2006年08月22日

沖縄県知事 島田叡 

十・十空襲の後、県庁は焼け残ったにもかかわらず、県知事は普天間に避難したまま戻っては来ませんでした。内務省の勧告があって、11月の初めにようやく那覇に戻りますが、年末に公用のためと言いながら沖縄を離れ、その後、香川県知事になってしまいます。
沖縄は見捨てられた、もう知事も来ないだろうと県民は諦めていましたが、翌年の1月31日、新しい知事、島田叡(あきら)氏が赴任して来ます。
神戸二中、三高と野球部で活躍し、当時、大阪府の内政部長を務めていた島田氏は、「俺が行かなければ誰が行く」と死を覚悟して沖縄に赴きます。
島田知事は県民に疎開を勧めるために村々を巡り、気安く民家に立ち寄って、村人たちと一緒に酒を飲んだりして疎開の必要性を説いて回ります。当時の知事は天皇陛下に任命された偉い人で、一般の人たちと気楽に話をするなんて考えられませんでした。そんな知事が突然、村にやって来て、偉ぶる事もなく話をするので、村人たちは感激してしまいます。
食糧が不足している事がわかると自ら危険も顧みずに台湾に飛んで、米の調達もして来ます。
3月23日から空襲が始まり、4月1日に米軍が上陸して、爆弾が絶え間なく落ちて来る厳しい状況になっても、安全な壕の中に留まることなく、県庁職員たちの先頭に立って、避難民たちに適切な指示を与え、安全な場所に誘導したりと県民のために働き続けます。
5月22日、軍司令部は首里を捨てて南部に撤退します。島田知事も識名の壕から志多伯の壕に移り、さらに、座波の「秋風台の壕」、伊敷の「轟の壕」、そして、軍司令部のある摩文仁の壕へと移動します。
6月23日の早朝、司令官の牛島中将が自決した後、島田知事は摩文仁の壕を出て、消息を絶ちます。
沖縄県民のために最期まで戦った島田知事は「島守の塔」に眠っています。

沖縄二高女看護隊 チーコの青春


沖縄の島守  図説沖縄の戦い  日本最後の戦い


ラベル:沖縄戦
posted by 酔雲 at 13:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 昭和時代>戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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