2006年10月29日

松阿弥

応仁の乱の頃、西軍の大将だった山名宗全の身辺に首斬り名人と恐れられた念流の達人がいました。
その名は松阿弥、時宗の僧侶です。東軍が放った刺客から宗全を守っていた松阿弥でしたが、三十歳の半ば頃、労咳(肺結核)に罹ってしまいます。
山名宗全が病死した頃にはかなり悪化していて、世話になった宗全のために、東軍の大将、細川勝元の暗殺を謀ります。勝元を殺し、自分も死ぬ覚悟でしたが、あっけない程、簡単に勝元は死に、自分は生き延びてしまいます。それから数日後、勝元は流行り病に罹って急死したと発表されました。
元々、赤松家の家臣だった松阿弥は最後に、赤松家のために働こうと、赤松家の重臣、浦上美作守を頼ります。そして、与えられた仕事は、赤松家に害をなす太郎坊という山伏の暗殺でした。
松阿弥は播磨の国へと行き、太郎坊と決闘をします。太郎坊は予想外に強く、剣に生きてきた自分が剣によって死ねるのは本望だと覚悟を決めますが、労咳の発作に襲われ、血を吐いて倒れます。いよいよ、死ぬ時が来たと思いましたが、敵の太郎坊に助けられて、またもや、生き延びてしまいます。
太郎坊の仲間たちの看病を受けて、立ち直った松阿弥は剣を捨てて、但馬の国へと行きます。それから、三年後、松阿弥は読み書きを教えていた子供たちに囲まれながら、安らかな死を迎えます。
歴史は常に権力者によって作られます。そして、時の権力者にとって都合の悪い事実は抹消されてしまいますので、松阿弥が実在したかどうかはさだかではありません。

松阿弥の略歴 念流

陰の流れ《愛洲移香斎》第二部・赤松政則


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ラベル:武芸者
posted by 酔雲 at 09:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 戦国時代>人物 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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