2012年06月10日

察度(さっと)

察度は浦添(うらそえ)グスクの城主で、初めて明国(みんこく)皇帝から冊封(さっぽう)を受けて琉球中山(ちゅうざん)王になります。丁度、尚巴志(しょうはし)が生まれた1372年に明国から琉球に使者が来ました。
父親は奥間大親(おくまうふうや)で、母親は天女だったそうです。1321年に浦添間切の謝名(じゃな)に生まれ、妻は勝連按司(かつれんあじ)の娘です。
1349年、29歳の時に察度は浦添グスクの城主、西威(せいい)を滅ぼして浦添按司になります。西威は英祖(えいそ)王統の五代目で当時22歳だったそうです。
1372年、51歳の時に明国の使者に従い冊封を受け入れて中山王となって進貢貿易を始めます。亡くなったのは1395年で、75歳まで生きました。
母親が天女とは一体、どういう意味なんでしょうか? 琉球人ではなく、外国の女性だったのでしょうか。
察度がどのようにして浦添グスクを攻め落としたのかも、まったく不明です。当時、一番勢力を持っていたであろう浦添グスクを落とすには、それなりの兵力がなければなりません。妻の実家の勝連按司の兵力は勿論、加わったでしょうが、それだけでは不可能のような気がします。
勝連按司の娘が嫁に来た時、察度は黄金をかなり持っていたと伝えられています。その黄金はどうやって手に入れたのでしょう。当時、黄金を取り引きに使っていたのは日本の商人(倭寇)です。察度は日本の商人と交易をしていたのでしょうか。一体、何を黄金と交換したのかわかりません。螺鈿(らでん)に使うヤコウガイだったのでしょうか。
察度には泰期(たいき)という弟がいて、使者として最初に明国に行っています。母親違いの弟のようですが、もしかしたら、泰期は弟ではなく、若い頃の仲間で、共に船に乗って日本や中国などに行ったのではないでしょうか。
拠点としたのが当時、浮島と呼ばれていた那覇です。浮島はさびれた漁村に過ぎませんでしたが、日本の商人や中国の商人たちが交易の拠点として、住み始めていた頃でした。察度も彼らと一緒に浮島に住み、いつしか首領のような存在となり、財を蓄え、武器を手に入れたのかもしれません。
そして、浮島を見渡せる首里の地にグスクを築いて勢力を広げ、1349年、浦添グスクを攻め落とします。その後は浦添グスクを本拠地にしますが、晩年は浦添グスクを長男の武寧(ぶねい)に任せ、察度は首里グスクにいたのかもしれません。


尚巴志伝


          

          


ラベル:琉球
posted by 酔雲 at 11:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 琉球王国 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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