幼い頃より武術の修行を積んで、武者修行の旅に出て、負け知らずの強さでしたが、京都で、上泉伊勢守に完敗して弟子入りします。丁度、伊勢守が京都に道場を開いた永禄7年(1564年)の頃のようです。
もともと素質があったので、上達も目覚しく、足利御所においての兵法台覧の時、伊勢守の打太刀を務めたのは蔵人佐でした。塚原卜伝の弟子だった将軍義輝から、伊勢守と共に感状を受けています。
3年近く、京都の上泉道場で修行に励み、永禄10年2月、印可状を授かって、故郷に帰ります。故郷に帰ってからも修行を怠る事なく、ある時、悟って、新陰流を改めて『タイ捨流』を号します。
『タイ捨流』の意味は「体捨」「大捨」「対捨」「待捨」、すべてを意味していて、不要な物をすべて捨て去った本来無一物の境地を表しています。
徹斎は武術だけでなく、和歌や笛、舞にも優れ、晩年は両刀を身に付ける事なく、開墾に従事したようです。

ラベル:武芸者
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