京都東山の粟田口に草庵を結んで、行き交う人にお茶を勧めていたといわれます。名物茶道具など一切所持せず、燗鍋一つだけで食事も茶の湯も楽しんでいたようです。
豊臣秀吉が善法の事を聞いて、善法が持っていた燗鍋を捜させましたが見つからず、利休に同じ物を作らせて、それを愛用したと伝えられています。
善法に関してはそれ以上の事はわかりません。そこで私は考えました。
善法は応仁の乱の頃、「伏見屋」と称した羽振りのいい商人で、幕府の重臣たちとも取り引きをしていました。しかし、ある日、足軽連中に店を襲撃されて、家族を殺されてしまいます。
家族を失った伏見屋は生きる目的を失い、奈良にいた師の珠光を訪ね、珠光の茶の湯のために全財産を使い果たします。無一文になった伏見屋は、銭が泡と消えたので、銭泡と名乗り、頭を丸めて放浪の旅に出ます。
一流の茶の湯の腕を持ちながら、銭泡は乞食坊主として各地をさまよい、関東を旅している時に、空腹で倒れてしまいます。その時、助けてくれたのが、江戸城主の太田道灌の父親でした。銭泡は助けてくれたお礼に茶の湯を披露します。
珠光が編み出した『侘び茶』は関東でも有名になっていましたが、教えてくれる者はまだ関東にはいません。銭泡が『侘び茶』を心得ている事を知った道灌は銭泡を江戸城に招待します。そして、道灌に茶の湯の指導をする事になります。
その事が噂になって、銭泡は各地の大名から招待されて、茶の湯の指導をしていましたが、晩年には京都に戻り、名を善法と改めて隠棲しました。
という事にして、小説に登場していただきました。善法さん、間違っていたら、すみません。きっと、怒らないと思いますが‥‥‥
伏見屋銭泡の略歴


※銭泡は陰の流れ第三部・本願寺蓮如の17.早雲庵に登場し、第四部・早雲登場では太田道灌と共に重要な場面に登場します。





ラベル:茶の湯
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粟田口善法さんと縁がありまして調べています。
後半はご想像で作られた話と存じておりますが、最初の
「豊臣秀吉が善法の事を聞いて、善法が持っていた燗鍋を捜させましたが見つからず、利休に同じ物を作らせて、それを愛用したと伝えられています。」
この部分はどちらの文献を参考にされましたでしょうか?
「燗鍋を捜させましたが見つからず」という探したけど見つからなかったという事象は興味深く、参考にされた文献等ございましたら教えていただければ幸いです。
お訪ねの件ですが、コピーはあるのですが、資料の名前がわかりません。
多分、表千家だか裏千家だか忘れましたが、何冊もあるシリーズの中の1冊に、茶の湯者の列伝がありました。善法の事もその中に載っていたと思います。
コピーを引用すると、
粟田口の良恩寺所蔵で、瑞方面山という僧侶の書いた「偏提鑵記」や飯田忠彦著「野史」の粟田口善法伝を見ると、更に委しい事柄がわかるし、良恩寺の什宝として善法愛用手取釜の写が伝わり、それには副え幅物として秀吉の朱印状まで附いている。
(中略)
秀吉がふとした機会で善法のこの風流事を耳にし、これを慕い、利休に命じて、その手取釜のありかを探させたが、わからなかった。秀吉は非常に残念に思い、また利休に命じ、善法の愛用したという茄子形の手取釜の写し物を作らせた。それが出来ると、秀吉はひどく喜び、晩年に至るまで、これを愛用したという。この秀吉愛用の手取釜は、現に華頂山良恩寺の什宝として伝わっている。
とあります。
大変ご丁寧なご回答ありがとうございました。
また、このためにコピーを出してきていただきありがとうございます。
大変興味深い内容で、善法さんのすこし違った一面が見えています。文中にある「偏提鑵記」と「野史」にはたどり着けそうなので更にそこで調べてみようと思います。
この度は誠にありがとうございました。