2006年08月25日

ずいせん学徒隊

戦後、ずいせん学徒隊と呼ばれるようになった県立首里高等女学校は首里の桃原町にありました。
明治30年創立の女子工芸学校が、昭和18年に県立女学校になります。昭和の初め頃まで、首里城内の御殿を校舎として使っていたようです。
昭和19年の夏頃から首里高女は軍の被服工場になって、生徒たちは毎日、軍用の蚊帳を作ったり、軍服の繕いや兵隊の死に装束も縫ったりしていました。
昭和20年1月、四年生は石部隊(第62師団)の野戦病院に配属される事が決まって、看護教育が始まります。同じ頃、沖縄守備隊(第32軍)の司令部が首里に移って来て、大勢の兵隊たちが続々と集まって来ます。司令部の地下壕掘りの作業も始まり、緊迫した空気が漂って来ます。
3月になると山城病院で実地訓練に入ります。23日から敵の空襲が始まり、28日に昭和高女(梯梧学徒隊)の生徒と一緒に石部隊の野戦病院に配属されます。石部隊の野戦病院は崎山町にある通称ナーゲラ壕と呼ばれる人工壕でした。
司令部があるため、敵の攻撃が集中して、首里は壊滅状態になります。
5月下旬、いよいよ、敵が目前に迫って来て、司令部は南部に撤退します。司令部を追うように、石部隊の野戦病院も島尻の米須を目指して南下します。炸裂する艦砲弾と降りしきる雨の中を、生徒たちは泥まみれになって南へと移動しました。
6月の初め頃はまだ南部は平和でした。爆弾も落ちて来ないし、畑には野菜もいっぱいありました。小川に入って、髪を洗ったり、洗濯したりと楽しくやっていましたが、3日後には南部にも爆弾が落ちて来るようになります。
石部隊の野戦病院の本部壕は米須にありましたが、ずいせん学徒隊は伊原の壕に入ります。今、ずいせんの塔が立っている所です。
6月19日の早朝、近くにあった陸軍病院第三外科壕が敵の攻撃を受け、同じ日、ずいせん学徒隊のいる伊原の壕も攻撃を受けます。
ずいせん学徒隊は61名が入隊して、33名が亡くなりました。

沖縄二高女看護隊 チーコの青春


ずいせん学徒の沖縄戦  沖縄戦と民衆


ラベル:沖縄戦
posted by 酔雲 at 12:46| Comment(0) | TrackBack(0) | 昭和時代>戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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