四代目の持氏の時、五代将軍の義量がわずか19歳で亡くなり、六代将軍を決める前に、四代将軍だった義持も亡くなってしまいます。義持には義量の他には男子はなく、六代将軍になるのは自分以外にはいないと持氏は確信します。ところが、幕府の首脳部は自分の存在をまったく無視して、僧侶となっている義持の4人の弟たちの中からくじ引きで、将軍職を決めてしまいました。くじに当たったのが、後に嘉吉の変で殺される義教です。
持氏は幕府を怨んで、幕府の言う事を聞かずに敵対し続けます。執事役である関東管領の上杉氏とも対立してしまい、ついに、幕府の追討軍に攻め滅ぼされてしまいます。その後、10年間、関東には公方様はいませんでした。
上杉氏が中心になって関東の武士たちをまとめていましたが、やはり、将軍の一族である公方の存在は必要だという事になって、生き残っていた持氏の遺児、成氏が鎌倉に迎えられて公方となります。しかし、五年後、成氏は関東管領の上杉憲忠を父親の仇だと言って殺してしまいます。
関東の武士たちは公方の成氏方と管領の上杉方に分かれて、各地で合戦を始めます。京都で応仁の乱が始まる10年も前から、関東では戦の絶えない戦国の世が始まっていたのです。
幕府も成氏の勝手な振る舞いを黙ってはいません。幕府の大軍に攻められて、成氏は鎌倉を追い出され、下総の古河に逃げます。以後、鎌倉に戻る事ができず、古河を本拠地にしたので古河公方と呼ばれるようになりました。




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