父親は今川家の武将福島(くしま)正成で、父親が戦死した後、北条氏綱を頼って小田原に来ます。なぜ、今川家を離れて、北条家を頼ったのかはわかりません。もしかしたら、福島家内で家督争いが起こり、身の危険を感じた正成の家臣が、当時7歳だった綱成を連れて小田原に行ったのかもしれません。
綱成は氏綱の嫡男、氏康と同い年だったので、丁度いい遊び相手となり、共に育てられます。元服した時、氏綱の「綱」の字を与えられ、さらに、氏康の妹を妻に迎えて「北条」姓を名乗ります。
天文11年(1542年)、玉縄城主だった為昌(氏康の弟)が亡くなり、綱成が城主になります。
天文15年の河越の合戦の時は、河越城主として大軍に囲まれた河越城を守り通し、攻め寄せて来た氏康と呼応して、敵を蹴散らし、その名を関東中に広めます。
綱成の旗差物は黄色地に「八幡」と書かれ、「地黄八幡」と呼ばれて敵を恐れさせました。
綱成と氏康は本当の兄弟以上に信頼し合い、北条家の領土拡大に力を尽くします。
元亀2年(1571年)、氏康が亡くなった後は頭を丸めて、道感と号し、幻庵と共に長老として北条家を支えます。
綱成の死の三年後、北条家は滅び去ります。

ラベル:武将
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