2007年03月11日

疋田栖雲斎

新陰流の流祖、上泉伊勢守の高弟で、伊勢守の甥に当たります。晩年に栖雲斎(せいうんさい)と号しますが、本名は豊五郎景兼といいます。虎伯とも号しました。
父親は疋田主膳景範といい加賀の国、倉月庄疋田郷の郷士で、本願寺の有力門徒でもあります。母は伊勢守の姉だと伝えられています。
幼い頃から叔父の伊勢守に預けられて、新陰流の修行を積んで、上泉門下の四天王の1人と呼ばれます。
越後の長尾景虎(後の上杉謙信)に攻められて、上泉城が落城した後、伊勢守の供をして上洛の旅に出ます。柳生の庄で柳生宗厳(後の石舟斎)と出会い、宗厳が伊勢守の弟子になった時、柳生に残って宗厳の指導に当たったのが豊五郎でした。
宗厳が伊勢守から印可を得てからは、師の伊勢守と別れて諸国修行の旅に出ます。
織田家に仕えて、信長の長男、信忠の武術指南役を勤めますが、織田家は滅びてしまいます。その後、豊臣家に仕えて、秀吉の養子、秀次の武術指南役になります。秀次が亡くなった後は九州へと行き、豊前の細川家に仕えます。さらに、筑前の黒田家、肥前の寺沢家にも仕えたようです。
一ヶ所に長く留まる事ができない性格らしく、その後も旅を続けて、最後には豊臣秀頼の大坂城内で亡くなりました。
慶長10年(1605年)9月30日、享年は80歳前後だったようです。
栖雲斎自身は新陰流を称していましたが、弟子の山田浮月斎によって疋田陰流と呼ばれるようになります。

戦国草津温泉記・湯本三郎右衛門

※「戦国草津温泉記・湯本三郎右衛門」では栖雲斎はセリフの中に登場するのみです。
ラベル:武芸者
posted by 酔雲 at 10:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 戦国時代>人物 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。

この記事へのトラックバック