例幣使の一行は60人前後で、1647年から1867年まで、一度も中止される事なく続いたというから驚きです。1846年だけ、天皇が亡くなったために一月遅れになったようです。
上州(群馬県)の中山道倉賀野宿から玉村宿、御料宿、柴宿、境宿、木崎宿、太田宿を通って、野州(栃木県)に入り、八木宿、梁田宿、天明宿、犬伏宿、富田宿、栃木宿、合戦場宿、金崎宿、楡木宿で日光壬生道に合流します。
例幣使は毎年、4月1日に京都を発ち、11日に例幣使道に入って玉村宿に泊まります。次の日、柴宿で小休止して、15日に東照宮に着きました。東照宮の祭りは15日から17日までの3日間行なわれました。
例幣使は天皇が正月の三が日に神前に供えた御飯を乾燥させて乾飯(ほしいい)にした物を持参して、それを菊の御紋の紙に包み、各宿場で宿泊代として配りました。庶民たちはありがたがって大切にして、何にでも効く薬として服用したようです。
金の御幣を東照宮の神前に供えて、去年供えた古い御幣は下げますが、その御幣を細かく刻んで紙に包み、「東照権現様御神体」と書いて、帰途、江戸に寄った時に、大名たちに配ります。大名たちはお礼として相当額の金銭を贈りました。
身分は高くても収入源の少なかった公家たちも例幣使に任命されて、それをやり遂げると裕福な生活ができたようです。
供の者の中にはたちの悪い輩もいたようで、金品をせしめるためには手段を選ばす、宿場の者たちを困らせました。毎年の事なので、宿場の者たちも諦めて、無理難題を言われる前に心付けを差し出していました。
ラベル:街道
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