2007年04月10日

長野業政

信濃守がいる限り、上野の国(群馬県)を攻め取る事は不可能だと武田信玄を恐れさせた武将が、箕輪城主の長野信濃守業政(なりまさ)です。
業政は関東管領の上杉氏に従って、西上野の旗頭として活躍していました。12人の娘たちを有力武将に嫁がせて、「箕輪衆」と呼ばれる強靭な組織を作りました。
天文21年(1552年)の正月、業政が54歳の時、管領上杉憲政は北条氏に攻められて、平井城を捨てて越後に逃げます。北条氏は平井城を拠点に上野進攻を進めて、天文24年には厩橋(前橋)を攻め取り、さらに、沼田も攻め落とします。上野の国は利根川以東は北条の領土になってしまいます。
弘治3年(1557年)には上野の国を北条氏に奪われてなるものかと、武田晴信(後の信玄)が西から攻めますが、業政は見事に追い返してしまいます。
永禄3年(1560年)8月、越後の長尾景虎(後の上杉謙信)が管領上杉憲政と共に八千の兵を引き連れて上野の国に攻めて来ます。業政は箕輪衆を引き連れて、景虎に従い、北条軍を追い散らします。景虎は厩橋城で年を越し、越後と上野の連合軍を引き連れて南下し、北条の本拠地、小田原城を攻めた後、鎌倉の鶴岡八幡宮で管領職を継いで、上杉政虎と改名します。
業政は管領上杉政虎に従って、上野の国を一つにまとめようとしますが、残念ながら、政虎が越後に帰るために厩橋城を去った、その日に病死してしまいます。63歳でした。
業政の死から五年後、箕輪城は武田信玄に攻められて落城し、武田氏の上野攻略の拠点となってしまいます。

戦国草津温泉記・湯本善太夫


ラベル:武将
posted by 酔雲 at 11:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 戦国時代>人物 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。

この記事へのトラックバック
×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。