関東の国々は幕府の直轄領(天領)、旗本領、藩領、寺社領がモザイクのように入り乱れていて、支配者の違う他領に逃げ込んだ犯罪者を逮捕する事ができませんでした。特に上州(群馬県)は細切れ状態になっていて、犯罪者が潜伏したり逃亡するのに都合がよく、多くの博徒が生まれるのも当然と言えました。そこで幕府が考えたのが、どこへでも踏み込んで行って犯罪者を逮捕できる権限を持った関東取締出役でした。
文政10年(1827年)の頃、関東取締出役は10人いて、上州と武州を担当していたのは吉田左五郎、河野啓助、太田平助、脇屋武左衛門の4人、上総と下総を担当していたのは武藤佐左衛門、森東平、松村小五郎の3人、野州担当は下山逢七が1人、そして、江戸で待機していたのが田地門五郎、堀江与四郎の2人だったと記録に残っています。
彼らは江戸に住んでいるため、地方を巡回するには道案内を必要としました。道案内は原則として村の名主たちが務めるべきでしたが、取り締まりの対象が博奕打ちや無宿者なので、そういう者たちを捕まえるには内情をよく知っている者でなくてはなりません。そこで、顔の売れている博奕打ちの親分を道案内に採用する事になって行きます。これを『二足の草鞋』といって、国定忠治と対立した島村の伊三郎もそうでした。
道案内は無報酬でしたが、八州様を後ろ盾にした役得は多かったようです。博奕を見逃してやるからと言って賄賂を貰ったり、払わない博徒は捕まえて江戸に送り、その縄張りは自分のものにしました。
飯盛女と呼ばれる宿場女郎は一軒に二人までという決まりでしたが、それを守っている旅籠屋はありません。見逃してやるからと言って賄賂を貰い、払わない者は捕まえました。
料理屋や分限者(金持ち)の所に顔を出して、何か問題が起きたら俺がうまくやってやると言っては袖の下を受け取ったりしていました。十手をちらつかせて、人の弱みに付け込んでは勢力を広げて行ったのでした。


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