戦国武将は生き残るために子供を多く作りましたが、武田信玄も13人の子供がありました。男の子が7人、女の子が6人です。
1番上は長男の太郎義信です。「義」という字は将軍足利義輝から賜ったようです。妻は駿河の今川義元の娘です。義信は当然のごとく、信玄の跡継ぎとして育てられましたが、今川義元が桶狭間で織田信長に殺されてしまってから、父子の間に溝ができてしまいます。信玄は駿河の国に進攻して、今川家を倒そうと考えますが、義信は妻の実家である今川家を倒す事に反対します。義信は信玄が父親の信虎を追放したように、信玄を追放して実権を握ろうと企みますが発覚して、捕まって幽閉されてしまいます。義信は幽閉された東光寺で自刃して果てます。30歳でした。
2番目は次男の次郎信親、竜宝と号し、生まれつきの盲目で、信濃の名族、海野氏を継ぎました。「御聖道様」と呼ばれて敬われていました。武田家滅亡の時、自刃して果てます。
3番目は三男の三郎信之、10歳で早世しています。
4番目は長女の黄梅院、実名は不明です。小田原の北条氏政に嫁ぎますが、北条と武田の同盟が壊れた時、甲斐に送り返されて、悲嘆のあまりに亡くなってしまいます。27歳でした。
5番目は次女の見性院、従兄の穴山信君に嫁ぎます。武田家が滅亡した時、信君は裏切って徳川家康に従って生き延びますが、その三ヵ月後に本能寺の変が起こって、家康と共に上洛していた信君は甲斐に戻る途中、土民に殺されてしまいます。見性院は家康に保護されて、70歳余りの天寿を全うしています。
6番目は四男の
四郎勝頼、信濃の名族、諏訪氏を継ぎますが、長男の義信が亡くなった後、信玄の後継者となります。
7番目は三女の真竜院、真里姫と呼ばれています。信濃の名族、木曽義昌に嫁ぎます。天正10年、義昌は武田氏を裏切って、織田信長に従います。本領を守るためとはいえ、夫の裏切りを許せなかった真里姫は山中に身を隠します。その後、山を下りて密かに暮らし、天寿を全うしています。
8番目は四女の桃由童女、六歳で夭逝。
9番目は五男の
五郎盛信、信濃の名族、仁科家を継ぎます。武田家の宿敵、上杉謙信が存命中は、謙信に対する北の守りを固めていましたが、謙信亡き後、上杉景勝と同盟したため、新たなる敵、織田信長に備えて、高遠城を守ります。天正10年、織田の大軍に対して、ひるむ事なく、壮絶な討ち死にをしています。享年26歳でした。
10番目は六男の信貞、駿河の名族、葛山氏を継ぎます。武田家が滅んだ天正10年3月、討ち死にしています。
11番目は
信松院、実名は松、出家して信松尼と号し、武田家滅亡後、武蔵の国、八王子でひっそりと暮らします。
12番目は
大儀院、実名は菊、武田と上杉が同盟した時、謙信の後を継いだ景勝に嫁ぎます。
13番目の末っ子は七男の信晴、詳しい事はわかりませんが、武田家滅亡後、上杉家を頼って、景勝に仕えたようです。