2008年02月08日

百々村の紋次親分

国定一家の忠次親分も当然の事ながら、最初から親分だったわけではなく、子分時代がありました。
絹糸市が開かれて栄えていた日光例幣使道の境宿の隣に百々(どうどう)村という村があって、そこで「百々一家」を張っていた紋次親分がいました。忠次は大前田栄五郎の紹介で紋次の子分になります。
紋次親分は百々村の裕福な農家に生まれますが、若い頃に村を飛び出して渡世人の世界に入ります。村に戻って来たのは28歳頃で、その時に一家を張ります。縄張りは境宿を中心に、その周辺で、大前田栄五郎とは兄弟分です。
忠次が子分になって三年後、紋次は病に倒れてしまいます。そこで、跡目を継いだのが、まだ21歳だった忠次です。忠次は百々一家の親分になったわけです。
百々一家の親分になって4年後、忠次は島村の伊三郎親分を殺して勢力を広げます。忠次が本拠地を百々村から田部井(ためがい)村に移して、「国定一家」を名乗ったのは、天保7年(1836年)4月の事でした。
隠居した紋次は天保13年(1842年)3月11日、50歳で亡くなりました。戒名は「花輪昶光居士」です。


侠客国定忠次一代記


日光・奥州道中・日光例幣使道を行く  八州廻りと博徒  絹    


ラベル:侠客
posted by 酔雲 at 12:02| Comment(0) | TrackBack(0) | 江戸時代>人物 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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