2007年04月19日

海野長門守幸光

海野長門守は上野の国(群馬県)、吾妻郡の長野原城主で、岩櫃城の斎藤越前守の重臣です。隣村の羽尾城主、羽尾道雲は兄で、新当流の武芸者としても有名な海野能登守は弟です。
海野三兄弟は信濃の海野氏の支流で、上野の国に根を張りました。同じ吾妻郡の鎌原氏、西窪氏は同族です。信濃の真田氏も同族になります。
長門守は修験道を修めて、福仙院とも号していました。修験道の本場である大峯山を篤く信仰していて、戦に出る時も兜の上に兎巾(ときん)を付け、鎧の上に鈴繋(すずかけ)に結袈裟を付けて活躍したといいます。
宗教心が強く、永禄2年(1559年)に長野原の雲林寺を創建し、永禄12年には矢倉の行沢観音堂を改修して、天正3年(1575年)には羽尾に宗泉寺を創建しています。
永禄6年(1563年)、武田信玄の先鋒として真田幸隆が岩櫃城を攻めた時、岩櫃城を守っていた長門守は弟の能登守と共に寝返ります。その時、長門守の領地、羽尾も能登守の領地、長野原も没収されて信濃へ送られます。
三年後の永禄9年、真田幸隆の口添えもあって、長門守と能登守は岩櫃城代に任命されて、吾妻郡に戻って来ます。
以後、2人は武田家の家臣として、吾妻郡の中心となって活躍しますが、真田幸隆の跡を継いだ真田昌幸と対立して、天正9年(1581年)、長門守は岩櫃城内で討ち死にします。75歳だった長門守は目も見えなくなっていたそうです。
次の日、沼田の城代を勤めていた弟の能登守も、昌幸に攻められて討ち死にしています。

戦国草津温泉記・湯本善太夫

戦国草津温泉記・湯本三郎右衛門


ラベル:武将
posted by 酔雲 at 12:50| Comment(1) | TrackBack(0) | 戦国時代>人物 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
昔から信仰心の強い武将が多いですよね、仕事とは言え人を殺すのですから、心のどこかに引っかかるのでしょう、自身への加護も願ったのでしょうが、
Posted by 小池 at 2007年04月19日 13:17
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