2007年05月05日

内藤修理亮昌豊

内藤修理亮昌豊は甲斐の武田家の重臣です。
父親の工藤下総守虎豊は武田信虎の重臣でしたが、信虎の勘気に触れて殺されてしまいます。昌豊は兄と一緒に甲斐の国を去って旅に出ます。
信玄が父の信虎を追放して家督を継いだ後の天文15年(1546年)、昌豊は甲府に呼び戻され、工藤家の旧領を与えられて復帰します。この時、名乗った名は工藤源左衛門でした。以後、侍大将として川中島の合戦など、数々の戦で活躍して、信玄の副将といわれる程、武田家で重要な武将となります。
永禄9年(1566年)、上野の国、箕輪城の合戦でも活躍して、箕輪城を落とした後、城代に命じられたのが昌豊でした。
永禄11年には信玄の命によって、甲斐の名族、内藤氏の名跡を継いで、内藤修理亮を名乗ります。
元亀三年(1572年)の信玄西上にも従い、三方ヶ原の合戦で先陣として活躍します。
信玄の死後は勝頼に従いますが、天正3年(1575年)の長篠の合戦で壮絶な戦死を遂げます。

戦国草津温泉記・湯本善太夫


ラベル:武将
posted by 酔雲 at 10:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 戦国時代>人物 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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