2006年08月29日

大戸の加部安左衛門

上州吾妻郡大戸村に代々、加部安左衛門を名乗る上州一の分限者がいました。みんなから加部安(かべやす)と呼ばれて親しまれていました。
初代は富沢掃部といって、戦国時代に生きた武士だったようです。
三代目から加部姓を名乗ります。三代目から五代目までは八右衛門を名乗っていて、六代目から安左衛門を名乗っています。
七代目の加部安が立派な人だったようで、酒造業を始めて、麻の仲買いなどもして、財産を蓄えます。
八代目も立派な人で、父親の稼業を継いで財産を増やし、巨万の富を蓄えます。
天明三年(1783年)に浅間山が大噴火を起こして、鎌原村をはじめとして吾妻郡の村々は壊滅状態となり、避難民が溢れます。八代目は財産を惜しまず、避難民の救済に当たります。翌年の正月、その功績によって、幕府より帯刀を許されます。天明六年の大洪水の時も、避難民たちを救っています。
九代目は婿養子で、松井田の分限者、儘田又兵衛の次男だったようです。
十代目は八代目の長男で、学問を好みましたが、それ以上に遊興を好み、江戸に出ては、吉原遊廓で派手に豪遊していました。お陰で、父親の残した財産も使い果たしてしまいました。晩年は江戸で暮らしていたようです。
十一代目は江戸で生まれて、江戸で育ちますが、郷里に戻って、家業の建て直しを図ります。この十一代目は侠客の国定忠治とも仲がよく、忠治が処刑される時、最期に望んだのが、加部安が造った銘酒「牡丹」でした。
十二代目は琴堂と号して、俳諧に熱中します。明治の時代になって、横浜に進出して大きな店を出し、貿易に手を染めますが、どうやら失敗したようです。
現在、大戸の関所跡の近くに加部安の屋敷跡がひっそりと残っています。

天明三年浅間大焼 鎌原村大変日記


ラベル:分限者
posted by 酔雲 at 15:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 江戸時代>人物 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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