京都で応仁の乱が始まった頃、関東でも、鎌倉にいた公方様(足利氏)と公方様を補佐する管領の上杉氏が対立して、関東の武士たちを巻き込んで戦が始まります。
天文21年(1552年)、管領上杉氏の本拠地だった平井城が小田原の北条氏に攻め落とされるという事件が起こります。管領の上杉氏が越後に逃げて、上野の国の領主がいなくなると、南からは相模の北条氏康、西からは甲斐の武田信玄、北からは越後の上杉謙信が攻めて来て、上野の国の取りっこを始めます。
この時、草津の領主だった湯本善太夫は草津温泉を守るために、甲斐の武田信玄に仕える事になります。武田軍の先鋒となって吾妻郡に攻めて来たのは真田幸隆でした。善太夫は幸隆に従って、岩櫃城攻めや岳山城攻めに活躍して、その功績によって、長野原の領地を賜ります。善太夫はお礼として、白根山で採れた硫黄を武田信玄に贈っています。
強酸性の草津温泉の湯は殺菌作用が強く、傷の治療にはもってこいでした。戦で負傷した武田軍の兵士たちが大勢、治療のために湯治に来て、草津温泉は賑わいました。
元亀4年(1573年)、武田信玄が上洛の途中で亡くなってしまい、翌年には、信玄の後を追うように真田幸隆も亡くなってしまいます。信玄の跡を継いだ勝頼は父の遺志を継いで、天正3年(1575年)、大軍を率いて上洛を試みますが、長篠で織田と徳川の連合軍に敗れてしまいます。長篠の合戦では武田家の主だった重臣たちが大勢、戦死してしまいます。
湯本善太夫も真田幸隆の跡を継いだ信綱に従って出陣し、長篠で戦死してしまいました。正確な年齢はわかりませんが、40代の半ば頃だったと思います。
長篠の合戦の戦死者



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