2008年03月07日

東海道中膝栗毛

東海道中膝栗毛


弥次さん北さんで有名な「東海道中膝栗毛」が発表されたのは享和2年(1802年)の事でした。作者は十返舎一九で、それまでに何作もの黄表紙を発表していましたが、話題になるほどの作品はありませんでした。
「膝栗毛」は黄表紙ではなく滑稽本で、一九は書き上げた原稿をかつて居候をしていた事もある蔦屋重三郎のもとへ持って行きますが、蔦重は引き受けてはくれませんでした。仕方なく、村田屋治郎兵衛のもとへ持って行き、挿絵も自分で描くという条件で出版してもらいます。村田屋もそれ程、期待してはいませんでしたが、それが意外にも大好評で、売れに売れました。
最初のタイトルは「浮世道中膝栗毛」で、弥次郎兵衛と北八の二人は神田の八丁堀の裏長屋を旅立ち、箱根まで行っています。一九として、その話はそれで終わるつもりでいましたが、これだけ売れるのだから、続編を書くべきだと村田屋に説得されて、次々に続編を書いて行きます。
当時の書物は正月に刊行されるのが普通でしたので、毎年、正月に続編が売り出されました。享和3年に「東海道中膝栗毛・後編」、文化元年(1804年)に「東海道中膝栗毛・三編」、文化2年に「東海道中膝栗毛・四編」、文化3年に「東海道中膝栗毛・五編」、文化3年の夏に「東海道中膝栗毛・五編追加」、文化4年に「東海道中膝栗毛・六編」、文化5年に「東海道中膝栗毛・七編」、文化6年に「東海道中膝栗毛・八編」が出版されて、完結します。
しかし、これで終わりません。文化7年刊行の「続膝栗毛・初編」で金毘羅詣でをして、文化8年の「続膝栗毛・二編」で宮島詣でをして、文化9年の「続膝栗毛・三編」から文化13年の「続膝栗毛・八編」まで木曽街道を歩き、文政2年(1819年)の「続膝栗毛・九編」で善光寺詣でをして、文政3年の「続膝栗毛・十編」で上州草津温泉へ行き、文政4年の「続膝栗毛・十一編」で中山道を歩いて、文政5年の「続膝栗毛・十二編」で、弥次さん北さんはやっと江戸に帰って来ました。
初編が発表されてから完結するまで、実に20年も掛かりました。
葛飾北斎が「東海道五十三次」を最初に発表したのが享和元年で、その後、享和2年、文化元年、文化2年、文化3年、文化7年と発表しています。そして、天保4年(1833年)、歌川広重の傑作「東海道五十三次」が発表されます。


草津温泉膝栗毛・冗談しっこなし


絵図に見る東海道中膝栗毛  「膝栗毛」はなぜ愛されたか  十返舎一九  弥次さん喜多さんのお笑いにほんご塾  東海道を歩く  


ラベル:文芸
posted by 酔雲 at 13:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 江戸時代>文化 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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