しかし、小説を書くに当たって当時の状況を調べてみますと、腑に落ちない点がいくつか出て来ました。
まず、天文21年(1552年)に管領上杉氏の平井城が落城して、北条氏が上野の国に進攻して来ます。この時は平井城まででしたが、天文24年に北条氏は厩橋城を落とし、さらに、沼田の倉内城も攻め取ります。この時、上野の国は利根川の東と西に分けられ、東は北条方、西は箕輪城の長野氏を中心にして守りを固めます。上泉城は利根川以東にあり、伊勢守は北条氏に降伏したものと思われます。
永禄3年(1560年)8月、越後の長尾景虎(後の上杉謙信)が大軍を率いて上野の国を攻め、北条氏を追い出します。この時、伊勢守は北条氏と共に小田原に退去したのだと思います。伊勢守の2番目の妻は北条綱成の娘(あるいは養女)ですし、長男の秀胤が永禄7年正月の鴻之台合戦で北条方の武将として戦死しているので、伊勢守は家族を連れて小田原に移ったのかもしれません。
秀胤が戦死する前年の永禄6年、伊勢守は武芸者になって西へ旅立ちます。その年の9月から翌年の3月まで、大和の国、柳生に滞在しています。
永禄7年の6月、伊勢守は京都の足利御所で兵法台覧をしています。永禄8年の4月には柳生宗厳に印可を与え、8月には宝蔵院胤栄に印可を与え、永禄9年の5月には柳生宗厳に新陰流目録3巻を与えています。永禄10年の2月には京都で丸目蔵人佐に印可を与えています。
永禄9年5月、宗厳に目録を与えてから上野に帰って、9月の箕輪城の合戦に参戦する事は可能ですか、どうも、不自然です。一武芸者になった伊勢守が再び、武将に戻る事はないと思います。
というわけで、私は箕輪城落城の時、伊勢守はいなかったという結論を出して、「戦国草津温泉記」を書きました。

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