朝倉孝景は越前守護の斯波氏の重臣の一人でした。
斯波氏が義敏と義廉で家督争いを始めると義廉方に付きます。
応仁の乱が始まると義敏は東軍となり、義廉は西軍となります。孝景は西軍の武将として京都で活躍します。ところが、文明3年(1471年)、孝景は突然、東軍に寝返ります。
将軍足利義政から密かに、東軍に寝返れば越前の守護職に任命するとの声が掛かったのです。騒ぎ出した国人たちを鎮めるとの名目で越前に帰った孝景は寝返るための下準備を充分にしてから寝返ります。
孝景は反対勢力を倒し、実力をもって越前の国をまとめて行きます。孝景は越前統一の寸前に亡くなってしまいますが、跡を継いだ嫡男の氏景が統一を果たします。
戦国大名朝倉氏の基盤を築いたのが孝景です。なお、孝景(1428-81)の曾孫にも同名の孝景(1512-48)がいます。区別するために、法名から英林孝景と呼ばれる事もあります。
後に、朝倉氏は織田信長に滅ぼされますが、織田氏も元々は斯波氏の重臣の一人でした。






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