国定忠次が関所破りをした大戸の関所跡から南に500m程行くと忠次の仕置場跡(処刑場跡)があります。
嘉永3年(1850年)12月21日、国定一家の親分、忠次は磔(はりつけ)刑に処せられました。
磔刑は主殺し、親殺し、関所破り、偽金銀を作った者、密通して夫を殺した女など、封建制度そのものの維持に重大な反逆を犯した極悪人に対してなされる死刑です。忠次は確かに関所破りをしましたが、権威を失いつつある幕府が、権威を取り戻そうとして、忠次をみせしめにしたようです。それでも、時代の流れにはさからえず、忠次の死後、18年足らずで幕府はつぶれてしまいます。
磔というとキリストの十字架を思い浮かべる人が多いと思いますが、日本の磔は十字架ではなく、キの字型の柱に両手両足を開いた大の字に縛られて、左右から槍で突かれます。忠次は14回も突かれました。
竹矢来(たけやらい)で囲まれた仕置場は250人余りの者が厳重に警備を固め、忠次の最期を見るために1500人余りの見物人が集まったようです。



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