後に、嘉吉の変と呼ばれる事件です。
それから17年後、遺臣たちの活躍によって赤松家の再興が許され、当主となったのが、当時4歳だった赤松政則です。政則は嘉吉の変の張本人だった満祐の弟、義雅の孫に当たります。
その頃、幕府内で勢力を持って対立していたのが、細川勝元と山名宗全です。赤松氏の旧領播磨を領していたのは山名宗全です。細川勝元は赤松氏を再興して、播磨に送り込んで山名氏の勢力を弱めてやろうと企んだわけです。
応仁元年(1467年)1月、応仁の乱が始まると、赤松政則は細川方の東軍となり、領国を取り戻すため、播磨に向かって進軍します。播磨に隠れていた遺臣たちも合流して、5月には山名軍を追い払って、播磨の国を取り戻します。さらに9月には旧領だった備前の国、美作の国も取り戻します。
そして、応仁2年の11月、14歳の政則は幕府の要職である侍所所司に任じられ、完全に復活を遂げます。


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