冨樫政親は康正元年(1455年)に京都の富樫屋敷で生まれます。
父親の富樫成春は北加賀守護でしたが、長禄2年(1458年)、赤松政則に北加賀守護職を奪われ、寛正3年(1462年)、亡命中に亡くなってしまいます。
寛正5年、南加賀の守護職を務めていた大叔父の富樫泰高が隠居して、政親が家督を譲られます。10歳だった政親が南加賀の守護になったわけです。北加賀守護の赤松政則も同い年で10歳でした。
応仁元年(1467年)、応仁の乱が始まると富樫政親も赤松政則も共に東軍となって戦います。やがて、赤松政則は旧領だった播磨を奪回して、加賀から出て行きます。政親は加賀一国の守護職を手に入れますが、赤松家のいなくなった北加賀に、政親に対立する富樫家の家臣たちが弟の幸千代を擁立して、西軍となって侵入して来ます。
政親と幸千代の家督争いが始まり、そこに加賀と越前の国境近くの吉崎に本拠地を置く本願寺勢力が加わって、加賀の国は戦乱の世となって行きます。
文明6年(1474年)7月、政親は本願寺の力を借りて、幸千代を倒し、加賀一国を手に入れます。政親と本願寺は協力して勝利を得たのですが、本願寺の勢力を恐れた政親は本願寺を弾圧し始めます。
文明7年8月、争いを避けるために本願寺の法主、蓮如は吉崎を去ります。蓮如がいなくなって一時は平穏となりますが、政親の本願寺に対する弾圧は続きます。
長享2年(1488年)5月、本願寺門徒は蜂起して政親の高尾城を包囲し、6月9日、高尾城は落城して、政親は自害して果てます。
以後、加賀の国は「百姓の持ちたる国」と言われ、本願寺の支配下になります。
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