
久寿二年(1155年)八月の十六日、木曽義仲の父親、源義賢は兄の義朝に疎まれ、武州の大蔵館(嵐山町)で義朝の長男、悪源太義平に殺されてしまいます。当時2歳だった駒王丸は家臣たちに守られて、上州の草津の湯に逃れ、後、入山村に隠れ住みます。やがて、成長した駒王丸は元服して義仲と名乗り、信州の木曽谷へと向かいます。義仲が世に立った村なので世立(よだて)と名付けられたといわれています。
寿永二年(1183年)五月、義仲は越中と加賀の国境、倶利加羅峠で平家の大軍を破り、七月には京の都に入ります。後白河法皇より朝日将軍の名を賜って、翌年の正月八日に征夷大将軍に任じられるますが、鎌倉の頼朝より派遣された従兄弟の範頼、義経の兵に敗れて、正月の二十日、近江の粟津ケ原(大津市)で戦死してしまいます。その時、義仲の子を身ごもっていた望月御殿助の娘がいました。娘は父親に守られ、雪山を越えて草津に逃げて来ます。そして、草津の奥、細野という地に隠れ住み、やがて、娘は男の子を産みます。
それから十年近くの月日が流れ、建久四年(1193年)八月、将軍となった頼朝が浅間山麓で狩りをします。将軍の案内役に召し出された御殿助は仕事振りを褒められ、名を問われますが、頼朝に敵対した義仲の家臣だったとは答えられず、名もない土民だと答えます。頼朝は詳しい詮索はせずに、御殿助に草津を領地として与え、湯本の姓と三日月の家紋を与えます。御殿助の跡を継いだのは、娘が産んだ義仲の子供で、代々、草津の領主として栄えて行きました。
「冗談しっこなし」で、十返舎一九は読本の取材のために、草津温泉の歴史家の案内で、木曽義仲の伝説が残る入山村世立(現在は六合村世立)へと出かけています。




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