2009年02月26日

一刀流 伊藤一刀斎

白樫 一刀流木刀大刀・小刀セット



伊藤一刀斎は天文19年(1550年)に伊豆の大島に生まれたと伝えられますが、確証はありません。
大島から泳いで伊豆に渡った一刀斎は三島大社の床下に住みついて、富田(とだ)一放という武芸者を倒し、越前に赴いて富田(とだ)流の富田勢源の弟子、鐘捲自斎の弟子になって印可を得ます。さらに鎌倉の鶴岡八幡宮に籠もり、極意を悟って一刀流を開眼します。
廻国修行に出た一刀斎は小野善鬼と御子上典膳という若者と出会い、二人を弟子にして旅を続けます。後に善鬼と典膳は試合をして、典膳が勝ち、一刀流を伝授されます。典膳は一刀斎の推挙で将軍徳川秀忠の剣術指南役となり、晩年には小野次郎右衛門と改名します。
一刀流は小野派一刀流、忠也派一刀流、中西派一刀流、水戸派一刀流、溝口派一刀などに枝分かれして相伝され、幕末には千葉周作の北辰一刀流、山岡鉄舟の無刀流が生まれます。


一刀流極意  剣豪一刀斎  天下一の剣  小野派一刀流剣術  溝口派一刀流剣術  北辰一刀流剣術  一刀正伝無刀流剣術
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2009年02月19日

神夢想林崎流 林崎甚助

居合刀 天正拵



林崎甚助は抜刀術(居合)の始祖で、田宮流を開いた田宮平兵衛、伯耆流を開いた片山伯耆守、無楽流を開いた長野無楽斎、関口流を開いた関口柔心、一宮流を開いた高松勘兵衛は皆、甚助の弟子たちです。
甚助は天文年間(1532年〜1555年)の半ば頃、出羽の国の林崎村(山形県村山市)に生まれたと伝えられています。
幼少期に父親を殺され、父親の仇を討つために剣術の修行に励みます。元服後、武術の本場である鹿島に行って神道流を学び、さらに、鎌倉でも修行を積みます。しかし、納得が得られず、帰郷して地元の林崎明神に参籠し、工夫を重ねて抜刀術の奥義をきわめます。
仇を求めて旅に出た甚助は京都で仇と巡り会い、見事に討ち果たしますが、その後も諸国修行の旅を続けながら立派な弟子たちを育てます。
元和3年(1617年)7月、川越にいた高松勘兵衛のもとを去って奥州へと旅立ち、以後、消息を絶ちました。


林崎夢想流居合術  田宮流居合術  伯耆流居合  関口流抜刀術  新剣豪伝  人物日本剣豪伝(2)  抜刀秘伝抄

初級者向 標準型居合刀  居合刀 本時代拵  居合刀 正國同田貫
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2008年07月18日

覚禅坊胤栄

赤樫 十字鎌槍


覚禅坊胤栄は奈良興福寺の子院である宝蔵院の院主です。
当時の興福寺は武力を持った大寺院で、多数の僧兵を抱えていました。当然、武術の修行も盛んでした。
胤栄は幼い頃より武術を好み、神道流や念流など様々な流派を学んで、鎌槍(十文字槍)を発明して宝蔵院流槍術の流祖となります。
柳生宗厳(石舟斎)と親しく、永禄6年(1563年)、上泉伊勢守が大和の国に来た時、共に迎えて指導を受けています。
数多くの門弟を育てますが、晩年は武術を捨てて僧侶として生き、87歳の大往生を遂げました。


宝蔵院流高田派槍術【日本の古武道シリーズ】  図説剣技・剣術  槍術新装版  戦国剣豪100選  概説・武芸者  鑓の才蔵
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2008年07月08日

小笠原源信斎

白樫 直心影流木刀


小笠原源信斎は遠江の国、高天神城主だった小笠原氏の一族で、奥山休賀斎の弟子になって神陰流(神影流)を学びます。
今川家の家臣でしたが、永禄12年(1569年)に今川家が没落した後、徳川家康に従って高天神城を守ります。
天正2年(1574年)、武田勝頼に攻められて高天神城が落城した後は武田家に従います。
天正9年、高天神城は徳川家康に攻められ、再び落城します。源信斎は生き延びて北条家に仕えます。
天正18年、豊臣秀吉に攻められて北条氏は滅亡してしまい、源信斎は明の国(中国)へと渡ります。明の国で兵法を学び、「八寸の延矩(のべがね)」と呼ばれる妙術を会得します。この「八寸の延矩」という術が一体どんなものなのか、未だに不明です。
日本に帰った源信斎は神陰流を「真新陰流」と改めて、江戸に道場を開いて門人を育てます。門人は3000人もいたと言われ、神谷伝心斎が跡を継ぎます。高弟の1人に無住心剣流を開いた針ヶ谷夕雲もいました。


無住心剣流 針ヶ谷夕雲


鹿島神傳直心影流  鹿島神傳直心影流 第1巻  直心影流剣術【日本の古武道シリーズ】  直心影流極意伝開  日本剣豪列伝  
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2008年06月14日

信長の夢

天正十年(1582年)の5月、絢爛豪華な安土城内で織田信長は悪夢にうなされます。
毎夜、同じ夢を見て、汗びっしょりになって真夜中に目を覚まします。
自分が何者かに殺され、子供たちも妻や側室たちも皆、無残に殺されて、天下を奪われる夢です。夢の中では、自分を殺す者が何者かわかって、くそ、おぬしなどにやられるか、と怒鳴りますが、目が覚めると、そいつが誰だったのか、どうしても思い出せません。
すでに、恐れていた武田信玄も上杉謙信も亡くなり、長年、苦しめられた本願寺の一揆も壊滅しました。3月には甲斐に出陣して武田家を滅ぼし、凱旋したばかりです。今の信長には敵対する者などいないはずでした。
悪夢にうなされて眠れない夜が続き、信長は悪夢から解放されるために、とんでもない事を思いつき、それを実行に移します。そして、本能寺の変へ‥‥‥
短編歴史小説「信長の夢」を御覧下さい。

信長の夢

  


本能寺の変  真説本能寺  「本能寺の変」はなぜ起こったか  謎とき本能寺の変  「本能寺の変」本当の謎  真説本能寺の変  織田信長総合事典  
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2008年06月08日

冨樫政親

日本の名族(七)北陸編


冨樫政親は康正元年(1455年)に京都の富樫屋敷で生まれます。
父親の富樫成春は北加賀守護でしたが、長禄2年(1458年)、赤松政則に北加賀守護職を奪われ、寛正3年(1462年)、亡命中に亡くなってしまいます。
寛正5年、南加賀の守護職を務めていた大叔父の富樫泰高が隠居して、政親が家督を譲られます。10歳だった政親が南加賀の守護になったわけです。北加賀守護の赤松政則も同い年で10歳でした。
応仁元年(1467年)、応仁の乱が始まると富樫政親も赤松政則も共に東軍となって戦います。やがて、赤松政則は旧領だった播磨を奪回して、加賀から出て行きます。政親は加賀一国の守護職を手に入れますが、赤松家のいなくなった北加賀に、政親に対立する富樫家の家臣たちが弟の幸千代を擁立して、西軍となって侵入して来ます。
政親と幸千代の家督争いが始まり、そこに加賀と越前の国境近くの吉崎に本拠地を置く本願寺勢力が加わって、加賀の国は戦乱の世となって行きます。
文明6年(1474年)7月、政親は本願寺の力を借りて、幸千代を倒し、加賀一国を手に入れます。政親と本願寺は協力して勝利を得たのですが、本願寺の勢力を恐れた政親は本願寺を弾圧し始めます。
文明7年8月、争いを避けるために本願寺の法主、蓮如は吉崎を去ります。蓮如がいなくなって一時は平穏となりますが、政親の本願寺に対する弾圧は続きます。
長享2年(1488年)5月、本願寺門徒は蜂起して政親の高尾城を包囲し、6月9日、高尾城は落城して、政親は自害して果てます。
以後、加賀の国は「百姓の持ちたる国」と言われ、本願寺の支配下になります。


陰の流れ第三部・本願寺蓮如


戦国時代の百姓思想  戦争の日本史(14)  加賀の文学創造  
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2008年05月31日

朝倉孝景

越前朝倉一族新装版


朝倉孝景は越前守護の斯波氏の重臣の一人でした。
斯波氏が義敏と義廉で家督争いを始めると義廉方に付きます。
応仁の乱が始まると義敏は東軍となり、義廉は西軍となります。孝景は西軍の武将として京都で活躍します。ところが、文明3年(1471年)、孝景は突然、東軍に寝返ります。
将軍足利義政から密かに、東軍に寝返れば越前の守護職に任命するとの声が掛かったのです。騒ぎ出した国人たちを鎮めるとの名目で越前に帰った孝景は寝返るための下準備を充分にしてから寝返ります。
孝景は反対勢力を倒し、実力をもって越前の国をまとめて行きます。孝景は越前統一の寸前に亡くなってしまいますが、跡を継いだ嫡男の氏景が統一を果たします。
戦国大名朝倉氏の基盤を築いたのが孝景です。なお、孝景(1428-81)の曾孫にも同名の孝景(1512-48)がいます。区別するために、法名から英林孝景と呼ばれる事もあります。
後に、朝倉氏は織田信長に滅ぼされますが、織田氏も元々は斯波氏の重臣の一人でした。


陰の流れ第三部・本願寺蓮如


越前朝倉氏の研究  我、変革を是とす  人事の日本史  男の禅  越前幸若舞  
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2008年05月24日

下間蓮崇

蓮如名号


下間蓮崇は蓮如上人が吉崎にいた頃の奏者です。奏者というのは取り次ぎ役で、蓮如の側近くに仕えていました。
越前の国に生まれた蓮崇は幼い頃に和田本覚寺の小僧になって心源と名乗ります。
15歳の時、本覚寺に来た如乗に連れられて加賀二俣の本泉寺に移ります。
25歳の時、本願寺の執事職を務める下間家の娘を嫁に貰って下間姓を名乗ります。
28歳の時、湯湧谷の道場を任され、34歳の時、本泉寺に来た蓮如の供をして東国の旅に出ます。当時、蓮如の拠点だった近江の大津顕証寺に行き、蓮如から蓮崇という名を与えられて側近くに仕える事となります。
そして、1471年5月、蓮如と共に加賀の吉崎に進出します。吉崎御坊を建てる時、蓮崇は中心になって活躍します。
蓮如上人が来た吉崎は門徒たちが大勢集まって栄えますが、応仁の乱に巻き込まれて、門徒たちは一揆を始めます。
1475年8月、蓮崇は門徒たちを扇動して一揆を起こした罪によって破門になってしまいます。蓮如は一揆を治めるために吉崎を立ち退きます。
それから24年後の1499年3月、蓮如の死の5日前に、蓮崇は蓮如から許されますが、蓮如の死の三日後、毒を飲んで自害します。

蓮崇は加賀の一向一揆を起こした張本人として悪者になっていますが、本当にそうだったのでしょうか?
当時の状況を考えると蓮崇は本願寺のために自ら悪者となって、身を引いたのではないかと思われます。
私は「陰の流れ第三部・本願寺蓮如」で、蓮崇が本願寺のために、そして、蓮如のために、自ら悪者になって身を引いた経緯を描いてみました。是非、お読み下さい。


下間蓮崇の略歴


一向一揆論  寺内町の研究(第1巻)  戦国期本願寺教団史の研究  蓮如名号の研究  蓮如上人・空善聞書  
ラベル:本願寺 僧侶
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2008年01月01日

上泉伊勢守 生誕500年

新陰流 三学円の太刀 一刀両段


新年おめでとうございます。
今年は剣聖上泉伊勢守の生誕500年にあたります。
上野の国、上泉城(前橋市)に生まれた伊勢守は幼い頃より武術を習い、元服してから武術の本場である鹿島に修業に出ます。鹿島神道流を身に付けて故郷に帰り、赤城山中で独り修行を続けている時、愛洲移香斎と出会い、陰流を習います。
伊勢守の才能を見抜いた移香斎は伊勢守に陰流のすべてを授けます。伊勢守は陰流をさらに工夫して、「新陰流」を編み出します。
伊勢守は父親の跡を継いで上泉城の城主になりますが、時は戦国、上野の国は北から上杉謙信、南から北条氏康、西からは武田信玄が攻めて来て、上泉城は落城してしまいます。伊勢守は武将である身分を捨てて一剣客として、「新陰流」を広めるために旅に出ます。
京都では天皇や将軍に新陰流を披露して、道場を開く事もでき、大和の国では柳生宗厳(石舟斎)と出会い、後継者としてすべてを伝授します。宗厳の子、宗矩(但馬守)は徳川家の剣術指南役となり、新陰流は現在まで延々と伝わって行くわけです。


上泉伊勢守の略歴


戦国草津温泉記・湯本善太夫

戦国草津温泉記・湯本三郎右衛門


  
ラベル:武芸者
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2007年10月14日

火乱坊

近江湖北の山岳信仰


近江の国、浅井郷に生まれた火乱坊は伊吹山で修行を積んで、山伏になります。薙刀の修行にも励んで達人となった火乱坊は飯道山に呼ばれ、武術師範として若い者たちを鍛えます。
当時、飯道山には、棒術の達人の高林坊、剣術の達人の風眼坊、槍術の達人の栄意坊がいて、火乱坊を入れて、「飯道山の四天王」と呼ばれていました。
23歳の時に、風眼坊と一緒に飯道山を去って、関東へと旅に出ます。熊野へ帰るという風眼坊と別れ、さらに奥州へと旅を続け、翌年、近江に帰りますが、堅田で運命の出逢いをします。娘の名はつたといい、父親は本願寺の有力門徒でした。
火乱坊は迷う事なく、婿入りして本願寺の門徒となり、蓮如上人から慶覚坊という名前を与えられます。以後、本願寺門徒の中心となって活躍します。

火乱坊(慶覚坊)の略歴

陰の流れ《愛洲移香斎》第三部・本願寺蓮如


修験道史料集(2(西日本編))OD版  一向一揆論  図説蓮如  蓮如上人・空善聞書  戦国期本願寺教団史の研究  
ラベル:本願寺 修験
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2007年09月14日

赤松政則

嘉吉元年(1441年)6月、京都の赤松邸にて、六代将軍足利義教が殺されるという前代未聞の事件が起こります。事件の後、赤松一族は家臣を引き連れて、領国の播磨に引き上げますが、幕府軍に攻められ、滅亡してしまいます。
後に、嘉吉の変と呼ばれる事件です。
それから17年後、遺臣たちの活躍によって赤松家の再興が許され、当主となったのが、当時4歳だった赤松政則です。政則は嘉吉の変の張本人だった満祐の弟、義雅の孫に当たります。
その頃、幕府内で勢力を持って対立していたのが、細川勝元と山名宗全です。赤松氏の旧領播磨を領していたのは山名宗全です。細川勝元は赤松氏を再興して、播磨に送り込んで山名氏の勢力を弱めてやろうと企んだわけです。
応仁元年(1467年)1月、応仁の乱が始まると、赤松政則は細川方の東軍となり、領国を取り戻すため、播磨に向かって進軍します。播磨に隠れていた遺臣たちも合流して、5月には山名軍を追い払って、播磨の国を取り戻します。さらに9月には旧領だった備前の国、美作の国も取り戻します。
そして、応仁2年の11月、14歳の政則は幕府の要職である侍所所司に任じられ、完全に復活を遂げます。

陰の流れ《愛洲移香斎》第二部 赤松政則


赤松一族の盛衰  赤松物語・嘉吉記
ラベル:武将
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2007年08月23日

和泉守兼定

和泉守兼定


戦国時代、二代目孫六兼元と双璧を成すのが和泉守兼定です。
初代兼定の倅で、二代目孫六とは兄弟弟子の間柄です。
孫六の刀と同じように、実践向きの頑丈で鋭い斬れ味を持ち、しかも、風格のある優れた出来ばえが、名立たる戦国武将に好まれました。武田信玄、細川幽斎、森長可などが愛用していたようです。
新撰組の土方歳三も和泉守兼定を所持していましたが、二代目ではなく、幕末に活躍した会津藩の刀匠、11代目の兼定のようです。
ラベル:刀匠
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2007年08月16日

孫六兼元

孫六兼元


孫六兼元は「関の孫六」の名で有名な美濃の国、関の刀工です。永正年間(1504〜1521年)に活躍した二代目が最も有名で、数々の名刀を残しています。
二代目の刀は戦国の気風に合った実践向きの刀で、頑丈で折れる事なく、斬れ味が鋭く、武田信玄、豊臣秀吉など名のある戦国武将に好まれました。
「三本杉」と呼ばれる独特な刃文が特徴です。
ラベル:刀匠
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2007年07月12日

戦国大名の年齢差

関東を舞台に合戦に明け暮れた北条氏康、武田信玄、上杉謙信の年齢を比べてみますと、氏康は1515年生まれ、信玄は1521年生まれ、謙信は1530年生まれです。
最初の川中島合戦があった天文22年(1553年)、謙信は24歳、信玄は33歳でした。信玄から見れば、謙信は小憎らしい若造といった感じだったでしょう。
永禄3年(1560年)、謙信は始めて関東に攻めて行きますが、その時、31歳で、46歳だった氏康の本拠地、小田原城を包囲しています。
山本勘助が戦死したのは永禄4年の四回目の川中島合戦で、謙信32歳、信玄41歳でした。
氏康は57歳、信玄は53歳、謙信は49歳で亡くなっています。それぞれの二代目を比べてみますと、北条氏政は1538年生まれ、武田勝頼は1546年生まれ、上杉景勝は1555年生まれで、氏政は勝頼の義兄、勝頼は景勝の義兄という間柄でした。氏政は53歳で切腹、勝頼は37歳で自害、景勝は69歳まで生きました。
桶狭間の合戦の時の織田信長は27歳で、今川義元は42歳でした。
信長、秀吉、家康の年齢差は、信長が1534年生まれ、秀吉は1536年生まれ、家康は1542年生まれで、信長と秀吉は2歳違い、秀吉と家康は6歳違いでした。信長が49歳で本能寺で殺された時、秀吉は47歳、家康は41歳で、信長を殺した明智光秀は53〜55歳でした。
信長と光秀が亡くなった後、秀吉は63歳まで生き、家康は75歳まで生きました。

戦国草津温泉記・湯本善太夫

戦国草津温泉記・湯本三郎右衛門

時は今‥‥石川五右衛門伝
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2007年06月21日

武田信玄の子供たち

武田信玄鎧写し


戦国武将は生き残るために子供を多く作りましたが、武田信玄も13人の子供がありました。男の子が7人、女の子が6人です。
1番上は長男の太郎義信です。「義」という字は将軍足利義輝から賜ったようです。妻は駿河の今川義元の娘です。義信は当然のごとく、信玄の跡継ぎとして育てられましたが、今川義元が桶狭間で織田信長に殺されてしまってから、父子の間に溝ができてしまいます。信玄は駿河の国に進攻して、今川家を倒そうと考えますが、義信は妻の実家である今川家を倒す事に反対します。義信は信玄が父親の信虎を追放したように、信玄を追放して実権を握ろうと企みますが発覚して、捕まって幽閉されてしまいます。義信は幽閉された東光寺で自刃して果てます。30歳でした。
2番目は次男の次郎信親、竜宝と号し、生まれつきの盲目で、信濃の名族、海野氏を継ぎました。「御聖道様」と呼ばれて敬われていました。武田家滅亡の時、自刃して果てます。
3番目は三男の三郎信之、10歳で早世しています。
4番目は長女の黄梅院、実名は不明です。小田原の北条氏政に嫁ぎますが、北条と武田の同盟が壊れた時、甲斐に送り返されて、悲嘆のあまりに亡くなってしまいます。27歳でした。
5番目は次女の見性院、従兄の穴山信君に嫁ぎます。武田家が滅亡した時、信君は裏切って徳川家康に従って生き延びますが、その三ヵ月後に本能寺の変が起こって、家康と共に上洛していた信君は甲斐に戻る途中、土民に殺されてしまいます。見性院は家康に保護されて、70歳余りの天寿を全うしています。
6番目は四男の四郎勝頼、信濃の名族、諏訪氏を継ぎますが、長男の義信が亡くなった後、信玄の後継者となります。
7番目は三女の真竜院、真里姫と呼ばれています。信濃の名族、木曽義昌に嫁ぎます。天正10年、義昌は武田氏を裏切って、織田信長に従います。本領を守るためとはいえ、夫の裏切りを許せなかった真里姫は山中に身を隠します。その後、山を下りて密かに暮らし、天寿を全うしています。
8番目は四女の桃由童女、六歳で夭逝。
9番目は五男の五郎盛信、信濃の名族、仁科家を継ぎます。武田家の宿敵、上杉謙信が存命中は、謙信に対する北の守りを固めていましたが、謙信亡き後、上杉景勝と同盟したため、新たなる敵、織田信長に備えて、高遠城を守ります。天正10年、織田の大軍に対して、ひるむ事なく、壮絶な討ち死にをしています。享年26歳でした。
10番目は六男の信貞、駿河の名族、葛山氏を継ぎます。武田家が滅んだ天正10年3月、討ち死にしています。
11番目は信松院、実名は松、出家して信松尼と号し、武田家滅亡後、武蔵の国、八王子でひっそりと暮らします。
12番目は大儀院、実名は菊、武田と上杉が同盟した時、謙信の後を継いだ景勝に嫁ぎます。
13番目の末っ子は七男の信晴、詳しい事はわかりませんが、武田家滅亡後、上杉家を頼って、景勝に仕えたようです。

戦国草津温泉記・湯本三郎右衛門
ラベル:武将
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2007年06月16日

東光坊

東光坊は草津温泉の領主、湯本善太夫の師匠だった円覚坊の倅です。父と同じように山伏になるため、10歳になると飯縄山に入って修行を始めます。
19歳の時、先達山伏になり、21歳の時には武術師範代になって、若い者たちを鍛えます。
26歳の時、父親に呼ばれて岩櫃城に行き、湯本善太夫と会います。この時、円覚坊は真田一徳斎に仕える事になっていたので、自分の代わりに倅の東光坊を紹介したのです。
飯縄山で若い者たちに武術を教えるのにも飽きてきていた東光坊は気分転換のつもりで、軽い気持ちで引き受けます。
善太夫は自分の跡継ぎに決めた三郎右衛門を東光坊に託します。自分が円覚坊に連れられて旅をして世間を知ったように、三郎右衛門にも旅をさせて世間の広さを体験させようと思ったのです。
東光坊は15歳の三郎右衛門を連れて各地へと旅へ出ます。山の中の草津周辺しか知らない三郎右衛門は何を見ても驚き、少々頼りない所もありますが、だんだんと成長して行きます。東光坊も三郎右衛門の成長を見て行くうちに、こいつのために一生を懸けてみるのもいいかもしれないと思うようになります。
三郎右衛門は19歳になると修行の旅を終えて長野原城に入って、お屋形様になるために戦にも出陣します。東光坊は善太夫のために配下の山伏たちを使って諜報活動をします。その頃、父の円覚坊は真田家のために忍び集団を作っていました。その事を知ると善太夫は東光坊に湯本家のために忍び集団を作るように頼みます。
東光坊は真田に行って父親と相談して、見込みのありそうな若い者を集め、白根山中で鍛えて、忍び集団を作ります。まだ、忍び集団が完成しない天正3年(1575年)5月、長篠の合戦で、善太夫も円覚坊も戦死してしまいます。
東光坊はお屋形様になった三郎右衛門を助けて、湯本家のために働きます。

戦国草津温泉記・湯本善太夫

戦国草津温泉記・湯本三郎右衛門
ラベル:修験
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2007年06月10日

仁科五郎盛信

仁科五郎は武田信玄の五男です。母親は油川殿で、お松(信松院)、お菊(甲斐御前)の同腹の兄です。
11歳の時に信濃の名族、仁科氏の名跡を継いで、仁科盛信を名乗り、仁科郷の森城主になります。
五郎が17歳の時、父親の信玄が亡くなり、すぐ上の兄、四郎勝頼が跡を継ぎます。
五郎は常に宿敵である越後の上杉謙信に対して守りを固めていましたが、天正6年(1578年)、謙信が亡くなり、その後、景虎と景勝の家督争いが始まって、勝頼は景勝と同盟を結びます。景勝が景虎に勝ったため、越後は味方となり、五郎は新たなる敵、織田信長に備えるため、天正7年に高遠城へと移ります。
天正9年、勝頼は織田の大軍に備えて、韮崎に新城を築きますが、城が完成する前に、織田軍の攻撃が始まってしまいます。身内の裏切りから始まって、次々と家臣たちが裏切り、甲斐の名門、武田家は滅亡してしまいます。
裏切り者が続出する中、五郎だけは裏切る事なく、最後まで武田家の名誉のために戦って、見事な討ち死にを遂げます。
五郎の風貌は父親の信玄に一番似ていたそうです。五郎の家臣たちは皆、五郎を慕って共に討ち死にしています。26歳の短い人生でしたが、武将としての五郎の生きざまは味方は勿論の事、敵からも賞賛されています。

戦国草津温泉記・湯本三郎右衛門
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2007年06月04日

北条綱成

北条綱成は小田原北条氏二代氏綱の娘婿です。
父親は今川家の武将福島(くしま)正成で、父親が戦死した後、北条氏綱を頼って小田原に来ます。なぜ、今川家を離れて、北条家を頼ったのかはわかりません。もしかしたら、福島家内で家督争いが起こり、身の危険を感じた正成の家臣が、当時7歳だった綱成を連れて小田原に行ったのかもしれません。
綱成は氏綱の嫡男、氏康と同い年だったので、丁度いい遊び相手となり、共に育てられます。元服した時、氏綱の「綱」の字を与えられ、さらに、氏康の妹を妻に迎えて「北条」姓を名乗ります。
天文11年(1542年)、玉縄城主だった為昌(氏康の弟)が亡くなり、綱成が城主になります。
天文15年の河越の合戦の時は、河越城主として大軍に囲まれた河越城を守り通し、攻め寄せて来た氏康と呼応して、敵を蹴散らし、その名を関東中に広めます。
綱成の旗差物は黄色地に「八幡」と書かれ、「地黄八幡」と呼ばれて敵を恐れさせました。
綱成と氏康は本当の兄弟以上に信頼し合い、北条家の領土拡大に力を尽くします。
元亀2年(1571年)、氏康が亡くなった後は頭を丸めて、道感と号し、幻庵と共に長老として北条家を支えます。
綱成の死の三年後、北条家は滅び去ります。

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2007年05月29日

お菊(甲斐御前)

お菊は武田信玄の娘で、お松(信松尼)の妹です。姉のお松ほどではないにしろ、母親の油川殿に似て美人だったようです。
父の信玄が本願寺と同盟を結んだ時、お菊と伊勢長島の顕証寺顕忍との婚約が決まりました。お菊が8歳、顕忍は10歳でした。
ところが4年後、婚約者の顕忍は織田信長に攻められて戦死してしまいます。その前年に父親の信玄も亡くなり、お菊は、母親と実兄の仁科五郎のいる信濃の国の仁科郷に移ります。
天正6年(1578年)3月、越後の上杉謙信が亡くなり、養子の三郎景虎と喜平次景勝の争いが始まります。景虎は北条家の息子で、武田勝頼の嫁も北条家の娘です。当然、勝頼は景虎を応援するために越後に出陣します。越後府中の近くまで行った時、景勝から味方になってくれと誘いが掛かります。
勝頼は重臣たちと会議を重ねて、景勝方に寝返る事に決めます。
もし、景虎が上杉家の跡継ぎになってしまうと、越後、上野、武蔵、相模が北条領となって、武田領の信濃と甲斐は囲まれてしまいます。今は同盟を結んでいるとはいえ、先の事はわかりません。北条が織田と手を結べば、挟まれた武田は滅ぼされてしまうかもしれない。そんな事になりよりは景勝を助けて恩を売っておいた方がいいと考えたのです。さらに、景勝が提示した黄金一万両というのも魅力でした。
景勝と同盟を結んだ勝頼は、景勝に武田家の娘を嫁として送る約束をします。選ばれたのは、17歳になっていたお菊でした。あまりにも突然の話で驚きましたが、お菊は姉のように出家するような度胸はありません。武田家の娘に生まれた定めだと諦めて、遠い越後へと嫁いで行きます。
景虎に勝って上杉家の跡を継いだ景勝はお菊を歓迎し、甲斐御前と呼んで大切にします。

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2007年05月24日

真田源太左衛門尉信綱

源太左衛門尉信綱は真田一徳斎幸隆の長男です。
天文6年(1537年)、信濃の国真田郷に生まれます。
信綱が5歳の時、真田一族は甲斐の武田信虎らに攻められて故郷を追われ、上野の国の箕輪城主、長野業政を頼ります。
天文12年、幸隆は、父親の信虎を追放して武田家の当主となった晴信(後の信玄)に仕えます。この時、7歳だった信綱は家族と共に甲府に移ります。
2年後、幸隆は真田郷を取り戻し、その後、戦でも活躍します。父親の活躍によって、信綱は元服した時、晴信から「信」の字を賜って、信綱を名乗ります。
甲府で成長した信綱は晴信の側近衆となり、200騎を率いる大将となって、川中島の合戦、上野進攻、駿河進攻、三増峠の合戦、三方ヶ原の合戦などで活躍します。
天正2年(1574年)5月、父の幸隆が亡くなると、38歳で跡を継ぎます。それ以前に幸隆が隠居して、跡を継いでいたのかもしれませんが、詳しい事はわかりません。
真田家の当主となった信綱でしたが、翌年の5月21日、長篠の合戦で弟の兵部丞昌輝と共に無念の戦死を遂げてしまいます。

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2007年05月19日

北条幻庵の娘、琴音

琴音は小田原北条家の長老といわれた幻庵の末っ子です。幻庵が上野の国(群馬県)の平井城を守っていた時に生まれました。幻庵はすでに60歳を過ぎていました。
6歳の時、越後の長尾景虎(後の上杉謙信)が攻めて来て、上野の国を去り、相模の国の久野にあった幻庵の屋敷に移ります。
永禄12年(1569年)の暮れ、幻庵の跡を継いでいた新三郎が武田信玄に攻められて戦死してしまいます。跡継ぎを失った幻庵は、甥の氏康と相談して、出家していた氏康の子を婿養子に迎えて、三郎を名乗らせます。15歳の琴音は三郎の妻となって小机城に移ります。三郎は容姿端麗の美男子で、琴音も幸せでしたが、その幸せは長く続きませんでした。
翌年の3月、上杉謙信と同盟を結んだ北条氏康は人質として、三郎を送る事に決めてしまいます。三郎の下に四郎という息子もいましたが、四郎は幼い頃の疱瘡であばた顔でした。北条家の代表として越後に行くには、やはり見栄えがいい方がいいと、三郎に決まってしまったのです。
琴音は三郎と無理やりに別れさせられます。琴音は悲しみに暮れますが、どうする事もできません。北条家に生まれた娘として、北条家のために諦めるしかありませんでした。そして、気持ちが落ち着くと、四郎を婿に迎えます。幻庵のために跡継ぎを産まなければならなかったのです。
元亀2年(1571年)10月、氏康が亡くなると、北条家は上杉家と断って、再び、武田家と同盟を結びます。人質として越後に行った三郎は、謙信から小田原に帰れと言われますが、帰りませんでした。すでに、帰っても自分のいる場所はないと悟って、越後に残ります。
武田家との同盟で人質に選ばれたのは、四郎でした。琴音は再び、夫と別れなければなりませんでした。しかし、琴音はもう悲しみません。幻庵の娘として、北条家の娘として、小机城を立派に守り通します。

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琴音の略歴
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2007年05月13日

北条氏政

小田原北条氏四代目の当主が氏政です。父親は北条氏康、母親は今川氏親の娘です。
氏政は次男でしたが、兄の新九郎が二十歳前後で亡くなってしまったために跡継ぎになりました。
17歳の時、北条家と武田家が同盟を結び、氏政は武田信玄の長女(黄梅院)を嫁に迎えます。当時、黄梅院はまだ12歳でした。
永禄2年(1559年)の暮れ、22歳の氏政は45歳の氏康から家督を譲られます。北条家のお屋形様になったわけですが、依然、氏康が「御本城様」と呼ばれて支配権を握っていました。
永禄11年(1568年)12月、武田信玄は同盟していた今川氏の駿河の国に進攻して、駿府を占領してしまいます。この時点で、北条、武田、今川の三国同盟は崩れます。翌年の正月、氏康の命令で、氏政の妻、黄梅院は甲府に送り返されます。14年間、連れ添った氏政と黄梅院は仲睦まじかったそうです。夫と子供と別れさせられ甲府に帰った黄梅院は悲しみに暮れて、6月に亡くなってしまいました。
武田との同盟が壊れた後、氏康は上杉謙信と同盟を結びます。その時、人質として送られた氏政の弟、三郎は謙信に気に入られて、景虎という名を与えられ養子に迎えられます。
元亀2年(1571年)10月、氏康は57歳で亡くなります。亡くなる時、頼りにならない上杉との同盟をやめて、武田と同盟するようにと遺言します。氏政は遺言に従って、武田との同盟を復活させます。
天正3年(1575年)の黄梅院の七年忌に、氏政は分骨を小田原に迎えて、早雲寺の塔頭として黄梅院を造営しています。

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2007年05月05日

内藤修理亮昌豊

内藤修理亮昌豊は甲斐の武田家の重臣です。
父親の工藤下総守虎豊は武田信虎の重臣でしたが、信虎の勘気に触れて殺されてしまいます。昌豊は兄と一緒に甲斐の国を去って旅に出ます。
信玄が父の信虎を追放して家督を継いだ後の天文15年(1546年)、昌豊は甲府に呼び戻され、工藤家の旧領を与えられて復帰します。この時、名乗った名は工藤源左衛門でした。以後、侍大将として川中島の合戦など、数々の戦で活躍して、信玄の副将といわれる程、武田家で重要な武将となります。
永禄9年(1566年)、上野の国、箕輪城の合戦でも活躍して、箕輪城を落とした後、城代に命じられたのが昌豊でした。
永禄11年には信玄の命によって、甲斐の名族、内藤氏の名跡を継いで、内藤修理亮を名乗ります。
元亀三年(1572年)の信玄西上にも従い、三方ヶ原の合戦で先陣として活躍します。
信玄の死後は勝頼に従いますが、天正3年(1575年)の長篠の合戦で壮絶な戦死を遂げます。

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2007年04月30日

上泉伊勢守と箕輪城

永禄9年(1566年)の9月、武田信玄に攻められて、上野の国の箕輪城は落城します。その時、上泉伊勢守が箕輪方の武将として活躍したと言い伝えられています。数々の資料に目を通し、小説も読んで、私もそう信じていました。
しかし、小説を書くに当たって当時の状況を調べてみますと、腑に落ちない点がいくつか出て来ました。
まず、天文21年(1552年)に管領上杉氏の平井城が落城して、北条氏が上野の国に進攻して来ます。この時は平井城まででしたが、天文24年に北条氏は厩橋城を落とし、さらに、沼田の倉内城も攻め取ります。この時、上野の国は利根川の東と西に分けられ、東は北条方、西は箕輪城の長野氏を中心にして守りを固めます。上泉城は利根川以東にあり、伊勢守は北条氏に降伏したものと思われます。
永禄3年(1560年)8月、越後の長尾景虎(後の上杉謙信)が大軍を率いて上野の国を攻め、北条氏を追い出します。この時、伊勢守は北条氏と共に小田原に退去したのだと思います。伊勢守の2番目の妻は北条綱成の娘(あるいは養女)ですし、長男の秀胤が永禄7年正月の鴻之台合戦で北条方の武将として戦死しているので、伊勢守は家族を連れて小田原に移ったのかもしれません。
秀胤が戦死する前年の永禄6年、伊勢守は武芸者になって西へ旅立ちます。その年の9月から翌年の3月まで、大和の国、柳生に滞在しています。
永禄7年の6月、伊勢守は京都の足利御所で兵法台覧をしています。永禄8年の4月には柳生宗厳に印可を与え、8月には宝蔵院胤栄に印可を与え、永禄9年の5月には柳生宗厳に新陰流目録3巻を与えています。永禄10年の2月には京都で丸目蔵人佐に印可を与えています。
永禄9年5月、宗厳に目録を与えてから上野に帰って、9月の箕輪城の合戦に参戦する事は可能ですか、どうも、不自然です。一武芸者になった伊勢守が再び、武将に戻る事はないと思います。
というわけで、私は箕輪城落城の時、伊勢守はいなかったという結論を出して、「戦国草津温泉記」を書きました。

長編歴史小説 戦国草津温泉記・湯本善太夫
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2007年04月19日

海野長門守幸光

海野長門守は上野の国(群馬県)、吾妻郡の長野原城主で、岩櫃城の斎藤越前守の重臣です。隣村の羽尾城主、羽尾道雲は兄で、新当流の武芸者としても有名な海野能登守は弟です。
海野三兄弟は信濃の海野氏の支流で、上野の国に根を張りました。同じ吾妻郡の鎌原氏、西窪氏は同族です。信濃の真田氏も同族になります。
長門守は修験道を修めて、福仙院とも号していました。修験道の本場である大峯山を篤く信仰していて、戦に出る時も兜の上に兎巾(ときん)を付け、鎧の上に鈴繋(すずかけ)に結袈裟を付けて活躍したといいます。
宗教心が強く、永禄2年(1559年)に長野原の雲林寺を創建し、永禄12年には矢倉の行沢観音堂を改修して、天正3年(1575年)には羽尾に宗泉寺を創建しています。
永禄6年(1563年)、武田信玄の先鋒として真田幸隆が岩櫃城を攻めた時、岩櫃城を守っていた長門守は弟の能登守と共に寝返ります。その時、長門守の領地、羽尾も能登守の領地、長野原も没収されて信濃へ送られます。
三年後の永禄9年、真田幸隆の口添えもあって、長門守と能登守は岩櫃城代に任命されて、吾妻郡に戻って来ます。
以後、2人は武田家の家臣として、吾妻郡の中心となって活躍しますが、真田幸隆の跡を継いだ真田昌幸と対立して、天正9年(1581年)、長門守は岩櫃城内で討ち死にします。75歳だった長門守は目も見えなくなっていたそうです。
次の日、沼田の城代を勤めていた弟の能登守も、昌幸に攻められて討ち死にしています。

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2007年04月10日

長野業政

信濃守がいる限り、上野の国(群馬県)を攻め取る事は不可能だと武田信玄を恐れさせた武将が、箕輪城主の長野信濃守業政(なりまさ)です。
業政は関東管領の上杉氏に従って、西上野の旗頭として活躍していました。12人の娘たちを有力武将に嫁がせて、「箕輪衆」と呼ばれる強靭な組織を作りました。
天文21年(1552年)の正月、業政が54歳の時、管領上杉憲政は北条氏に攻められて、平井城を捨てて越後に逃げます。北条氏は平井城を拠点に上野進攻を進めて、天文24年には厩橋(前橋)を攻め取り、さらに、沼田も攻め落とします。上野の国は利根川以東は北条の領土になってしまいます。
弘治3年(1557年)には上野の国を北条氏に奪われてなるものかと、武田晴信(後の信玄)が西から攻めますが、業政は見事に追い返してしまいます。
永禄3年(1560年)8月、越後の長尾景虎(後の上杉謙信)が管領上杉憲政と共に八千の兵を引き連れて上野の国に攻めて来ます。業政は箕輪衆を引き連れて、景虎に従い、北条軍を追い散らします。景虎は厩橋城で年を越し、越後と上野の連合軍を引き連れて南下し、北条の本拠地、小田原城を攻めた後、鎌倉の鶴岡八幡宮で管領職を継いで、上杉政虎と改名します。
業政は管領上杉政虎に従って、上野の国を一つにまとめようとしますが、残念ながら、政虎が越後に帰るために厩橋城を去った、その日に病死してしまいます。63歳でした。
業政の死から五年後、箕輪城は武田信玄に攻められて落城し、武田氏の上野攻略の拠点となってしまいます。

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2007年04月05日

円覚坊

円覚坊は信濃の国、飯縄山の山伏です。山伏は修験者、行者とも呼ばれ、半僧半俗の修行者です。一般の人が入らない山奥で厳しい修行を積んで不思議な力を身に付けて、加持祈祷などをして、困っている人々を救いました。
武術の鍛錬している者も多く、円覚坊は陰流を身に付けていました。陰流の流祖、愛洲移香斎の弟子、八郎坊が飯縄山に来て、山伏たちに陰流を教えたので、陰流は飯縄山の周辺に広まります。円覚坊は八郎坊の孫弟子に当たる栄山坊から陰流を習い、さらに、栄山坊の師の禅明坊という老山伏からも指導を受けて、陰流を極めます。
禅明坊から、流祖の愛洲移香斎がまだ生きている事を知った円覚坊は移香斎を捜す旅に出ます。円覚坊、20歳の時でした。噂を頼りに各地を旅して、23歳の時、上野の国の上泉城にたどり着きます。上泉城には、移香斎の最後の弟子、上泉伊勢守がいました。伊勢守から移香斎の居場所を聞いて、円覚坊は草津の湯に登ります。
山の中の湯治場で、移香斎は瓢雲庵と称して、癩病(ハンセン病)患者たちを治療していました。もう武術は捨てたと言って、剣を手にする事はありませんでした。円覚坊はいつの日か、陰流の極意を授かろうと、移香斎の住む庵の隣に庵を立てて住み込みます。一年程、移香斎の側にいましたが、何も教えてもらえず、移香斎は亡くなってしまいます。
円覚坊は失望して、草津を離れて旅に出ます。旅を続けていても、移香斎が草津でしていた事を忘れる事ができません。円覚坊は再び、草津に戻って来ます。
もしかしたら、陰流の極意は人を殺す技の中にあるのではなく、人を生かす事なのではないかと思った円覚坊は移香斎の真似をしようとします。しかし、なかなか、癩病患者の中に入ってはいけません。第一、円覚坊は移香斎のように医術に関する知識がありません。円覚坊は白根明神に行って、医術の詳しい者から教えを請おうとして、成就院という山伏と出会います。成就院は湯本善太夫の大叔父でした。
武術の腕を見込まれ、円覚坊は成就院から善太夫の武術指南役を頼まれます。これも移香斎の導きなのかもしれないと円覚坊は引き受けます。

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2007年03月30日

柳生石舟斎

上泉伊勢守の高弟の1人で、新陰流の正統を継ぎました。大和の国、柳生の庄の豪族で、本名は柳生新左衛門宗厳といいます。
宗厳は新当流と富田流を極めて、畿内では有名な武芸者でした。関東から上泉伊勢守が来たと聞いて、田舎侍を簡単に倒してやろうと意気込んで出掛けますが、逆に敗れてしまいます。腕の差を思い知った宗厳は伊勢守を柳生に迎えて、弟子入りします。
宗厳の素質を見抜いた伊勢守は、宗厳を後継者にする事に決め、柳生に滞在して、すべての技を伝授します。武術だけでなく、愛洲移香斎から伝えられた忍びの術や薬方なども伝授したと思います。
石舟斎の五男が、但馬守宗矩です。文禄3年(1594年)、徳川家康は石舟斎の兵法を認めて、指南役として迎えますが、石舟斎は老齢のために固辞し、宗矩を推挙します。当時、24歳だった宗矩は将軍家兵法指南役となり、柳生新陰流は全国的に広まって行きます。
なお、新陰流の正統は孫の兵庫助利厳に伝えられ、宗矩の江戸柳生に対して、尾張柳生と呼ばれています。

上泉伊勢守の略歴 新陰流系図
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2007年03月28日

丸目徹斎

上泉伊勢守の高弟の1人で、肥後の国(熊本県)、人吉に生まれ、本名は丸目蔵人佐長恵(くろうどのすけながよし)といいます。
幼い頃より武術の修行を積んで、武者修行の旅に出て、負け知らずの強さでしたが、京都で、上泉伊勢守に完敗して弟子入りします。丁度、伊勢守が京都に道場を開いた永禄7年(1564年)の頃のようです。
もともと素質があったので、上達も目覚しく、足利御所においての兵法台覧の時、伊勢守の打太刀を務めたのは蔵人佐でした。塚原卜伝の弟子だった将軍義輝から、伊勢守と共に感状を受けています。
3年近く、京都の上泉道場で修行に励み、永禄10年2月、印可状を授かって、故郷に帰ります。故郷に帰ってからも修行を怠る事なく、ある時、悟って、新陰流を改めて『タイ捨流』を号します。
『タイ捨流』の意味は「体捨」「大捨」「対捨」「待捨」、すべてを意味していて、不要な物をすべて捨て去った本来無一物の境地を表しています。
徹斎は武術だけでなく、和歌や笛、舞にも優れ、晩年は両刀を身に付ける事なく、開墾に従事したようです。

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2007年03月23日

草津温泉の遊女、里々

6歳の時、川中島の合戦で父親が戦死して、11歳の時には母親も病死、叔父夫婦に引き取られますが、叔父も負傷してしまい、里々は草津の遊女屋に売られます。
草津は、冬は雪が多く、一年を通して住める場所ではありませんでした。4月の8日の薬師様の縁日に山開きをして、営業が始まり、10月の8日には山仕舞いをして、冬住みと呼ばれる里に移ります。冬住みの里はあちこちにありましたが、里々のいる遊女屋は長野原の城下でした。雪のない半年は草津の湯で、湯治客を相手にして、冬の半年間は長野原城下で、湯本家の侍たちを相手にする仕事でした。
里々は夢も希望もない日々を過ごしていましたが、草津に来て三度目に迎えた5月のある日、事件が起こります。里々のお客だった武田家の武士が酔っ払って騒ぎを起こします。そこに現れて、酔っ払いを静めたのが、草津の領主、湯本家の若様でした。それが縁で、里々は若様に惹かれて行きます。若様の方も自分を気に入ってくれて、度々、通って来るようになります。里々にとって、生まれて始めての、夢のような幸せな日々が続きました。
冬住みが始まって、長野原の城下に移ると、里々と若様の噂は皆に知れ渡って、若様に遠慮して、里々のもとに通う侍はいなくなってしまいます。里々はただ、若様だけを待つ身となります。仲間たちからも羨ましがられますが、その幸せも長くは続きません。
年が明けて正月、若様の婚約が発表されます。若様のお嫁さんは真田家の娘さんでした。いつかはその日が来るのを覚悟していた里々でしたが、改めて、自分が遊女である事に気づいて、身を引く決心をします。
身を引くと言っても売られたこの身を自由にする事はできません。それでも、若様のために、何としてでも、この地を離れなければならないと思い、若様の武術の師範だった山伏、東光坊に相談します。東光坊は里々の言う事を理解してくれ、「小野屋」という商人の女将さんを紹介してくれました。「小野屋」の女将さんは里々の話を聞いて、お屋形様にはお世話になっているから、一肌脱ぎましょうと里々を身請けして、小田原へ連れて行きました。
小田原に行って、また、遊女屋に売られるのだろうと覚悟していましたが、女将さんはそんな素振りは見せず、あなたは身が軽そうだから、武術の修行をしてみないかと言い出します。里々は驚きますが、女将さんには借りがあるので、言われるままに、「風摩砦」という北条家の武術道場に入ります。
女将さんが見抜いた通り、自分でも信じられないくらいに上達するのが早く、一年間の修行の日々は毎日が楽しくて、あっという間に過ぎました。
共に修行を積んだお澪という娘さんは「小野屋」の跡を継ぐ事が決まっていて、一年間の厳しい修行に耐えて生まれ変わった里々は、お澪を助けて、「小野屋」のために生きて行こうと決心します。
草津を去ってから三年目の正月、北条家の娘が、武田家のお屋形様(勝頼)に嫁ぎ、甲府で盛大な婚礼が行なわれました。里々は「小野屋」の女将さんと一緒に甲府に行って、婚礼を手伝います。婚礼も無事に済んだ後、甲府の「小野屋」で、里々は草津の若様と偶然、出会ってしまいます。若様も婚礼に呼ばれて、草津から来ていたのです。運命の再会でした。

戦国草津温泉記・湯本三郎右衛門
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