2006年11月20日

柴屋軒宗長

連歌師の宗長は駿河の国、島田の刀鍛冶、五条義助の次男に生まれ、武士として今川義忠に仕えます。
19歳の時、駿河に来た宗祇と出会い、連歌師に憧れます。宗祇に弟子にしてくれと頼みますが、断られました。
一時は連歌師の道を諦めて、武士として生きていましたが、25歳の時に、駿河にやって来た伊勢早雲と出会って、早雲の気ままな暮らしを見ているうちに、再び、連歌師への思いが募ってきます。
29歳の時、仕えていた今川義忠が突然の戦死をしてしまい、今川家で家督争いが始まります。今川家が二つに分かれて争いが始まりますが、早雲の活躍で、何とか、今川家は一つにまとまります。
後の事は早雲に任せればいいと、連歌師になる決心を固めて、近江の国にいる宗祇を訪ねます。宗祇は独りで古典の研究に没頭していて、弟子入りを頼むどころではありませんでした。仕方なく、早雲から話に聞いていた一休禅師を訪ねます。宗祇の研究が終わるまでの時間稼ぎに、座禅の修行でもしようかと軽い気持ちで、一休と会いましたが、禅というのはそんな生易しいものではありませんでした。
弟子にしてくれと何度も頼んで、ようやく、一休の弟子になって、厳しい修行に励みます。この時、一休から「宗観」という名を貰っています。
一年余り、一休のもとで修行を積んだ宗観は、文明10年(1478年)の春、念願がかなって宗祇の弟子になりました。1番弟子は夢庵肖柏で、宗観は2番弟子です。それからは3人で旅の日々が続きます。各地の大名に招待されては連歌会を催していました。
「宗長」と名乗りを変えたのは、37歳頃の事です。一休が名付けてくれた名前を変えたのですから、それ相当の理由があるはずですが、今の私にはわかりません。そのうち、調べようと思っています。
宗祇、夢庵と共に有名な「水無瀬三吟百韻連歌」を詠んだのが、41歳の時で、50歳の頃には駿河に帰って、今川氏親や今川家の武将たちに連歌の指導をしています。
54歳の夏、宗祇が越後で倒れたとの報を聞いて、慌てて越後に向かいます。宗祇の供をして越後からの帰途、宗祇は箱根で亡くなってしまいます。宗祇の葬儀を無事に済ませた宗長は「宗祇終焉記」を著します。
57歳の頃、駿府の近くの鞠子(丸子)の山中に柴屋軒を営んで隠棲しますが、世間が放ってはおきません。各地の大名たちから招待されては遠くまで赴き、数々の名作を残して、83歳で大往生を遂げます。

陰の流れ《愛洲移香斎》第四部・早雲登場

摩利支天の風〜若き日の北条幻庵


戦国を往く連歌師宗長  新編日本古典文学全集(61)
タグ:連歌師
posted by 酔雲 at 12:11| Comment(0) | TrackBack(0) | 戦国時代>人物 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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