光秀は美濃の斎藤道三に仕えますが、弘治2年(1556)4月、道三は倅の義竜に殺されてしまいます。5ヵ月後の9月、光秀のいた長山城も義竜に攻められて落城します。光秀は城から脱出して、放浪の旅へと出ます。当時、30歳前後だったと思われます。
その後、越前の朝倉義景に仕えますが、いつ頃の事なのか、はっきりとしません。信長に仕えたのは永禄10年(1567)頃です。翌年、信長が将軍義昭を奉じて上洛した時に従って、京都で公家衆たちとの交渉に当たっています。この頃、40歳前後です。
元亀2年(1571)、近江の坂本城主となり、5万石を与えられます。
天正3年(1575)、信長の命で惟任日向守と名を改めます。
天正6年(1578)、娘が細川忠興の嫁になります。
天正8年(1580)、丹波攻めの功績によって、丹波の国を与えられます。
天正10年(1582)5月14日、徳川家康の饗応役に任じられますが、17日には秀吉の助っ人として中国地方への出陣を命じられます。その日のうちに坂本城に戻り、26日に丹波の亀山城に向かいます。27日、愛宕山に登り、太郎坊に籠もって戦勝祈願をし、翌日、里村紹巴らと連歌会を催します。この連歌会で、光秀は「時は今‥‥‥」という発句を読みます。
そして、6月2日の早朝、本能寺にいる信長を襲撃します。襲撃に成功した光秀は夕方には坂本城に帰り、5日には安土城に入ります。9日に京都に入り、13日、山崎で中国地方から戻って来た秀吉軍と戦って敗れ、坂本に戻る途中、残党狩りに遭って殺されます。
17日、光秀の首は本能寺にさらされますが、腐敗がひどく、本人かどうか識別はできなかったそうです。
光秀が家康の饗応役を続けていれば、本能寺の変は起きなかったでしょう。この時、光秀が信長に対して殺意を持っていたのかどうかはわかりませんが、坂本城に戻った17日から6月1日までの間に、信長襲撃の決心を固めます。その間に何かがあった事は確かです。光秀独りだけの考えではなく、黒幕がいたに違いありません。その黒幕は誰だったのか、真実は闇の中です。








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