年後、今川家は長年、敵対していた甲斐の武田家と同盟を結んでしまいます。氏綱は今川家と断交しますが、氏康の妻は実家に戻る事なく、北条家に留まって、次男の氏政、三男の氏照、四男の氏邦、五男の氏規と後に活躍する子供たちを産みます。
氏康が27歳の時、氏綱は亡くなってしまいました。早過ぎる父親の死でしたが、氏康は立派に三代目を継いで、北条領国を広げて行きます。そして、関東の地を舞台に、甲斐の武田信玄、越後の上杉謙信との三つ巴の戦国絵巻が演じられる事になります。

戦国草津温泉記・湯本善太夫

戦国草津温泉記・湯本三郎右衛門


北条氏康  北条氏康  向う疵北条氏康  北条氏康
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2007年02月08日

葛山氏広

伊勢(北条)早雲の三男、氏広は駿河の国の駿東郡に勢力を持っていた葛山(かづらやま)氏の養子になります。葛山氏は母親の実家で、跡継ぎに恵まれなかったため、婿養子に入ったようです。
氏広は中務少輔と称して、永禄6年(1563年)まで生きて、73歳の長寿を全うしますが、詳しい事はわかりません。
伊豆の国を拠点に関東へと進出して行った北条氏と駿河の国から遠江へと進出して行った今川氏は同盟を結んでいましたが、天文6年(1537年)、長年、敵として共に戦っていた甲斐の武田氏と今川氏が同盟を結んだ事にって、北条と今川の同盟は壊れて、敵対関係になります。その時、間に挟まれた葛山氏はどんな態度を取ったのか、今の所、勉強不足の私にはわかりません。
天文6年以前に、氏広の子の氏元は北条氏綱の娘を嫁に迎えています。お互いに従兄妹同士なので、北条氏との繋がりが強く、北条方に付いていたのかもしれません。
17年後の天文23年(1554年)、北条、今川、武田の三国同盟が成立します。氏広も一安心した事でしょう。

摩利支天の風〜若き日の北条幻庵
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2007年02月05日

北条氏時

氏時は伊勢早雲の次男です。長享3年(1489年)頃、駿河の興国寺城で生まれます。母親は葛山備中守の娘のようです。
15歳頃、元服して、新六郎氏時を名乗り、22歳の頃には、岡崎城攻めの前線基地だった鴨沢の要害を守っています。
永正9年(1512年)8月、父早雲は三浦道寸の岡崎城を攻め落として、道寸を三浦半島に追い込みます。道寸を三浦半島に閉じ込めて置くためと、江戸城から攻めて来る敵に対する守りを固めるために、早雲は鎌倉の北方に玉縄城を築きます。
玉縄城の初代城主になったのが、氏時です。氏時は左馬助とも称し、早雲亡き後、兄氏綱を助けて活躍しますが、詳しい事はわかっていません。
江戸城を後略した後、兄が北条姓を名乗った時、氏時も伊勢姓から北条姓に改めます。
享禄4年(1531年)8月18日に亡くなったようですが、戦死か病死かもわかりません。残念ながら跡継ぎに恵まれなかったようで、兄氏綱の三男、彦九郎為昌が二代目の玉縄城主を継いでいます。

摩利支天の風
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2007年01月30日

豊臣秀吉と草津温泉

文禄4年(1595年)正月、豊臣秀吉は草津温泉に湯治に出かける計画を建てました。当時の草津温泉は真田昌幸の領内で、草津の領主は湯本三郎右衛門です。
8年前の天正15年(1587年)4月には、秀吉の妹で、徳川家康の妻となった朝日姫が草津の湯に入っています。翌年の天正16年には、秀吉の養子になった秀次が草津に行っています。
二人から草津の湯の素晴しさを聞き、真田昌幸からの薦めもあって、いつかは行ってみたいと思ったのでしょう。
天正18年(1590年)7月、小田原の北条氏を滅ぼして、天下を統一した秀吉は、秀次に関白職を譲り、文禄元年(1592年)には、朝鮮出兵を始めます。
文禄3年に伏見城の築城を始めますが、体の具合を悪くして、有馬の湯に浸かっています。その年の12月には完成した伏見城に移り、草津行きを思い立ちます。
計画では、3月15日に京都を発って、大津、近江八幡、佐和山(彦根市)、大垣、岐阜、土岐、落合(中津川市)、木曽福島、松本、浦野、真田、鎌原を通って、26日頃、草津に着く予定になっています。
25日までに、草津の湯に秀吉の御座所を建てるよう、浅野幸長、千石秀久、石川三長の3人が普請奉行に選ばれました。
しかし、秀吉の草津湯治は実現しませんでした。何が原因だったのかわかりません。その年の7月、秀吉は養子の秀次を高野山に追放して、切腹を命じています。その事に関して、京都を離れる事ができなかったのかもしれません。
中止の知らせが草津に届いたのが、いつだかわかりませんが、草津の領主だった湯本三郎右衛門は秀吉の一行を接待するために大変な思いで準備をしていた事でしょう。
それから三年後の慶長3年4月、秀吉の親友だった前田利家が草津温泉に行っています。隠居したとはいえ、加賀百万石の大名、前田利家を迎えるのは大変な事だったに違いありません。

戦国草津温泉記・湯本三郎右衛門

※「戦国草津温泉記・湯本三郎右衛門」は武田家の滅亡で終わっていますので、秀吉の湯治の話はまだ出てきません。そのうち、続編を書こうと思っています。
ラベル:武将 草津温泉
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2007年01月26日

織田信忠

織田信長の長男、信忠は幼名を奇妙丸といいます。24歳だった信長の最初の子供で、奇妙な顔をしていたので、そう名付けたのか、父親になった事が奇妙に思えたのかわかりませんが、感じたままを名前に付けました。
母親は正室の斎藤道三の娘ではなく、側室の生駒氏の娘、吉乃だったようです。
16歳になった時、下の二人の弟、信雄、信孝と一緒に元服して、勘九郎信忠を名乗ります。その後、浅井攻めで初陣を経験して、伊勢長島の本願寺攻めでは大将として出陣します。
長篠の合戦でも大将として活躍して、天正3年(1575年)11月、信長から岐阜城を譲られます。わずか19歳にして、尾張、美濃、二国の領主となって、岐阜城主となるのです。父の信長はまだ完成していない安土城へと移りました。
翌年には松永久秀を討って、左近衛中将に任じられ、以後、岐阜中将と呼ばれます。
天正10年(1582年)2月、甲斐の武田攻めでは、父に代わって総大将として活躍します。
信忠は11歳の時、武田信玄の娘、お松と婚約しました。しかし、信長が信玄に敵対するようになって、五年後に破談となります。二人は一度もあった事はありませんが、婚約中の五年間、共に手紙のやり取りをしていたようです。お松との破談の後、いつの頃かわかりませんが、正室を迎えて、天正8年には長男の三法師が生まれます。
武田氏を滅ぼして凱旋した信忠は5月21日、京都の妙覚寺に入ります。信長が本能寺に入ったのは29日です。そして、6月2日の早朝、明智光秀の襲撃を受けて、二条御所にて、見事に討ち死にします。26歳の若さでした。

戦国草津温泉記・湯本三郎右衛門


織田信忠  信松尼  真説本能寺  「本能寺の変」本当の謎
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2007年01月23日

北条氏綱

小田原北条氏の二代目を継いだ氏綱は通称は父親と同じ、新九郎です。生まれたのは文明18年(1486年)で、この時、父親の伊勢早雲は京都にいて幕府に仕えていました。一旦は幕府を辞めて、駿河の国に住み着いていたのですが、甥の今川氏親の家督を幕府に認めてもらうために、再び、幕府に仕えていたようです。母親は幕府奉公衆の小笠原氏の娘です。
氏綱が生まれた翌年、早雲は幕府を辞めて、駿河に下向し、小鹿範満を討って、氏親を今川家のお屋形に迎えます。
氏綱は京都から駿河に移り、興国寺城に入ります。その翌年に早雲は葛山氏の娘を妻に迎えていますので、氏綱の母親は氏綱を産んでまもなくして亡くなったものと思われます。
氏綱が8歳の時、早雲は伊豆の国に攻め込んで、堀越公方を倒し、韮山城に入ります。10歳の時、早雲は小田原城を攻略して、弟の弥次郎を城主に据えますが、翌年、上杉勢に攻められて、弥次郎は戦死してしまいます。早雲はまだ11歳だった氏綱を小田原城主に任命します。
24歳の頃、早雲が探し出した鎌倉幕府の執権だった北条氏の末裔の娘を妻に迎えます。翌年、長女が生まれ、永正12年(1515年)には長男、氏康が生まれます。
父親の早雲は相模の国を平定した後、武蔵の国へと進出しようと試みますが、夢半ばで亡くなってしまいます。氏綱は父親の遺志を継いで、大永4年(1524年)4月、江戸城を攻め落として武蔵の国へと勢力を広げて行きます。そして、今まで名乗っていた伊勢姓を北条姓に改めるのです。
北条を名乗った氏綱は岩付城を攻略し、河越城も攻略し、葛西城も攻略し、鶴岡八幡宮の再建して、55歳の生涯を閉じます。父、早雲の遺志を立派に継いで、小田原北条氏の基盤を築きました。

摩利支天の風


北条早雲と家臣団  後北条氏家臣団人名辞典  戦国の魁早雲と北条一族  戦国北条一族
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2007年01月16日

長尾伊玄

長尾伊玄は入道する前は長尾四郎右衛門尉景春といって、管領上杉氏の家宰を勤める長尾景信の長男に生まれます。越後の長尾氏出身の上杉謙信とは同族です。
景春が31歳の時、上杉軍の中心になって活躍していた父親が陣中で亡くなってしまいます。景春が家督を継ぐはずでしたが、上杉家の老臣たちの評定の結果、家宰職を継ぐのは父親の弟、景春から見れば叔父の忠景に決まってしまいます。
当時の管領、上杉顕定がまだ20歳だったので、老臣たちは経験豊富で思慮分別のある忠景を家宰職に選んだのでしたが、景春は管領が忠景の長男を可愛がっているので、その父親を選んだに違いないと疑い、管領や老臣たちを恨みます。
景春は勝手に兵を引き連れて本拠地の白井(しろい)城に引き上げると拗ねたように引きこもってしまいます。何とか恨みを晴らしたいと思ってはいましたが、管領の上杉氏を相手に戦っても勝てる見込みはありません。ところが、以外にも上杉方の武将たちの中にも管領のやり方に反感を持っている者が多いという事がわかって来ます。
景春は頭を丸めて伊玄入道と号し、父親の喪に服していると見せながら、反乱の計画を進めます。父の死から三年後の文明8年(1476年)、伊玄は実行に移します。祖父が築いた鉢形城に入り、管領軍の本陣である五十子(いかっこ)の陣を攻めたのです。一度目は失敗に終わりますが、翌年の正月、敵の隙をついて攻め寄せ、見事に打ち破ったのです。
家臣の身でありながら主家に叛いた下克上の始まりで、長尾景春の乱と呼ばれます。
その後、太田道灌に敗れて伊玄は五十子の陣から退去し、さらに、鉢形城も攻め落とされて、古河公方を頼って逃げます。道灌が生きているうちは伊玄の思い通りにはなりませんでしたが、文明18年(1486年)、道灌が暗殺されると、再び、勢力を盛り返して、死ぬまで管領上杉氏に反抗し続けました。
12歳年長だった太田道灌にはどうやってもかないませんでしたが、伊玄はなかなか優れた武将だったようです。80年後に生まれていたら、上野の国の戦国大名になって、武田信玄、上杉謙信、北条氏康らと互角に戦っていたでしょう。

陰の流れ《愛洲移香斎》第四部・早雲登場

摩利支天の風〜若き日の北条幻庵

銭泡記〜太田道灌暗殺の謎
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2007年01月12日

三浦道寸

道寸は相模守護の扇谷(おおぎがやつ)上杉氏の生まれですが、7歳の時に守護代の三浦高時の養子になります。15歳の時に元服して、三浦新介義同(よしあつ)を名乗ります。
三浦家の跡継ぎとして、戦でも活躍しますが、義同が34歳の時、男子のなかった養父に長男、駒若丸が生まれます。養父は駒若丸を可愛がり、三浦家は二つに分裂してしまう可能性が出て来ます。
見かねた義同は、2年後に自ら身を引いて出家し、道寸を名乗ります。三浦家のために身を引いたのですが、道寸の復帰を願う家臣も大勢いました。
堀越公方を滅ぼして伊豆の国に進出して来た伊勢早雲の勧めもあって、道寸は復帰する決心を固めます。明応三年(1494年)の9月、早雲の援軍も加わり、新井城を攻め、養父と駒若丸を殺して三浦家の家督を取り戻します。
その翌年、伊豆の国を平定した早雲は相模の国へと進攻して、大森氏の小田原城を奪い取ってしまいます。味方だった早雲に裏切られ、道寸は早雲を相模の国から追い出すために戦い続けますが、早雲の智略には勝てず、ついには新井城に閉じ込められてしまいます。
永正13年(1516年)7月、4年近くの籠城の末、食糧も尽き果て、最後の総攻撃を仕掛けて道寸は討ち死にし、相模の名族、三浦氏は滅亡します。道寸は60歳前後、早雲は85歳になっていました。

摩利支天の風


相模三浦一族とその周辺史
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2007年01月08日

西村勘九郎

勘九郎は幼い頃に京都の妙覚寺に入れられ、法蓮坊を名乗って日蓮宗の修行を積みますが、23歳の頃、還俗して松波庄五郎を名乗ります。
26歳の頃、油商人奈良屋又兵衛の娘に惚れて婿に入ります。何年かして屋号を山崎屋に変えますが、随分と繁盛したようです。娘も生まれて、商売もうまく行っていたのに、32歳の頃、商売をやめてしまいます。武士になる言い出して、家族を置いて美濃の国へと出かけます。
突然、商売をやめたのは、寺を出てから婿入りするまでの間に、伊勢早雲と出会って、早雲の話を聞いたからだと思います。早雲はいつの日か、一国の主になってやると庄五郎に言ったのでしょう。庄五郎も早雲と同じ夢を見ましたが、いつしか、不可能だと諦めてしまいます。ところが、早雲が実際に伊豆の国の主になったとの噂を耳にします。俺もやらなければ、と武士になる決心をするのです。
美濃の国に行ったのは、僧侶時代の友が美濃の国にいたのと、油を売りながら美濃の国の事情を知って、何とかなりそうだと目論んだのでしょう。
当時の美濃の国の守護は土岐氏で、守護代は斎藤氏でした。庄五郎は斎藤氏の家老を務める長井豊後守に使えます。そして、翌年、長井氏の家臣だった西村氏の名跡が絶えたので、西村氏を継いで、西村勘九郎と改名します。さらに、長井氏の娘を嫁に貰って、長井新左衛門と名を改めます。
名を変える度に出世して、ついには守護代の家老にまで登りつめます。そして、息子の新九郎が父親の夢を引き継ぎ、とうとう、美濃の国の主になります。美濃の蝮と恐れられ、織田信長の舅になる斎藤道三です。

摩利支天の風
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2007年01月05日

北条早雲の子供たち

早雲は40歳の頃、武士をやめて旅に出ます。幕府に仕えていた頃、妻もあって子供もいたと思いますが、はっきりとわかりません。
妹のいる駿河の国に落ち着いて、今川家の家督争いを治めた後、今川家の武将として興国寺城主になります。その時、長男の新九郎氏綱はもう生まれています。氏綱の母親は小笠原氏のようですが、氏綱を産んだ後、亡くなってしまったようです。
それから一年位経ってから、早雲は葛山氏から後妻を迎えています。葛山氏は次男の新六郎氏時、三男の新三郎氏広、四男の菊寿丸を産みます。
長男の氏綱は家督を継いで、姓を伊勢から北条に変えます。関東に馴染みの薄い伊勢姓では関東の武将たちをなびかせるのは難しいと考えた早雲が、鎌倉幕府の執権だった北条氏の末裔の娘を伊豆の国で見つけて、氏綱の嫁に迎えたと伝えられています。
氏綱は早雲の遺志を継いで、江戸城を攻略し、武蔵の国へと進出して行きます。北条姓を継ぐ者として、荒廃していた鎌倉の鶴岡八幡宮も見事に再建しています。
次男の氏時は初代の玉縄城主として鎌倉を守り、兄を補佐します。三男の氏広は母親の実家である葛山氏の養子となって葛山氏の家督を継ぎます。そして、四男の菊寿丸は僧侶となるべく、箱根権現に入れられます。
菊寿丸は京都に出て修行を積み、長綱僧正と呼ばれて箱根権現の別当職を勤めます。別当職を引退した後は、北条家の長老として活躍し、98歳の長寿を全うします。

摩利支天の風〜若き日の北条幻庵


後北条氏家臣団人名辞典
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2007年01月01日

山科言継

新年おめでとうございます。
早いもので、もう2007年になってしまいました。2000年になったと騒いでいたのが、ついこの間のような気がします。あれから6年が過ぎてしまったなんて、あまりにも速過ぎます。
さて、元旦にふさわしい人物は誰だろうと考えてみましたが、これといって思い当たりません。500年前は戦国時代だったので、生誕500年になる人はいないかと捜したら、山科言継(ときつぐ)さんが見つかりました。
山科言継は武将ではなく、お公家さんで、戦国の世に寂れてしまった宮廷を建て直すために奔走した人です。各地の武将を訪ねては得意な蹴鞠や和歌の指導をして献金を集めました。
上泉伊勢守が武将をやめて武芸者として京都に出た時、山科言継は伊勢守のために色々とお世話をしています。伊勢守が京都に道場を開く事ができたのも、将軍や天皇の御前で兵法を披露する事ができたのも、山科言継の協力があったからでしょう。
伊勢守はお礼として、言継に兵学や医術の指導をしています。言継が残した日記に『愛洲薬』というのが出てきます。愛洲移香斎から伊勢守に伝わった秘伝の薬です。言継はその薬を使って、公家だけではなく、貧しい庶民たちも数多く、治療して助けたようです。
ちょっと変わった公家らしくない興味深い人です。

上泉伊勢守の略歴


戦国時代の貴族  言継卿記(第1)新訂増補
ラベル:公家
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2006年12月27日

飯篠長威斎

武神を祀っている鹿島神宮と香取神宮には古くから武術が伝わっていました。その二つの武術をまとめて体系付け、『天真正伝神道流(てんしんしょうでんしんとうりゅう)』と称したのが飯篠長威斎(いいざさちょういさい)です。
長威斎が生まれたのは元中4年(1387年)で、亡くなったのは長享2年(1488)だと伝えられています。当時の人たちの寿命を考えれば、まるで、仙人のように長生きしています。
弟子の数も相当の数に昇った事でしょう。塚原卜伝の祖父、塚原土佐守は最も有名な弟子でした。卜伝と上泉伊勢守の師である松本備前守は倅の山城守盛直の弟子で、自顕流を開いた十瀬与三左衛門は長威斎の曾孫、若狭守盛信の弟子です。
長威斎は京都に出た時、八代将軍足利義政にも指導していますが、義政は武術よりも茶の湯や庭園造りの方に熱中したようです。
しかし、幕府に出入りしていた武将たちは長威斎の武術に目を見張って、弟子たちを武術師範役として誘ったに違いありません。弟子たちによって神道流は各地に広まって行き、その発祥の地である鹿島、香取は武術の聖地となって行きます。

陰の流れ《愛洲移香斎》第一部・陰流天狗勝

※陰の流れ第一部には飯篠長威斎は登場しませんが、弟子の倉田無為斎と川島与三郎が登場します。


天眞正傳 香取神道流(DVD)  日本の古武道  香取神道流木刀
ラベル:武芸者
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2006年12月22日

塚原卜伝

剣豪で名高い塚原卜伝は常陸の国(茨城県)の吉川家の次男に生まれます。吉川家は代々鹿島神宮の神職を務める名家でした。
武神を祀る鹿島神宮は古くから武術が盛んで、その武術は『鹿島の太刀』と呼ばれてました。卜伝も幼い頃から武術の修行を始めます。
10歳の頃、同じ神職を務める塚原家の養子となって、塚原新右衛門を名乗り、武将としても活躍していた松本備前守の弟子になって、『鹿島の太刀』の修行に励みます。
17歳の頃、諸国修行の旅に出ます。各地を回って、何度も真剣勝負をやっては勝っていたようです。戦にも出て、兜首をいくつも取りました。
30歳の頃、故郷に戻って来て、鹿島神宮に千日間参籠して、悟りを開き、極意を『一つの太刀』と名付けます。この頃、上州の上泉から若き日の伊勢守が鹿島に修行に来ていました。伊勢守の師も松本備前守なので、卜伝と伊勢守は兄弟弟子という間柄になります。
剣の悟りを開いた後も、鹿島に落ち着く事なく、さらに修行の旅を続けます。50歳を過ぎて、入道となって、卜伝と号します。
卜伝の弟子には将軍の足利義輝、伊勢の国司、北畠具教、一羽流を開いた諸岡一羽、霞流を開いた真壁暗夜斎、天道流を開いた斎藤伝鬼坊、武田家の家臣、海野能登守らがいます、
卜伝自身は『新当流』を名乗ってはいなかったようですが、いつの頃からか、卜伝の流派は『卜伝流』とか『新当流』と呼ばれるようになりました。

藤吉郎伝―若き日の豊臣秀吉


剣聖  戦国の兵法(ひょうほう)者  剣豪血風録  人物日本剣豪伝(1)
ラベル:武芸者
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2006年12月20日

海野能登守輝幸

海野能登守は上野国羽尾(群馬県吾妻郡長野原町)城主、羽尾治部少輔の三男に生まれます。
幼い頃より剣術の修行に励み、18歳頃、武術の聖地だった鹿島に行って、新当流の塚原卜伝の弟子になります。卜伝と共に諸国修行の旅をしながら修行を積みます。
30歳の頃には師の卜伝と別れて、一人で旅をしていたようですが、甲府に落ち着いて、若き日の武田信玄に武術を教えます。
甲府で嫁も貰って子供も生まれますが、一ヶ所に落ち着く事のできない性格らしく、40歳を過ぎた頃、また旅に出てしまいます。
京の都で偶然、師の卜伝と再会して、共に剣術好きの将軍、足利義輝の御前で新当流の武術を披露する事になります。
三年後、再び、京都に来た能登守は三好長慶に追われて朽木谷に隠れていた将軍義輝を訪ねて、武術の指導をしています。この時、将軍から『輝』の字を賜って、輝幸を名乗ります。
その後、故郷に帰って、甲府にいた家族も呼んで、岩櫃城主の斎藤越前守に仕えます。岩櫃城内に道場を開いて、若い者たちに武術を教えていましたが、五年余り経った頃、武田軍が吾妻に攻め寄せて来ました。先鋒として攻めて来たのは同族の真田幸隆でした。
真田幸隆は岩櫃城を囲みますが、険しい岩山の中にある岩櫃城は簡単には落とせそうもないと判断して、和睦という形で一旦は引き上げます。
二年後、真田幸隆は再び、岩櫃城を攻めます。この時、すでに武田に内通している者も多く、岩櫃城は落城します。能登守も兄の長門守と共に寝返って、武田方となります。
能登守と長門守の兄弟は所領を没収されて、信濃へ退去しますが、幸隆の推挙もあって三年後に岩櫃城代となって戻って来る事ができました。

戦国草津温泉記・湯本善太夫

戦国草津温泉記・湯本三郎右衛門
ラベル:武芸者 武将
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2006年12月14日

草津温泉の領主、湯本三郎右衛門

湯本善太夫の跡を継いだ三郎右衛門は善太夫の甥です。
13歳の時、父親は戦死してしまいます。本来なら長男の三郎右衛門が父の跡を継ぐはずでしたが、若過ぎるために、父親の弟が跡を継ぐ事に決まってしまいます。
悔しい思いをした三郎右衛門でしたが、翌年の春、思いもよらない幸運が舞い降りてきます。お屋形様の善太夫が三郎右衛門を跡継ぎとして養子に迎えるというのです。
その時、善太夫には跡を継ぐべき男子がいませんでした。この後に生まれる可能性はありましたが、三郎右衛門の父親のように、いつ戦死するかわからない状況です。
現に、三郎右衛門の父親は怪我をして出陣できない善太夫の代わりに大将として出陣して戦死したのです。もし、善太夫が出陣していたなら、確実に戦死したでしょう。善太夫は妹の子供である三郎右衛門を跡継ぎにする事に決めました。
善太夫の養子になった三郎右衛門は山伏の東光坊と共に修行の旅に出ます。戦乱の世を行き抜くためには、世の中の動きを知らなければなりません。善太夫は自分の目で世の中の動きをしっかりと見て来いと三郎右衛門を旅に出しました。
三年間、各地を旅して見聞を広めた三郎右衛門はお屋形様になるための修行を始めます。
三郎右衛門が22歳の時、善太夫は武田信玄の遺志を継いだ勝頼に従って、京都を目指して出陣します。徳川家康を倒し、織田信長も倒して、上洛するはずでしたが、武田軍は長篠で敗戦してしまい、名立たる武将が大勢、戦死してしまいます。善太夫も戦死してしまいました。
早すぎる善太夫の死でした。三郎右衛門はあまりの突然の訃報に動転しますが、立ち直って、湯本家のために、草津温泉を守るためにお屋形様となるのです。

戦国草津温泉記・湯本善太夫

戦国草津温泉記・湯本三郎右衛門
ラベル:武将
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2006年12月10日

古河公方 足利成氏

関東の武士たちをまとめるために、足利尊氏が倅の基氏をかつて幕府のあった鎌倉の地に派遣したのが鎌倉公方の始まりです。基氏の子孫が代々公方を継いでいます。
四代目の持氏の時、五代将軍の義量がわずか19歳で亡くなり、六代将軍を決める前に、四代将軍だった義持も亡くなってしまいます。義持には義量の他には男子はなく、六代将軍になるのは自分以外にはいないと持氏は確信します。ところが、幕府の首脳部は自分の存在をまったく無視して、僧侶となっている義持の4人の弟たちの中からくじ引きで、将軍職を決めてしまいました。くじに当たったのが、後に嘉吉の変で殺される義教です。
持氏は幕府を怨んで、幕府の言う事を聞かずに敵対し続けます。執事役である関東管領の上杉氏とも対立してしまい、ついに、幕府の追討軍に攻め滅ぼされてしまいます。その後、10年間、関東には公方様はいませんでした。
上杉氏が中心になって関東の武士たちをまとめていましたが、やはり、将軍の一族である公方の存在は必要だという事になって、生き残っていた持氏の遺児、成氏が鎌倉に迎えられて公方となります。しかし、五年後、成氏は関東管領の上杉憲忠を父親の仇だと言って殺してしまいます。
関東の武士たちは公方の成氏方と管領の上杉方に分かれて、各地で合戦を始めます。京都で応仁の乱が始まる10年も前から、関東では戦の絶えない戦国の世が始まっていたのです。
幕府も成氏の勝手な振る舞いを黙ってはいません。幕府の大軍に攻められて、成氏は鎌倉を追い出され、下総の古河に逃げます。以後、鎌倉に戻る事ができず、古河を本拠地にしたので古河公方と呼ばれるようになりました。

陰の流れ《愛洲移香斎》第四部・早雲登場


中世東国政治史論  戰國遺文(古河公方編)  戦国期東国の大名と国衆
ラベル:古河公方
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2006年12月07日

室町幕府八代将軍、足利義政

義政といえば、銀閣寺を建てた将軍として有名ですが、将軍としての仕事をする事ができずに、応仁の乱の原因を作ってしまった人と言えます。
義政は、嘉吉の変で赤松氏に殺された六代将軍義教の子で、七代将軍義勝の弟です。次男なので当然、僧侶になる予定でしたが、兄が10歳で亡くなってしまったために、8歳の時に将軍職を継ぐ事に決まりました。
14歳で七代将軍になりますが、「三魔」と呼ばれていた今参局、有馬持家、烏丸資任の3人の側近衆が政務を牛耳っていて、将軍とは名ばかりで何もできませんでした。
20歳の時に日野富子を妻に迎えます。富子は嫁いで5年目に男の子を産みます。何人もいた側室も女の子は産みましたが、男の子は初めてです。義政も大喜びしますが、その子はすぐに亡くなってしまいました。今参局が呪いをかけていたと疑われ、琵琶湖の沖の島に流されて自害して果てます。今参局が亡くなると日野家が勢力を持って来ます。
うるさい側近たちに囲まれ、管領の細川勝元も好き勝手な事をしていて、将軍である自分の言う事を聞く者は誰もいません。面白くない義政は花見の宴、月見の宴など、大袈裟な宴会を催しては憂さ晴らしをします。やがて、庭園造りに興味を持って、花の御所の造営に熱中します。
29歳の時、義政はさっさと隠居をして好き勝手に生きようと決心して、僧侶だった弟(義視)を無理やり還俗させ、跡継ぎに任命して細川勝元に後見させます。もう男の子は生まれないだろうと思っていたのに、翌年、富子が男の子を産みます。義尚です。
富子は我が子を将軍職に就けようと、勝元と敵対している山名宗全を頼みます。次期将軍職の任命権は勝元と宗全の手にゆだねられ、さらに、畠山家、斯波家の家督争いも絡んで、応仁の乱が始まるのです。

陰の流れ《愛洲移香斎》第一部・陰流天狗勝


足利義政  茶道・香道・華道と水墨画
ラベル:将軍
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2006年11月30日

小野屋五代目女将、お澪

お澪は風摩党の水軍の大将、愛洲万太郎の娘として浦賀の砦で生まれます。
二十歳の時、叔母である「小野屋」の四代目女将、ナツメの養女となって、女将になるための修行を始めます。初め、小田原の本店で修行してから京都の店に行って修行を積み、次に安土の店に行きます。安土に行ったのは、北条家のために、織田信長の動向を探るためです。
安土の店で出会ったのが、夢遊と名乗っていた石川五右衛門です。五右衛門は「小野屋」の近くで「我落多屋」という名前通りのガラクタを売っていました。表の顔は「我落多屋」の主人で粋な遊び人、裏の顔は豊臣秀吉のために陰の働きをしていました。
天正10年(1582年)3月、信長は甲斐の武田氏を滅ぼして、関東に進出して行きました。信長の存在に脅威を感じた北条氏は、風摩党に信長の暗殺を命じます。風摩党の頭の風摩小太郎は安土に赴き、お澪と相談して作戦を練ります。そこに、五右衛門も加わり、明智光秀を巻き込んで、本能寺の変へと突き進んで行きます。
‥‥‥というのは、私が書いた小説「時は今‥‥石川五右衛門伝」での話です。
お澪が五代目の女将になったいきさつは「戦国草津温泉記・湯本三郎右衛門」で語られています。
実際に、お澪という女性がいたわけではありませんが、似たような女性はいたかもしれません。

時は今‥‥石川五右衛門伝

戦国草津温泉記・湯本三郎右衛門
ラベル:戦国の女性
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2006年11月20日

柴屋軒宗長

連歌師の宗長は駿河の国、島田の刀鍛冶、五条義助の次男に生まれ、武士として今川義忠に仕えます。
19歳の時、駿河に来た宗祇と出会い、連歌師に憧れます。宗祇に弟子にしてくれと頼みますが、断られました。
一時は連歌師の道を諦めて、武士として生きていましたが、25歳の時に、駿河にやって来た伊勢早雲と出会って、早雲の気ままな暮らしを見ているうちに、再び、連歌師への思いが募ってきます。
29歳の時、仕えていた今川義忠が突然の戦死をしてしまい、今川家で家督争いが始まります。今川家が二つに分かれて争いが始まりますが、早雲の活躍で、何とか、今川家は一つにまとまります。
後の事は早雲に任せればいいと、連歌師になる決心を固めて、近江の国にいる宗祇を訪ねます。宗祇は独りで古典の研究に没頭していて、弟子入りを頼むどころではありませんでした。仕方なく、早雲から話に聞いていた一休禅師を訪ねます。宗祇の研究が終わるまでの時間稼ぎに、座禅の修行でもしようかと軽い気持ちで、一休と会いましたが、禅というのはそんな生易しいものではありませんでした。
弟子にしてくれと何度も頼んで、ようやく、一休の弟子になって、厳しい修行に励みます。この時、一休から「宗観」という名を貰っています。
一年余り、一休のもとで修行を積んだ宗観は、文明10年(1478年)の春、念願がかなって宗祇の弟子になりました。1番弟子は夢庵肖柏で、宗観は2番弟子です。それからは3人で旅の日々が続きます。各地の大名に招待されては連歌会を催していました。
「宗長」と名乗りを変えたのは、37歳頃の事です。一休が名付けてくれた名前を変えたのですから、それ相当の理由があるはずですが、今の私にはわかりません。そのうち、調べようと思っています。
宗祇、夢庵と共に有名な「水無瀬三吟百韻連歌」を詠んだのが、41歳の時で、50歳の頃には駿河に帰って、今川氏親や今川家の武将たちに連歌の指導をしています。
54歳の夏、宗祇が越後で倒れたとの報を聞いて、慌てて越後に向かいます。宗祇の供をして越後からの帰途、宗祇は箱根で亡くなってしまいます。宗祇の葬儀を無事に済ませた宗長は「宗祇終焉記」を著します。
57歳の頃、駿府の近くの鞠子(丸子)の山中に柴屋軒を営んで隠棲しますが、世間が放ってはおきません。各地の大名たちから招待されては遠くまで赴き、数々の名作を残して、83歳で大往生を遂げます。

陰の流れ《愛洲移香斎》第四部・早雲登場

摩利支天の風〜若き日の北条幻庵


戦国を往く連歌師宗長  新編日本古典文学全集(61)
ラベル:連歌師
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2006年11月17日

一休宗純

一休和尚の父親は後小松天皇ではないかと伝えられていますが、はっきりとわかりません。母親は南朝の遺臣の娘のようです。6歳の時に出家して、安国寺に入ります。その時の名は周建です。
17歳の時に西金寺の謙翁宗為に師事して、名を宗純と改めます。21歳の時、師の謙翁が亡くなってしまい、思い詰めて自殺をしますが、未遂に終わっています。もし、この時、一休が亡くなっていたら、その後の歴史が変わっていたかもしれません。一休の影響を受けた有名人が大勢、いますので、彼らの生き方も変わってしまったに違いありません。
自殺未遂から立ち直った一休は堅田禅興庵の華叟宗曇に師事します。そして、25歳の時、師の宗曇から「一休」という号を授かります。27歳の時、カラスの鳴く声を聞いて悟りを開いたと伝えられています。
39歳の頃には堺に住み、45歳の頃には京都に売扇庵という庵を立てて住んでいます。63歳の時、薪村の妙勝寺を再興しています。
応仁の乱が始まった時には74歳になっていて、乱を避けて薪村の酬恩庵に移ります。78歳の頃、森という盲目の女性と再会して、以後、一緒に暮らします。
亡くなったのは文明13年(1481年)11月21日、88歳の大往生でした。一休の他にも、狂雲、夢閨、瞎驢、曇華とも号しています。

一休禅師の略歴

陰の流れ《愛洲移香斎》第四部・早雲登場


  大徳寺と一休  一休  狂雲一休  一休  一休が笑う
ラベル:僧侶
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2006年11月11日

草津温泉の領主、湯本善太夫

上野の国(群馬県)の草津温泉は鎌倉時代より湯本氏が代々領主として守っていました。室町時代、上野の国は関東管領の上杉氏の支配下にあったので、湯本氏も管領に従い、草津温泉も安全でした。
京都で応仁の乱が始まった頃、関東でも、鎌倉にいた公方様(足利氏)と公方様を補佐する管領の上杉氏が対立して、関東の武士たちを巻き込んで戦が始まります。
天文21年(1552年)、管領上杉氏の本拠地だった平井城が小田原の北条氏に攻め落とされるという事件が起こります。管領の上杉氏が越後に逃げて、上野の国の領主がいなくなると、南からは相模の北条氏康、西からは甲斐の武田信玄、北からは越後の上杉謙信が攻めて来て、上野の国の取りっこを始めます。
この時、草津の領主だった湯本善太夫は草津温泉を守るために、甲斐の武田信玄に仕える事になります。武田軍の先鋒となって吾妻郡に攻めて来たのは真田幸隆でした。善太夫は幸隆に従って、岩櫃城攻めや岳山城攻めに活躍して、その功績によって、長野原の領地を賜ります。善太夫はお礼として、白根山で採れた硫黄を武田信玄に贈っています。
強酸性の草津温泉の湯は殺菌作用が強く、傷の治療にはもってこいでした。戦で負傷した武田軍の兵士たちが大勢、治療のために湯治に来て、草津温泉は賑わいました。
元亀4年(1573年)、武田信玄が上洛の途中で亡くなってしまい、翌年には、信玄の後を追うように真田幸隆も亡くなってしまいます。信玄の跡を継いだ勝頼は父の遺志を継いで、天正3年(1575年)、大軍を率いて上洛を試みますが、長篠で織田と徳川の連合軍に敗れてしまいます。長篠の合戦では武田家の主だった重臣たちが大勢、戦死してしまいます。
湯本善太夫も真田幸隆の跡を継いだ信綱に従って出陣し、長篠で戦死してしまいました。正確な年齢はわかりませんが、40代の半ば頃だったと思います。


長篠の合戦の戦死者

戦国草津温泉記・湯本善太夫

戦国草津温泉記・湯本三郎右衛門


長篠の戦い
ラベル:武将
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2006年11月07日

明智光秀

明智光秀といえば、本能寺の変で織田信長を襲撃した事で有名ですが、なぜ、あんな事をしでかしたのか、未だに謎のままです。
光秀は美濃の斎藤道三に仕えますが、弘治2年(1556)4月、道三は倅の義竜に殺されてしまいます。5ヵ月後の9月、光秀のいた長山城も義竜に攻められて落城します。光秀は城から脱出して、放浪の旅へと出ます。当時、30歳前後だったと思われます。
その後、越前の朝倉義景に仕えますが、いつ頃の事なのか、はっきりとしません。信長に仕えたのは永禄10年(1567)頃です。翌年、信長が将軍義昭を奉じて上洛した時に従って、京都で公家衆たちとの交渉に当たっています。この頃、40歳前後です。
元亀2年(1571)、近江の坂本城主となり、5万石を与えられます。
天正3年(1575)、信長の命で惟任日向守と名を改めます。
天正6年(1578)、娘が細川忠興の嫁になります。
天正8年(1580)、丹波攻めの功績によって、丹波の国を与えられます。
天正10年(1582)5月14日、徳川家康の饗応役に任じられますが、17日には秀吉の助っ人として中国地方への出陣を命じられます。その日のうちに坂本城に戻り、26日に丹波の亀山城に向かいます。27日、愛宕山に登り、太郎坊に籠もって戦勝祈願をし、翌日、里村紹巴らと連歌会を催します。この連歌会で、光秀は「時は今‥‥‥」という発句を読みます。
そして、6月2日の早朝、本能寺にいる信長を襲撃します。襲撃に成功した光秀は夕方には坂本城に帰り、5日には安土城に入ります。9日に京都に入り、13日、山崎で中国地方から戻って来た秀吉軍と戦って敗れ、坂本に戻る途中、残党狩りに遭って殺されます。
17日、光秀の首は本能寺にさらされますが、腐敗がひどく、本人かどうか識別はできなかったそうです。
光秀が家康の饗応役を続けていれば、本能寺の変は起きなかったでしょう。この時、光秀が信長に対して殺意を持っていたのかどうかはわかりませんが、坂本城に戻った17日から6月1日までの間に、信長襲撃の決心を固めます。その間に何かがあった事は確かです。光秀独りだけの考えではなく、黒幕がいたに違いありません。その黒幕は誰だったのか、真実は闇の中です。

時は今‥‥石川五右衛門伝


「本能寺の変」本当の謎  信長殺しの犯人は秀吉だった!  明智光秀  明智光秀冤罪論  真説本能寺  謎とき本能寺の変  真説本能寺の変
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2006年11月03日

蜂須賀小六

織田信長の父親、信秀に土地を奪われた蜂須賀小六は、母親の実家である丹羽郡宮後郷の安井家を頼ります。
宮後郷は尾張と美濃の国境を流れる木曽川の近くで、川並衆と呼ばれるどちらの国にも属さない荒くれ野武士たちが跋扈していました。早いうちから、津島の商人を通して鉄砲を手に入れていた小六は、鉄砲の力で川並衆たちを一つにまとめて、自ら頭となります。
土地を取り戻すために、川並衆を引き連れて、美濃の斎藤道三方となって、尾張の織田信秀と戦いを繰り返しますが、意外な事に道三は信秀と同盟してしまいます。道三の娘が信長に嫁いでしまうのです。戦ができなくなり、小六は信秀の暗殺を企みますが、うまく行きません。やがて、信秀は病死してしまいます。後を継いだのは、うつけ者と評判の信長です。周り中を敵に囲まれている信長は放っておいても滅びるだろうと思い、しばらく、様子を見守っていました。
そんな頃、藤吉郎と名乗っていた若き日の豊臣秀吉が小六のもとに居候しています。
すぐに滅びるはずだった信長は予想外にも、少しづつ勢力を広げて行きました。
信秀が亡くなってから五年後、美濃の国で斎藤道三と倅の義竜が親子で合戦を始めました。小六のもとには両方から出陣の誘いが掛かりました。仲間たちと相談した結果、義竜方に付く事に決まりましたが、生駒家長の説得によって、道三方に付く事に変更します。
生駒家長は灰と油を扱う商人で、普段から川並衆もお世話になっていました。家長は信長びいきで、信長は必ず、尾張の国を統一すると言い張り、今のうちに恩を売っておいた方がいいと主張します。道三方になるという事は信長の味方をするという事になりますが、川並衆が生き延びるためには仕方がないと小六も同意します。
戦は道三の戦死によって、負け戦となってしまいましたが、その後の信長は、家長の言った通り、破竹の勢いで尾張の国を統一してしまいます。小六の仲間の前野長康は信長の家来となり、駿河から戻って来ていた藤吉郎も信長の家来になってしまいます。
小六も信長の実力は充分にわかりましたが、家来になるという気にはなれません。何かが気に食わないのです。そして、藤吉郎が、信長のために力を貸してくれと頼みに来た時、信長ではなく、藤吉郎の家来となります。藤吉郎のためだったら命を懸けられると悟って、藤吉郎のために活躍するのです。

藤吉郎伝―若き日の豊臣秀吉


小六と藤吉郎  樓岸夢一定  天下を獲った男 豊臣秀吉
ラベル:武将
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2006年10月29日

松阿弥

応仁の乱の頃、西軍の大将だった山名宗全の身辺に首斬り名人と恐れられた念流の達人がいました。
その名は松阿弥、時宗の僧侶です。東軍が放った刺客から宗全を守っていた松阿弥でしたが、三十歳の半ば頃、労咳(肺結核)に罹ってしまいます。
山名宗全が病死した頃にはかなり悪化していて、世話になった宗全のために、東軍の大将、細川勝元の暗殺を謀ります。勝元を殺し、自分も死ぬ覚悟でしたが、あっけない程、簡単に勝元は死に、自分は生き延びてしまいます。それから数日後、勝元は流行り病に罹って急死したと発表されました。
元々、赤松家の家臣だった松阿弥は最後に、赤松家のために働こうと、赤松家の重臣、浦上美作守を頼ります。そして、与えられた仕事は、赤松家に害をなす太郎坊という山伏の暗殺でした。
松阿弥は播磨の国へと行き、太郎坊と決闘をします。太郎坊は予想外に強く、剣に生きてきた自分が剣によって死ねるのは本望だと覚悟を決めますが、労咳の発作に襲われ、血を吐いて倒れます。いよいよ、死ぬ時が来たと思いましたが、敵の太郎坊に助けられて、またもや、生き延びてしまいます。
太郎坊の仲間たちの看病を受けて、立ち直った松阿弥は剣を捨てて、但馬の国へと行きます。それから、三年後、松阿弥は読み書きを教えていた子供たちに囲まれながら、安らかな死を迎えます。
歴史は常に権力者によって作られます。そして、時の権力者にとって都合の悪い事実は抹消されてしまいますので、松阿弥が実在したかどうかはさだかではありません。

松阿弥の略歴 念流

陰の流れ《愛洲移香斎》第二部・赤松政則


戦国剣豪100選  古武術と身体  日本の古武道  仕込み杖
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2006年10月26日

太田道灌

江戸城の創始者として有名な太田道灌(どうかん)は文武両道の名将でした。
数々の伝説も生まれて、特に『山吹の里』の話は有名です。
ある日、鷹狩りに出掛けた時、俄か雨が降って来て、農家に立ち寄った若き日の道灌は、蓑(みの)を貸してくれと頼みます。出て来たのは美しい娘でしたが何も言わずに、ただ一輪の山吹の花を捧げました。道灌は娘の態度に腹を立てて、雨に濡れながら城に帰りました。
和歌に詳しい家臣にその事を話すと、その娘が山吹の花を捧げたのは、『七重八重花は咲けども山吹のみのひとつだになきぞ悲しき』という古歌に託して、蓑の一つもない貧しさを訴えたのだろうと言います。道灌は自分の無知を恥じて、以後、歌道に精進したと言われています。
これは江戸時代に作られた伝説です。
実際の道灌は子供の頃から鎌倉の建長寺や足利学校で学問を学んだ秀才でした。24歳で太田家の家督を継いで、扇谷(おおぎがやつ)上杉家の執事となります。26歳の時に江戸城を築城して、その後は上杉方の中心となって関東中を走り回って、古河公方と戦い続けました。
頭を丸めて道灌と号したのは47歳の時です。幼い頃は鶴千代、元服して源六郎、22歳からは備中守を名乗っています。
55歳で暗殺されてしまいましたが、その生涯は戦に明け暮れていたと言ってもいいでしょう。しかし、戦の合間に、京から下向して来られた文人たちと交わって古典に親しみ、和歌や漢詩を楽しみ、連歌会、お茶会などを催していました。
道灌がいた江戸城の城下は、応仁の乱で焼け野原になる前の京の都のように栄えていたと言われています。

陰の流れ《愛洲移香斎》第四巻・早雲登場

銭泡記〜太田道灌暗殺の謎


名将言行録  江戸城  永井路子の日本史探訪  家康はなぜ江戸を選んだか
ラベル:武将
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2006年10月18日

春雨

茶の湯の名人、銭泡(善法)が腹をすかせて早雲庵にたどり着いた同じ頃、春雨という女芸人も誰もいなかった早雲庵に一夜の宿を求めました。
春雨は京都の四条河原の芸人の娘として生まれます。幼い頃から芸を仕込まれ、7歳の時に初舞台を踏みます。生まれもっての美貌もあって、16歳の頃には京都で一、二を争う踊り子だと持てはやされました。
19歳の時に応仁の乱が始まり、一座は京都を離れて旅回りに出ます。都から来た踊り子だと各地の大名たちに歓迎されて、いい気分でいましたが、京都の戦はいつになっても終わりません。旅から旅への毎日にも疲れ、春雨もいつしか二十の半ばを過ぎてしまいます。踊りには自信を持っていても、若さにはかないません。いつしか、主役の座を若い娘に奪われてしまいました。
駿府まで来た時、とうとう、一座のお頭と大喧嘩をして、飛び出してしまいます。必ず、誰かが迎えに来てくれるものと信じていたのに、誰も迎えには来ません。これからどうしようかと考えながらトボトボと歩いて、日が暮れてから小高い丘の上に立つ早雲庵にたどり着くのです。
早雲との出会いによって、春雨の人生は変わっていきます。僧侶である早雲に惹かれて、そのまま、早雲庵に腰を落ち着けてしまいます。ある日、早雲たちに踊りを披露して、喝采を浴び、とんとん拍子で、今川家のお嬢様の踊りの師範になってしまいます。
そして、早雲と一緒に今川家の家督争いに巻き込まれて、竜王丸(今川氏親)のために活躍します。

陰の流れ《愛洲移香斎》第三部・本願寺蓮如―17.早雲庵


近世歌舞伎舞踊作品(恋多き娘たち)
ラベル:戦国の女性
posted by 酔雲 at 12:16| Comment(0) | TrackBack(0) | 戦国時代>人物 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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