2012年07月12日

勝連按司(かつれんあじ)

勝連グスクの城主、勝連按司は古くから日本との交易をしていたようです。
近くの泡瀬干潟でタカラガイが採れ、それを目当てに遠く日本から商人たちがやって来ました。その取り引きをした者たちが富を守るために築いたのが勝連グスクの始まりでしょう。
やがて、ヤコウガイやホラ貝の取り引きも始めて、ますます、勝連は栄えて行きます。
1259年、伊祖按司だった英祖(えいそ)は舜天(しゅんてん)王統を滅ぼして浦添按司になります。英祖が日本との交易の拠点になっている勝連を放って置くはずがありません。英祖は勝連按司を滅ぼして、一族の者を送り込みます。英祖の死後、大成(英祖王統二代目)の五男が勝連按司になっていますが、それ以前に勝連は英祖の支配下に入っていたと思われます。
英祖王統は三代目の英慈の死後、家督争いが起こり、それに巻き込まれて、各地で争いが始まります。英祖王統もかつての勢いをなくし、五代目の西威は察度(さっと)に滅ぼされます。察度は勝連按司の娘を妻に迎え、勝連按司の力を借りて英祖王統を滅ぼしたのです。
察度は長生きしたので46年間も王として君臨しますが、二代目の武寧(ぶねい)は尚巴志(しょうはし)に滅ぼされます。尚巴志は勝連按司も滅ぼして、妻の兄弟(伊波按司の六男)を勝連按司に任命します。さらに尚巴志は勝連按司の娘を次男の尚忠(しょうちゅう)の嫁に迎え、つながりを強化します。
伊波按司の六男の跡を継いだのは浜川按司です。伊波按司の六男に跡継ぎがいなかったのか、浜川按司が二代続きます。勿論、浜川按司を任命したのは尚巴志でしょう。浜川按司の実力を認め、もしかしたら、娘を嫁にやったのかもしれません。
二代目の浜川按司の跡を継いだのは茂知附(もちづき)按司です。茂知附というのは望月の事だと思いますが、もしかしたら女性かもしれません。浜川按司の娘で、望月ノロを名乗っていましたが、浜川按司に跡継ぎの男子がいなかったため、女性の身で按司になったのかもしれません。尚巴志の孫娘だったので、首里でも認めたのかもしれませんし、その頃、すでに今帰仁(なきじん)グスクも尚氏の支配下にあったので、以前ほど勝連の価値がなくなっていたのかもしれません。日本との交易は勝連よりも今帰仁の方が重きをなしていたようです。
茂知附按司の次は阿麻和利(あまわり)です。茂知附按司を滅ぼして按司の座に就いたのか、茂知附按司の婿に迎えられたのかはわかりませんが、阿麻和利は首里の意向を無視して独自に日本との交易を始め、以前のごとく勝連を栄えさせます。首里の尚王統が家督争いなどで勢力を弱めて行くのを横目で見ながら、阿麻和利は着々と力を蓄え、やがては、察度や尚巴志のように、琉球王になろうと夢見ていたのかもしれません。
首里グスクが炎上してしまう程の家督争いを演じた志魯(しろ)と布里(ふり)の乱の後、家督を継いだのは越来(ごえく)グスクにいた尚泰久(しょうたいきゅう、尚巴志の七男)です。尚泰久は阿麻和利を抑えるために娘の百十踏揚(ももとふみあがり)を阿麻和利に嫁がせます。それでうまく行くかと思われましたが、尚泰久の側近の金丸(かなまる)の思惑通りに阿麻和利は中城(なかぐすく)按司の護佐丸(ごさまる)と争い始めて、共に滅ぼされてしまいます。


尚巴志伝


          

          


ラベル:琉球
posted by 酔雲 at 10:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 琉球王国 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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