室町時代から戦国時代にかけて、武将の嗜みの一つに連歌がありました。
連歌とは数人が集まって句の詠み合いをする即興的な遊びで、まず、師匠格の人が発句と呼ばれる五・七・五の句を詠みます。次に、亭主格の人が脇句と呼ばれる七・七の句を詠み、師匠の次の位の人が第三句の五・七・五を詠み、それから順番に、七・七の句、五・七・五の句と詠んで行きます。100句まで詠むのが普通で、百韻連歌と呼ばれます。
発句には季語を入れて、その句だけで独立していなければなりません。脇句は発句と同じ季節を詠み、発句からあまり離れていてはいけません。第三句は発句と脇句に関連しながらも、変化する事を重要視します。同じ所をグルグル回っていては発展しないので、少し、目先を変えなければならないのです。
連歌をするには古典の和歌を知らなければならないので、武将たちは合戦の合間に「古今和歌集」や「源氏物語」などを読んで勉強していたのです。
宗祇は相国寺の僧で、30歳頃、寺を出て、東山の近くに草庵を結んで連歌の修行を始めます。40歳を過ぎてから連歌師としての名が広まります。
48歳の時に、応仁の乱が始まり、宗祇は戦を避けて関東へと旅立ちます。この時、江戸城主の太田道灌に歓迎されて、しばらく、江戸に落ち着きます。
53歳の秋、近江の飛鳥井雅親邸内に種玉庵を営み、古典の研究に没頭します。連歌会所の奉行職に就いたのは68歳の時でした。
武将たちから招待を受けては遠くまで出かけて行き、82歳で亡くなる時まで、旅を続けていました。弟子で有名なのは夢庵肖柏と柴屋軒宗長です。
現在も盛んに行なわれている俳句は、江戸時代になって、連歌の発句が独立したものです。
種玉庵宗祇の略歴

※宗祇は陰の流れ第三部・本願寺蓮如の35.再会その2に登場します。






ラベル:連歌師
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