2008年02月21日

生田万

生田万(よろず)は享和元年(1801年)、上州館林藩士の長男に生まれ、23歳の時に江戸に出て、国学者の平田篤胤の門人になります。
文政11年(1828年)10月、藩政改革の意見書を提出しますが、それが藩主の怒りに触れて、館林藩から追放されてしまいます。再び江戸に出て、篤胤のもとで4年間暮らしてから、館林の近くの太田に私塾を開きます。
天保7年(1836年)5月、万は江戸の篤胤門下で共に勉学に励んだ神官の樋口英哲を訪ねて柏崎に行きます。英哲に歓迎された万は、柏崎に移住する決心をして、その年の9月、家族を連れて柏崎に移り、「桜園塾」という私塾を開きます。
そして、翌年の6月、柏崎の代官陣屋を襲撃しますが、失敗して自害してしまいます。
当時、天保の飢饉の真っ最中で、越後では餓死者が続出していました。にもかかわらず、越後の米は江戸の豪商に買い占められて、次々に江戸に運ばれてしまいます。それを禁止しないのは代官も悪徳商人たちと結託しているに違いないと万は同志5人と一緒に代官屋敷を襲撃したのです。その年の2月、大坂で起こった大塩平八郎の乱が影響しているといわれています。
陣屋の襲撃後、米価は下がり、民衆は助かりましたが、万の妻子は捕まってしまいます。万の妻は牢屋の中で、二人の子供を殺し、万の後を追って自害します。


百姓一揆事典  浜田藩清廉記  新・にいがた歴史紀行(6)  平田篤胤の学問と思想



 生田万の略歴


1801年、上州館林に生まれる。東華、大中道人と号す。
     父親は館林藩士、信勝(1759-1831)。弟は主膳廉。
     妹婿は御用人の山本左伝司。
     妻は館林藩御目付役人、香取衛馬政徳の娘、お鍋(1807-37)
1825年、長男、生まれる。
1826年、万、館林藩から追放される。
1829年、長男、疱瘡で死す。
1830年、長女、生まれるが、すぐに亡くなる。
1831年、父親が亡くなり、弟が跡を継ぐ。
1836年5月、万、越後柏崎の樋口英哲を訪ねる。
1836年9月、家族を伴い、柏崎に移り住む。
1937年6月、柏崎の代官陣屋を襲撃して、自害する。



 生田万と共に代官陣屋を襲撃した同士たち

・鷲尾甚助義隆‥‥神道無念流の達人。尾張生まれで、蒲原郡加茂町に道場を持つ。江戸で牢死。
・鈴木城之助‥‥水戸家の浪人。本名は菊地秀助。神道無念流の達人。斬殺される。
・山岸嘉藤次秀俊‥‥‥出雲崎出身。鷲尾甚助の弟子で万の門人。自決する。
・小野沢佐左衛門信義‥‥蒲原郡荻島村の名主。大酒を好み剣術を嗜む。斬殺される。
・古田喜一郎信俊‥‥小野沢の甥で隣村の古田与五左衛門の次男。19歳、銃殺される。
・熊倉玄道‥‥下保内村の医者。23歳。裏切って逐電する。




ラベル:学者
posted by 酔雲 at 13:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 江戸時代>人物 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。

この記事へのトラックバック
×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。