2006年09月19日

木下藤吉郎

木下藤吉郎というのは豊臣秀吉の若い頃の名前です。37歳の頃、羽柴姓に改めるまで、木下姓を名乗っていました。
木下というのは藤吉郎の実の父親の姓です。実の父親は武士で、藤吉郎が幼い頃に戦死しました。母親はお茶坊主だった筑阿弥と一緒になって、藤吉郎を育てます。
藤吉郎が生まれた頃、那古野城には今川氏がいました。駿河の今川氏の分家です。織田信長の父親、信秀は今川氏をだまし討ちにして、那古野城を奪い取ってしまいます。
私が思うに、藤吉郎の父親は那古野城の今川氏に仕えていたのではないでしょうか。
信秀は今川氏とつながりのあった者たちを皆殺しにしてしまいます。身の危険を感じた藤吉郎の母親は筑阿弥と一緒になって、藤吉郎を守ります。
お茶坊主の筑阿弥は信秀に利用されて、今川氏に近づいて茶の湯の指導をしていました。那古野城が襲撃された時、その場にいて、自分が騙されたことを知って嘆きます。そして、藤吉郎の母子を匿う決心をして、茶の湯の捨てて農民になるのです。
実の父親の事を知った藤吉郎は木下家を再興するために立派な武士になろうと頑張ります。木下家を再興するのは、唯一生き残った自分しかいないんだと張り切ります。
父親と同じ今川家に仕えようと駿河まで行きますが、仕官はかなわず、遠江の国で松下佐右衛門のもとで侍奉公を始めます。3年近く奉公しますが、思った程の出世はできず、尾張の国に戻った藤吉郎は蜂須賀小六たちの仲間に入って野武士となります。
織田信長に仕えるまでの藤吉郎は何もかもが思うようには行かず、何度も悩んだり迷ったりしています。信長との出逢いによって、ようやく、空高く羽ばたく事になるのです。
余談ですが、昔、「今にみておれ」というテレビドラマで、なべおさみさんが藤吉郎を演じていました。藤吉郎というとなぜか、あの時のなべおさみさんのイメージが浮かんできます。その時、藤吉郎の妻、ネネの役をやったのは大原麗子さんでした。

藤吉郎伝―若き日の豊臣秀吉


豊臣秀吉事典コンパクト版  太閤の手紙  天下を獲った男 豊臣秀吉  太閤記  太閤記〜サルと呼ばれた男
ラベル:武将
posted by 酔雲 at 12:20| Comment(3) | TrackBack(1) | 戦国時代>人物 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
八月二十五日から九月二十五日迄楽しませて頂きました。中々のご苦労痛み入ります。
私も七月二十日から<a href="http://adachi51.at.webry.info/200608/article_9.html">「何を教えるか」</a>というブログを書き始めました。
親が子を殺し、子が親を殺す、それも良い子と言われている中で起きている情景を危うく思い、書き始めました。これまでも少しは歴史も出てきますが、歴史が出てくるのはこれからが本番です。
歴史を踏まえて、今の時代にどう発信をするか模索しております。
できます事なれば、おいでてコメントを頂きたく存じます。
宜しくお願い致します。末永きお付合いさせて頂ければ幸いです。
Posted by Hbar at 2006年09月20日 21:12
どうもはじめましてサムライという者です^^

最近の研究の結果では、木下姓は藤吉郎の代になってはじめて使われだしたもので、弥右衛門のときには木下という苗字がなかったことが明らかになってますね。それが後世になって木下藤吉郎の父親だから弥右衛門も木下姓を名乗った木下弥右衛門だったであろうと誤った認識をされたんですね。
Posted by サムライ乾 at 2006年10月01日 15:25
こんにちわ一号きましたみなさんひでよしといえBA------------やっぱりしずがたけの合戦DEしょう
かっくいいよNE。
Posted by ひでっちしかありえん一号 at 2007年04月11日 18:54
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Tracked: 2006-09-20 01:36
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