2007年04月30日

上泉伊勢守と箕輪城

永禄9年(1566年)の9月、武田信玄に攻められて、上野の国の箕輪城は落城します。その時、上泉伊勢守が箕輪方の武将として活躍したと言い伝えられています。数々の資料に目を通し、小説も読んで、私もそう信じていました。
しかし、小説を書くに当たって当時の状況を調べてみますと、腑に落ちない点がいくつか出て来ました。
まず、天文21年(1552年)に管領上杉氏の平井城が落城して、北条氏が上野の国に進攻して来ます。この時は平井城まででしたが、天文24年に北条氏は厩橋城を落とし、さらに、沼田の倉内城も攻め取ります。この時、上野の国は利根川の東と西に分けられ、東は北条方、西は箕輪城の長野氏を中心にして守りを固めます。上泉城は利根川以東にあり、伊勢守は北条氏に降伏したものと思われます。
永禄3年(1560年)8月、越後の長尾景虎(後の上杉謙信)が大軍を率いて上野の国を攻め、北条氏を追い出します。この時、伊勢守は北条氏と共に小田原に退去したのだと思います。伊勢守の2番目の妻は北条綱成の娘(あるいは養女)ですし、長男の秀胤が永禄7年正月の鴻之台合戦で北条方の武将として戦死しているので、伊勢守は家族を連れて小田原に移ったのかもしれません。
秀胤が戦死する前年の永禄6年、伊勢守は武芸者になって西へ旅立ちます。その年の9月から翌年の3月まで、大和の国、柳生に滞在しています。
永禄7年の6月、伊勢守は京都の足利御所で兵法台覧をしています。永禄8年の4月には柳生宗厳に印可を与え、8月には宝蔵院胤栄に印可を与え、永禄9年の5月には柳生宗厳に新陰流目録3巻を与えています。永禄10年の2月には京都で丸目蔵人佐に印可を与えています。
永禄9年5月、宗厳に目録を与えてから上野に帰って、9月の箕輪城の合戦に参戦する事は可能ですか、どうも、不自然です。一武芸者になった伊勢守が再び、武将に戻る事はないと思います。
というわけで、私は箕輪城落城の時、伊勢守はいなかったという結論を出して、「戦国草津温泉記」を書きました。

長編歴史小説 戦国草津温泉記・湯本善太夫


ラベル:武将 武芸者
posted by 酔雲 at 12:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 戦国時代>人物 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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