2006年08月14日

沖縄陸軍病院

第32軍直属の陸軍病院は熊本の陸軍病院において編成されました。病院長は広池軍医中佐で、那覇の開南中学校に本部が置かれました。
10月10日の空襲で本部のあった開南中学、外科のあった済生会病院、兵舎として使用していた第二中学も皆、破壊されて、南風原の国民学校に移動します。
翌年の2月、師範学校女子部と第一高等女学校の生徒が陸軍病院に配属される事が決まり、看護教育が始まります。米軍の攻撃が始まった3月23日の翌日、女学生たちは補助看護婦として南風原の陸軍病院に入隊します。
女学生たちの宿舎として三角兵舎が宛がわれますが、米軍の攻撃が厳しくなり、4月には黄金森に掘られた病院壕に移ります。米軍が上陸すると、前線から次々に重傷患者が運ばれて来て、女学生たちは看護婦と共に休む間もなく、過酷な条件のもとで看護活動を続けます。
5月の末、米軍の猛攻に対抗する事ができず、第32軍の司令部は首里から撤退して南端の摩文仁を目指します。陸軍病院も本隊を追うように、南風原から南へと移動となります。南部には自然壕がいくつもあり、病院本部は山城の自然壕へ、第一外科は伊原の自然壕へ、第二外科は糸洲の自然壕へと移ります。第三外科も伊原の自然壕に移りますが、第一外科とは別の壕で、現在、ひめゆりの塔のある壕です。
6月18日、解散命令が出て、女学生たちは陸軍病院から開放されますが、すでに敵兵が近くまで迫って来ていて逃げる所などありません。爆弾の降りしきる中を大勢の避難民たちと一緒に逃げ惑い、亡くなった女学生も大勢います。第三外科壕では解散の翌朝に米軍の攻撃を受けて、女学生や看護婦たち、80人余りが亡くなっています。

沖縄二高女看護隊 チーコの青春


ひめゆりの塔  あゝひめゆりの塔  ひめゆりと生きて  ひめゆりの塔学徒隊長の手記


ラベル:沖縄戦
posted by 酔雲 at 12:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 昭和時代>戦争 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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