宗厳は新当流と富田流を極めて、畿内では有名な武芸者でした。関東から上泉伊勢守が来たと聞いて、田舎侍を簡単に倒してやろうと意気込んで出掛けますが、逆に敗れてしまいます。腕の差を思い知った宗厳は伊勢守を柳生に迎えて、弟子入りします。
宗厳の素質を見抜いた伊勢守は、宗厳を後継者にする事に決め、柳生に滞在して、すべての技を伝授します。武術だけでなく、愛洲移香斎から伝えられた忍びの術や薬方なども伝授したと思います。
石舟斎の五男が、但馬守宗矩です。文禄3年(1594年)、徳川家康は石舟斎の兵法を認めて、指南役として迎えますが、石舟斎は老齢のために固辞し、宗矩を推挙します。当時、24歳だった宗矩は将軍家兵法指南役となり、柳生新陰流は全国的に広まって行きます。
なお、新陰流の正統は孫の兵庫助利厳に伝えられ、宗矩の江戸柳生に対して、尾張柳生と呼ばれています。
上泉伊勢守の略歴 新陰流系図
ラベル:武芸者
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