2006年10月26日

太田道灌

江戸城の創始者として有名な太田道灌(どうかん)は文武両道の名将でした。
数々の伝説も生まれて、特に『山吹の里』の話は有名です。
ある日、鷹狩りに出掛けた時、俄か雨が降って来て、農家に立ち寄った若き日の道灌は、蓑(みの)を貸してくれと頼みます。出て来たのは美しい娘でしたが何も言わずに、ただ一輪の山吹の花を捧げました。道灌は娘の態度に腹を立てて、雨に濡れながら城に帰りました。
和歌に詳しい家臣にその事を話すと、その娘が山吹の花を捧げたのは、『七重八重花は咲けども山吹のみのひとつだになきぞ悲しき』という古歌に託して、蓑の一つもない貧しさを訴えたのだろうと言います。道灌は自分の無知を恥じて、以後、歌道に精進したと言われています。
これは江戸時代に作られた伝説です。
実際の道灌は子供の頃から鎌倉の建長寺や足利学校で学問を学んだ秀才でした。24歳で太田家の家督を継いで、扇谷(おおぎがやつ)上杉家の執事となります。26歳の時に江戸城を築城して、その後は上杉方の中心となって関東中を走り回って、古河公方と戦い続けました。
頭を丸めて道灌と号したのは47歳の時です。幼い頃は鶴千代、元服して源六郎、22歳からは備中守を名乗っています。
55歳で暗殺されてしまいましたが、その生涯は戦に明け暮れていたと言ってもいいでしょう。しかし、戦の合間に、京から下向して来られた文人たちと交わって古典に親しみ、和歌や漢詩を楽しみ、連歌会、お茶会などを催していました。
道灌がいた江戸城の城下は、応仁の乱で焼け野原になる前の京の都のように栄えていたと言われています。

陰の流れ《愛洲移香斎》第四巻・早雲登場

銭泡記〜太田道灌暗殺の謎


名将言行録  江戸城  永井路子の日本史探訪  家康はなぜ江戸を選んだか


ラベル:武将
posted by 酔雲 at 09:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 戦国時代>人物 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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