2007年06月27日

京都の南蛮寺

完訳フロイス日本史2(織田信長篇2)


永禄2年(1559年)、九州から京都に上ったヴィレラ司祭はその年の末、革の棚に住んでいた後家さんの世話になり、翌年の1月は玉倉町に移り、さらに四条烏丸の酒屋に移ります。
仏教の盛んな京都でひどい目に会いながらも、何とか、将軍足利義輝に会う事ができ、砂時計を土産に布教の許可を得ます。6月に四条坊門姥柳町の民家を買い取り、改装して教会堂とします。ようやく、落ち着く場所が見つかったのです。
永禄8年1月の末、フロイス司祭がヴィレラを助けるために京都に来ます。ところが、5月、将軍義輝が殺されるとヴィレラとフロイスは京都を追放されて、堺に逃げます。それから3年後、織田信長が足利義昭を奉じて入京します。
永禄12年4月、フロイスは二条城を建築中の信長と会って、布教の許しを得て、破壊された教会堂を建て直して布教活動を再開します。
元亀元年(1570年)、オルガンティノ司祭が京都に派遣され、体調を崩していたヴィレラ司祭はインドに帰ります。
天正2年(1576年)、古くなった教会堂が、信長の庇護のもとに新築されます。三階建ての立派な教会堂は「ノッサ・スニヨラ・ダ・アスンサン(被昇天の聖母教会)」と命名され、人々からは「南蛮寺」と呼ばれます。
8月15日の聖母昇天祭はまだ工事中でしたが、オルガンティノ司祭によって最初のミサが行なわれます。翌年の正月には盛大な落慶式が行なわれ、大勢のキリシタン信者が集まりました。
天正10年、南蛮寺のすぐ側にあった本能寺で信長が殺されてしまいます。
豊臣秀吉の時代となり、初めの頃は秀吉も信長に従ってキリスト教を保護しますが、天正15年、キリスト教は禁止され、南蛮寺は打ち壊されてしまいます。

時は今‥‥石川五右衛門伝


ラベル:寺社
posted by 酔雲 at 10:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 戦国時代>文化 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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