2007年06月10日

仁科五郎盛信

仁科五郎は武田信玄の五男です。母親は油川殿で、お松(信松院)、お菊(甲斐御前)の同腹の兄です。
11歳の時に信濃の名族、仁科氏の名跡を継いで、仁科盛信を名乗り、仁科郷の森城主になります。
五郎が17歳の時、父親の信玄が亡くなり、すぐ上の兄、四郎勝頼が跡を継ぎます。
五郎は常に宿敵である越後の上杉謙信に対して守りを固めていましたが、天正6年(1578年)、謙信が亡くなり、その後、景虎と景勝の家督争いが始まって、勝頼は景勝と同盟を結びます。景勝が景虎に勝ったため、越後は味方となり、五郎は新たなる敵、織田信長に備えるため、天正7年に高遠城へと移ります。
天正9年、勝頼は織田の大軍に備えて、韮崎に新城を築きますが、城が完成する前に、織田軍の攻撃が始まってしまいます。身内の裏切りから始まって、次々と家臣たちが裏切り、甲斐の名門、武田家は滅亡してしまいます。
裏切り者が続出する中、五郎だけは裏切る事なく、最後まで武田家の名誉のために戦って、見事な討ち死にを遂げます。
五郎の風貌は父親の信玄に一番似ていたそうです。五郎の家臣たちは皆、五郎を慕って共に討ち死にしています。26歳の短い人生でしたが、武将としての五郎の生きざまは味方は勿論の事、敵からも賞賛されています。

戦国草津温泉記・湯本三郎右衛門


ラベル:武将
posted by 酔雲 at 10:16| Comment(0) | TrackBack(0) | 戦国時代>人物 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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